第二十四話
浅瀬の水は、もう膝までしかなかった。
頭は俺を口にくわえたまま、大きく首を振った。
ぶんっ。
体が振り回される。噛みしめられたところを中心に、残りの全部が遠心力で引きちぎられそうになる。
〈HPが減少しました。HP:61→40〉
ぐあっ……!
もう一回。
〈HPが減少しました。HP:40→25〉
ちぎれる。このままじゃ、ほんとにちぎれる!
深みに戻る? もう無理だ。頭はがっちり浅瀬に立っていて、俺はその口の中だ。錨も外した。崖の縁までは狼の体ひとつぶん離れてる。
ここは、もうあいつの卓だ。
――でも、決めてあった。
浅瀬で捕まったら、脇腹を狙う。
振り回されながら、熱感知を頭の体に向けた。
左の脇腹の毛皮の下に、ひときわ熱い場所がある。群れ同士の争いでできた傷だ。治りかけてはいるけど、まだ塞がりきってない。血の匂いがずっとしていた場所。
噛まれてる体の端から、その場所まで、体を伸ばす。
頭の顎の下を回って首筋を伝い、肩を越えて。
頭が気づいて、また首を振った。
離されてたまるか!
硬殻で、伸ばした体を頭の毛皮に張りつける。
〈MP:11→10〉
脇腹に届いた。
牙を作る。
〈MP:10→9〉
傷口に――噛みつく!
がちっ!
頭の体が、びくんと跳ねた。
口が一瞬ゆるむ。噛みしめられていた俺の体が、少しだけ自由になる。
その隙に、吸血。
〈MP:9→8〉
傷口から熱いものがどっと流れこんできた。頭の体力だ。今まで吸ったどの獲物より熱くて濃い。
〈HPが回復しました。HP:25→31〉
それから、溶解。
〈溶解を発動します。MP:8→7〉
傷口の奥へ、酸を流しこむ。
頭が吠えた。
聞いたこともない声だった。痛みと、怒りと、それから何か別のものが混じった、腹の底からの叫びだ。
頭が俺をくわえたまま浅瀬を転げ回った。
水しぶきが上がって、砂が舞う。頭は自分の体ごと俺を浅瀬の底に叩きつけて、脇腹から引き剥がそうとする。
〈HPが減少しました。HP:31→18〉
離さない。
ここで離したら、もう二度とこの傷には届かない。
〈吸血の熟練度が上昇しました。吸血Lv1→Lv2〉
吸う。
〈MP:7→6〉
溶かす。
〈溶解を発動します。MP:6→5〉
噛んで吸って溶かすのを、全部いっぺんに。MPがすごい勢いで減っていく。
頭の動きがだんだん重くなっていく。転げ回る勢いが落ちて、四本の脚で踏ん張るのがやっとになる。
それでも、口は離さない。俺の体を、最後まで噛みしめている。
〈溶解を発動します。MP:5→4〉
そのとき、岸で足音がした。
三頭ぶん。熱感知を向けると、群れの残りだった。見張りと、成獣の二頭。頭の叫び声を聞いて、巣穴から駆けつけてきたんだ。
三頭は水際で止まって、毛を逆立てた。
頭が浅瀬で何かと戦っている。湖の中の、仲間を引きずりこんできた何かと。
見張りが前脚を水に入れた。来る気か!?
三頭まとめて来られたら、今の俺じゃ――
そのとき、頭が吠えた。
俺をくわえたまま、喉の奥から、短く、鋭く。
がうっ!
三頭の足が、止まった。
もう一度、頭が吠える。今度はもっと低く。
来るな。
そう言っているように聞こえた。
見張りは水に入れた前脚を、ゆっくり引いた。三頭は水際で身を寄せあって、頭のほうを見つめたまま、もう一歩も近づいてこなかった。
……お前、仲間を守ったのか?
自分が死にかけてるのに。俺を殺すより先に、群れをこの水から遠ざけたのか。
〈MP:4→3〉
噛砕の牙に、最後の力をこめる。
〈溶解を発動します。MP:3→2〉
頭の脚が折れた。
浅瀬に、どさりと体が倒れる。半分は水に浸かって、半分は砂の上に出ていた。
口がゆっくり開いた。
噛みしめられていた俺の体が、ずるりと外にこぼれる。
〈HPが減少しました。HP:18→9〉
最後の一噛みがこぼれる間際に俺を削っていった。
頭は、もう動かなかった。
ただ横倒しになった顔だけが、岸のほうを向いていた。
水際の三頭を。
その向こうの、巣穴のある岩場を。
勝った。
……勝ったんだよな、俺。
浅瀬に広がったまま、しばらく動けなかった。HP9。MP2。体はずたずたで、噛まれたところはごっそりなくなっている。
水際の三頭が、頭を見ていた。
誰も近づいてこない。頭がそう言ったからだ。
やがて見張りが小さく鳴いた。それを合図に、三頭はゆっくり背を向けて、岩場のほうへ去っていった。
振り返ったのは見張りが一度だけだった。
喰掠の理。
頭の体は、まだ温かかった。
でかくて、喰っても喰っても終わらない。硬い肉も太い骨も濃い血も、その全部が俺の中に流れこんでくる。
熱い塊が、ほどける。
いや、ほどけるなんてもんじゃない。湖の主のときみたいに、重なってくる。どさっと、俺の霊核の上に覆いかぶさってくる。
そして、声が来た。
群れの一番後ろを歩いていた、小さな狼の記憶。
足の遅い兄弟がもう一頭いた。同じ腹から生まれた、後ろの左脚の弱い兄弟。いつも二頭で、群れの一番後ろを走っていた。
前の頭を倒して、群れの頭になった日。
糸の匂いがする広間に、群れで迷いこんだ日。若いのが二頭、網にかかった。助けに行った。でかい何かの牙が、顔をかすめた。若いのは助けられなかった。
それからは、群れを守ることだけ考えた。
足の遅いやつに合わせていたら、群れが危なくなる。だから待たなかった。兄弟でも、待たなかった。毎晩、水際で一番最後に飲む兄弟を、振り返らなかった。
振り返ったら、待ってしまうから。
――ゆるせ。
最後尾がいなくなった晩、頭はひとりで湖の岸に来て、兄弟の匂いが残る砂を、長いこと嗅いでいた。
副の匂い。乳の匂い。巣穴の奥の、小さな灯りふたつ。
最後に浅瀬で、湖の中の何かを見たとき。
怒りの奥に、ひとつだけ、別のものがあった。
――こどもたちを。
その続きは、なかった。
噛み砕こうとして、なかなか噛み砕けなかった。
噛み砕けなかったから、少しだけ、そのまま底に残しておいた。
〈捕食を完了しました〉
〈対象:餓狼の長 Lv14〉
〈経験値300を獲得しました〉
〈うち30は上位領域へ転送されました〉
〈経験値270を取得しました〉
〈レベルが上昇しました。Lv12→Lv13〉
〈レベルが上昇しました。Lv13→Lv14〉
〈能力値を吸収しました〉
〈技能の解析を開始します〉
〈対象技能:噛砕Lv5――解析成功〉
〈技能【噛砕】は保有技能【噛砕】と同一です。自動で統合します〉
〈噛砕Lv2→Lv3〉
〈対象技能:統率Lv3――解析失敗〉
〈対象技能:嗅覚Lv4――解析成功〉
〈技能【嗅覚】は保有技能【匂い写し】と同系統です。自動で統合します〉
〈匂い写しLv4→Lv5〉
〈対象技能:威圧Lv2――解析成功。技能【威圧】を獲得しました〉
〈対象技能:遠吠えLv3――解析失敗〉
〈系統の記録を更新しました。餓狼:5〉
〈進化の条件を照合します〉
〈霊核の密度――基準を満たしています〉
〈系統の記録――餓狼:5/12〉
〈進化には、系統の記録が不足しています〉
声が、淡々と流れていく。
レベル14。三十も抜かれた。
それから――進化の条件。
霊核の密度は足りてる。足りないのは系統の記録。餓狼があと七頭。
……あと七頭、か。
今の俺にはそれが重いのか軽いのかもわからなかった。
ステータスを開くと、■■■がまたにじんでいた。
縦の一画の横に、今度は横の線が一本、透けて見えた。
まだ何の字かはわからない。なんなんだよ、これ?
【ステータス】
個体名:ヴォイド
種族:腐肉の粘体
段階:1
レベル:14/15
HP:60/146
MP:5/25
攻撃:24
防御:17
敏捷:18
魔力:17
固有スキル:喰掠の理、変質者、■■■
スキル:溶解Lv4、硬殻Lv4、熱感知Lv2、震覚Lv2、水化Lv3、水弾Lv3、匂い写しLv5、吸血Lv2、反響感知Lv1、噛砕Lv3、威圧Lv1
浅瀬には、もう何も残っていなかった。
俺は湖の底に沈んで、体が戻るのを待った。
頭の最後の声が底のほうで、まだ小さく響いていた。
こどもたちを。
……何を、だよ。
続きを言えよ。




