第二十三話
頭は岩場の上で一度だけ止まって、風の匂いを嗅いで、耳を立てて、湖を見下ろす。
俺の匂いはもう届いているはずだ。腐った肉の匂いを、隠しもせずにまき散らしているんだから。
頭の喉がぐるっと鳴って、それからゆっくり岩場を降りてきた。
いつもの水を飲む場所には向かわない。まっすぐ、俺のいる浅瀬の、境目に一番近いところへ歩いてくる。
一歩ごとに、地面が沈む。震覚がそれを拾うたびに、俺の霊核がきゅっと縮む。
近くで感じると、本当にでかい。湖の岸で見ていたときより、巣穴で見たときより、風下で襲われたときより、ずっとでかく感じる。
脇腹の傷からはまだ血の匂いがしていた。でも足取りに迷いはない。
頭は水際でぴたりと止まった。
俺と頭のあいだには、浅い水があるだけだ。狼の脚なら、三歩もかからない。
しばらく、どっちも動かなかった。
頭は水際から、俺は浅瀬から、お互いを読みあっていた。
頭の鼻がひくひく動く。俺の匂いを確かめている。湖の中にいた何か。最後尾を、若いのを引きずりこんだ何か。群れの縄張りに知らない匂いをばらまいた何か。
その全部が目の前の腐った肉の塊と同じ匂いだってことを。
頭の背中の毛がゆっくり逆立っていった。
――ぐるるるるるるっ。
怒ってる。
若いのを引きこんだ晩の、怖がってる声とはまるで違う。腹の底から煮えたぎってる声だ。
来い。来いよ!
頭が、跳んだ。
ばしゃああっ!
水しぶきが上がった。
迷いなんか、ひとかけらもなかった。前脚も後ろ脚も、全部まとめて浅瀬に飛びこんでくる。
速っ! 俺は境目のほうへ下がった。這う、というより、水の中を滑るように。
頭が追ってくる。浅瀬の水を蹴散らして、一直線に。
あと少しで境目だ!
俺は崖の縁を越えて、深みに滑りこんだ。
頭は――止まった。
崖の縁の、ぎりぎり手前で。
前脚を突っ張って、浅瀬の底に爪を立てて、ぴたりと止まった。
……マジかよ。読まれた!?
あいつはこの先が深いことを知ってるんだ。足が届かなくなる場所だって、わかってる。若いのが引きずりこまれた晩に、たぶん覚えたんだろう。
頭は、崖の縁で俺を見下ろしていた。
追ってこないし、帰りもしない。
浅瀬の端に陣取って、じっと待っている。
俺が浅瀬に戻ってきたら、その瞬間に噛み砕く。そういう構えだ。
風下の待ち伏せと同じだ。こいつは待つのがうまい。
まずい。このままじゃ、睨みあいのまま夜が明ける。夜が明けたら、俺は深みから出られない。頭は帰っていって、次の晩にまた来る。次の晩も、その次の晩も。
それに、こっちのMPは待ってるだけでも少しずつ減っていく。深みの冷たい水の中で形を保つには、硬殻を張り続けなきゃいけない。
〈MP:15→14〉
我慢比べじゃ、たぶん俺が負ける。
じゃあ、どうする? ……仕方ない。
湖の主のときと、同じ手を使う。
あのときは主が体を伸ばして、俺を自分の卓に引きずりこもうとした。だから俺はその腕を伝って主の霊核まで行った。
今度は、俺が餌になる。
頭が噛みつける距離まで、わざと近づく。噛みつかせて、引っぱらせる。
ただし、ただで引っぱられてやるつもりはない。
崖の壁に、体の一部を伸ばした。
先を硬殻で固めて、壁の岩の割れ目に、鉤みたいに引っかける。何か所も。何か所も。溶解で割れ目を少し広げて、そこに固めた体を食いこませる。
〈MP:14→13〉
錨だ。
それから残りの体を崖の縁までそろそろと持ち上げた。
浅瀬の端に、俺の体の端が、ぬるっと顔を出す。
頭の目の前に。
頭は、一瞬も迷わなかった。
がぶっ!
〈HPが減少しました。HP:116→91〉
っ……!
牙が俺の端を深々と貫いた。硬殻なんか関係ない。骨ごと砕く牙が俺の体をがっちり噛みしめる。
頭が、後ろに体重をかけた。
引っぱる。陸のほうへ。浅瀬の上へ。
俺を、深みから引きずり出そうとしている。
予想どおりだ!
でも、俺は動かない。
崖の壁に食いこませた錨が、俺を深みにつなぎとめている。頭がいくら引いても、俺の体はびんと張ったまま、縁から先へは出ていかない。
頭がもっと強く引いて、脚を踏ん張り、浅瀬の底に爪を立てる。
ただ、そこは崖の縁だった。
浅瀬の砂は縁に近いほど柔らかい。水に洗われて、ぼろぼろ崩れやすくなっている。反響感知で、何度も確かめた場所だ。
頭の後ろ脚の下で、砂が崩れた。
ずるっ。
頭の体が、ぐらりと傾いた。
俺は、錨を全部外した。
引っぱりあっていた力が、一瞬で消える。頭の体重がまるごと俺のほうへ――深みのほうへ――倒れこんでくる。
頭が、深みに落ちた。
どぼんっ! 冷たい水の中に、でかい体が沈んでいく。
頭が暴れた。四本の脚が水をめちゃくちゃにかく。底を探してる。でも底なんかない。どこまで足を伸ばしても、冷たい水があるだけだ。
ここが、俺の卓だ。ようこそ。
噛まれたままの体から、さらに体を伸ばす。頭の顔に回りこんで、鼻と口を包む。
水化!
〈MP:13→12〉
頭が水面に顔を出そうとする。息がしたいんだ。
させるか! 鼻と口を包んだまま、頭の顔を水の中に押さえこむ。
頭が首を振った。牙が俺の体をさらに深く噛みしめる。
〈HPが減少しました。HP:91→75〉
痛え……! でも、離さない。
〈溶解を発動します。MP:12→11〉
鼻の奥へ、酸を流しこむ。
頭が、もがいた。
最後尾も、若いのも、ここまでもがかなかった。体の大きさも、力も、まるで違う。冷たい深みの水が、頭のもがきで泡立つ。
〈HPが減少しました。HP:75→61〉
頭の前脚が俺の体を引き裂こうとする。爪が殻の上から何度も何度も叩きつけられる。
それでも、頭の動きは少しずつ鈍くなってきた。
息が、もたないんだ。
もう少し。
もう少しで――
そのときだった。
頭が、もがくのをやめた。
一瞬、勝ったと思った。でも、違った。
頭は、もがく代わりに、泳ぎはじめた。
四本の脚で、ゆっくり、力強く、水をかく。めちゃくちゃに暴れるのをやめて、ただ一方向に進みはじめた。
浅瀬のほうへ。
俺を、牙でがっちり噛みしめたまま。
鼻と口を塞がれて、息もできないはずなのに。水の中で、目も見えないはずなのに。頭は迷わずに、浅瀬の方角へ泳いでいく。
匂いだ。
あいつは陸の匂いを覚えてるんだ。浅瀬の砂の匂い。岸の岩の匂い。群れの匂い。巣穴の匂い。
それを頼りに、帰ろうとしてる。
――俺を、自分の卓へ運ぼうとしてる。
崖の縁が、近づいてくる。
頭の前脚が浅瀬の底に届いた。爪が砂をつかむ。
がばっと、水の中から体が持ち上がった。顔を振った拍子に、鼻を包んでいた俺の体がずるりと剥がされる。
息を吸う、ひゅうっという音。
頭は俺を口にくわえたまま、浅瀬の上に立っていた。
水は、もう膝までしかなかった。




