第二十五話
体が戻るまで、魚の群れが十回は浅瀬を行き来した。
頭に噛みちぎられたところは休めば休むだけ埋まっていって、HPもMPも全部戻った。それどころか、前よりずっと大きく、ずっと重くなっていた。
頭の霊核が俺の芯にどっしり座っている。
湖の主のときと同じで、しばらくはその重さに体がついてこなかった。でもだんだん馴染んでいく。
馴染まないのは底に残した声だけだった。
――こどもたちを。
噛み砕かずに、取っておいた声。
ときどきふっと浮かんできて、そのたびに胸の穴の縁がざらっとした。
その間、群れは一度も湖に来なかった。
見張りと成獣の二頭。あいつらは頭が湖の中の何かに殺されるところを見ている。もう二度と、この水には近づかないだろう。
代わりに、岩場の向こうから知らない匂いが流れてくるようになった。
少し苦くて、湿った土と何かが焦げた匂い。
隣の群れだ。
頭がいなくなって縄張りの見回りが途絶えた。目印の匂いが薄くなったところに、隣の群れがじわじわと入りこんできている。
前に俺がわざとばらまいたのと同じ匂いだ。
今度は、本物だ。
……じゃあ、巣穴の連中はどうなる?
確かめに行くことにした。
匂い写しで、頭の匂いをまとう。
〈MP:25→24〉
一番強くて一番偉そうな、あの匂い。喰ったときに全部覚えた。
岩の匂いじゃなくて頭の匂いにしたのは、隣の群れのやつらと鉢合わせしたときのためだ。頭の匂いがすれば、向こうも一瞬はひるむかもしれない。
……まあ、嘘だけどな。
本当はなんとなくそうしたかっただけだ。
岩場を抜けて、巣穴へ向かう。
〈MP:24→22〉
途中で隣の群れの匂いがどんどん濃くなっていった。巣穴へ続く匂いの帯の上に、知らない足跡がいくつも重なっている。
嫌な予感がした。
巣穴は、空っぽだった。
熱感知を向けても、入口にも奥にも灯りはひとつもない。
骨の転がった広場には、隣の群れの匂いがべったり残されていた。新しい目印だ。ここはもう自分たちのものだ、という。
見張りと成獣の二頭の匂いは、巣穴から縄張りの奥のほうへ続いていた。
追い出されたんだ。
子どもたちを連れて、どこかへ逃げたんだろう。
……そうか。
ならいい。生きてるなら、それで――
そのとき、熱感知の端で小さな灯りがひとつ、ちかっと揺れた。
巣穴の入口の、崩れた岩の隙間。
すごく小さい。盲鼠より少し大きいくらいの灯りが、岩と岩のあいだに挟まってじっと丸まっている。
――っ。
近づいた。
子どもだった。
頭の腹のそばにいた、ふたつの灯りの片方。
岩の隙間に体を押しこんで震えていて、息が浅い。後ろの脚の片方から、血の匂いがした。
群れ同士の争いの晩に気のせいだと思った、きゃん、という声。
あれは、こいつだったのか。
置いていかれたんだ。
足を怪我した子どもは、群れが逃げるのについていけなかった。見張りと成獣たちは、待たなかった。
頭が、そう教えたからだ。
足の遅いやつに合わせていたら、群れが危なくなる。だから待たない。兄弟でも、待たない。
あいつらは、頭の教えを守っただけだ。
……ふざけんなよ!
誰に言ったのか、わからなかった。
頭に言ったのか。逃げた三頭に言ったのか。
それとも、隣の群れの匂いを巣穴のそばに置いた、俺自身に言ったのか。
子どもが、鼻をひくつかせた。
小さな鼻先が、こっちを向く。
俺の匂いを嗅いでいる。
いや、嗅いでるのは俺がまとっている頭の匂いだ。
子どもの喉が、きゅう、と鳴った。
岩の隙間から、怪我した後ろ脚を引きずりながらふらふらと這い出してくる。
頭の匂いを追って。
俺のほうへ。
……やめろ。来るなって!
お前の親を殺したのは、俺だぞ。
子どもは止まらなかった。俺の体の端まで来て、鼻先をぐいっと押しつけてきた。それから俺の体に寄りかかって、ぺたんと座りこんだ。
温かかった。
小さくて、軽くて、震えていて、温かかった。
喰えば、いい。
頭の中で、冷たい声がした。
狼の子だ。喰えば、系統の記録が一つ増えるかもしれない。経験値も少しは入る。ほっといても、どうせ隣の群れに見つかって喰われる。
損得で言えば、喰うべきだ。
わかってる。
わかってるんだけどさ。
――こどもたちを。
底に残しておいた声が、また浮かんできた。
続きは、やっぱりない。
頭は最後に何を言いたかったんだろう? 守れ、なのか。頼む、なのか。それとも、近づくな、なのか。
わからない。わからないから、勝手に決めることにした。
「……一頭だけな」
声は出なかった。
子どもは俺に寄りかかったまま、目を閉じていた。
子どもを、湖まで連れて帰った。
連れて帰るといっても、俺には腕がない。体を広げて、子どもを包みすぎないように、そっと上に乗せる。溶解はぜったいに使わない。硬殻で表面を少し固めて、柔らかい台にする。
〈MP:22→21〉
その上で子どもを揺らさないように、ずるずると這う。
途中で何度か子どもが体の上からずり落ちかけて、そのたびに止まって乗せ直した。
湖の岸の岩の割れ目に、盲鼠の巣に少し似た狭くて乾いたくぼみを見つけて、そこに子どもを下ろした。
それから、魚を獲ってきた。
いつもなら包んで溶かして喰うところを、溶かす途中で止める。どろどろにほぐれた身を、子どもの鼻先に置いてみる。
〈MP:21→20〉
子どもは、しばらく匂いを嗅いでいた。
それから、ぺろっと舐めた。
もう一回。もう一回。
夢中で舐めはじめた。
……喰った。喰ったよ、おい!
前の世界で、段ボールの子犬に牛乳を置いて帰った朝のことを思い出した。
あのときは、置いて帰るしかなかった。
今は置いて帰る場所なんかない。俺の帰る場所はこの湖だけだ。
【ステータス】
個体名:ヴォイド
種族:腐肉の粘体
段階:1
レベル:14/15
HP:146/146
MP:20/25
攻撃:24
防御:17
敏捷:18
魔力:17
固有スキル:喰掠の理、変質者、■■■
スキル:溶解Lv4、硬殻Lv4、熱感知Lv2、震覚Lv2、水化Lv3、水弾Lv3、匂い写しLv5、吸血Lv2、反響感知Lv1、噛砕Lv3、威圧Lv1
夜、岩場の向こうで遠吠えが聞こえた。
隣の群れだ。数が多い。何頭もの声が重なって、縄張りを広げた勝ち鬨を上げている。
進化に必要な餓狼の記録は、あと七頭。
あの声の主たちが、ちょうどそれくらいいる。
くぼみの奥で、子どもがぴくっと耳を動かした。小さく、きゅう、と鳴く。
俺は子どもの前に体を広げて、くぼみの入口を塞いだ。
腐った肉の塊が、狼の子の番をしてる。
……なにやってんだろうな、俺。




