第二十二話
決めるなら、湖だ。
それだけは最初から決まっていた。
陸の上じゃ、速さも力も牙も鼻も、頭のほうが何もかも上だ。風下で待ち伏せされたときに、それは嫌というほど思い知らされた。
でも、水の中なら話は変わる。
あいつは泳げるかもしれない。でも水の中で暮らしてるわけじゃない。息をするには顔を出さなきゃいけないし、足が底につかなければ、あの踏ん張りは使えない。
俺は違う。息なんかしてないし、そもそも足がない。水の中でも陸の上でも、やることは同じだ。
湖の深み。浅瀬と沖の境目の、底がすとんと落ちこんでいるあの場所。
あそこが、俺の卓だ!
問題はどうやってあいつをそこに座らせるか、だった。
最初に思いついたのは、一番えげつない手だった。
匂い写しで、副の匂いを出す。
副を喰ったときに匂いは全部覚えた。頭のすぐ後ろを歩いていた雌の、少し乳くさい匂い。巣穴の前で最期まで動かなかった、あの匂い。
それを、深みのほうから流す。
頭はたぶん来る。最後尾の匂いで若いのが水に入ったときより、ずっと確実にな。若いのを取り返そうとして前脚を水に入れたあいつなら、副の匂いがしたら、迷わず全身で飛びこんでくるだろう。
一番効く。間違いなく効く!
……。
それだけは、やめておこうと思った。
理由はうまく言えない。損得で考えれば、使うべきだ。俺の命がかかってるんだから。
でも副は俺のせいで死んだ。その匂いで頭を釣るのは、なんていうか、一線を越える気がした。
雀荘にも一線を越えるやつはいた。負けが込んだ客の弱みにつけこんで、借金させてまで卓に座らせる。腕は確かだったけど、誰もそいつとは打ちたがらなかった。
俺は、ああはなりたくない。
腐った肉の塊になっても、それくらいの見栄は張りたい。
じゃあ、何で釣るか。
答えは、案外簡単だった。
俺だよ、俺!
頭は俺の匂いを覚えてる。風下で嗅いだ腐肉の匂い。それから、たぶんあいつはもう気づいてる。副が死んだのも、群れがぶつかったのも、湖の中にいる腐った何かのせいだって。
あいつは、俺を殺したいはずだ。
だったら、殺しに来させればいい。
浅瀬でわざと姿をさらして、匂いも隠さない。頭が飛びこんできたら深みへ逃げる。頭が追ってきたら、そこで勝負だ。
恐怖じゃなくて、怒りで釣る。
最後尾の匂いで若いのを釣ったときよりも、副の匂いで頭を釣るよりも、こっちのほうがずっとまっとうな勝負だ。
……まっとうって言葉が、自分に似合うかどうかは知らないけど。
それから、境目で予行演習をした。
まず、深さを測る。
ちっと反響感知を飛ばすと、浅瀬の底がある場所からすとんと落ちて、その先は音がなかなか返ってこなかった。何度か飛ばして、ようやくぼんやりと底の形がわかる。
深っ! 頭の背丈の何倍もあるぞ。
ここに落ちたら、あいつの足は底につかない。
次に、深みの中で戦えるかどうか。
湖の主と戦ったとき、深みの水はとんでもなく冷たかった。水化したままだと、体がほどけて流されそうになる。
硬殻で、外側だけを固める。
〈MP:21→20〉
固めた殻の中に水化した体を詰めると、深みの中でも形を保ったまま、ある程度は自由に動けた。
それから、牙。
殻の一部を伸ばして、噛砕の形を作る。
〈MP:20→19〉
深みの水の中で、岩に噛みついてみる。
がりっ。
陸の上より、少しだけやりにくい。水の抵抗で、噛む動きが遅くなる。
もう一回。
〈MP:19→18〉
がりっ。
何回かやるうちに水の中で噛むコツがつかめてきた。上下から挟むんじゃなくて、相手に巻きついてから、内側に牙を立てる。そのほうが水の抵抗を受けにくい。
〈噛砕の熟練度が上昇しました。噛砕Lv1→Lv2〉
よし!
最後に、吸血。
噛みついたまま、相手の体力を吸い取れれば、こっちは削られながらでも粘れる。頭との勝負はたぶん長引く。どっちが先に倒れるかの我慢比べになる。
〈MP:18→15〉
湖の魚で何度か試した。噛んで吸って溶かす。全部いっぺんにやると、MPがすごい勢いで減っていく。
本番ではMPの使いどころを間違えたら終わりだな。
浅瀬に戻って、頭のことを考えた。
あいつは賢い。
風下で待ち伏せしてきたやつだ。俺の通り道を読んで、来るまでじっと待てるやつだ。
だったら、深みに誘いこまれることも、読んでくるかもしれない。
もしあいつが深みに入らなかったら、どうする?
浅瀬で俺を捕まえて、そのまま陸に引きずり出そうとしたら?
湖の主にやられたのと同じことだ。体を伸ばして、獲物を自分の卓に引きずりこむ。あれを、今度は頭が俺にやるかもしれない。
そのときは――
脇腹の傷だ。
群れ同士の争いでできた、まだ治りきってない新しい傷。血の匂いがずっとしている場所。
あそこなら、硬い毛皮も筋肉も関係ない。牙を立てれば、そのまま中に届く。
浅瀬で捕まったら、脇腹を狙う。
深みに落ちたら、鼻を塞ぐ。
どっちに転んでも、打つ手は決めておく。湖の主のときに、読みがひとつ足りなくて痛い目を見たからな。
それから、もうひとつだけ考えた。
巣穴の子どもたちのことだ。
頭がいなくなったら、群れはどうなるんだろう。
成獣が二頭と見張りが一頭。子どもを育てるには、たぶん足りる。足りなくても、それはもう俺にはどうしようもない。
……どうしようもないって言い方は、ずるいか。
そうなったのは、俺のせいなんだから。
でもここで降りたら、次は俺が喰われる。頭はもう、俺の匂いを覚えてる。俺が湖から出るたびに、あいつはどこかで待ってる。いつか必ず、牙が届く。
降りられない局なら、押すしかない。
生まれてすぐ、甲虫の口の中でそう思った。誰に教わったのかも思い出せないまま。
今も、同じだ。
【ステータス】
個体名:ヴォイド
種族:腐肉の粘体
段階:1
レベル:12/15
HP:116/116
MP:15/21
攻撃:20
防御:14
敏捷:16
魔力:15
固有スキル:喰掠の理、変質者、■■■
スキル:溶解Lv4、硬殻Lv4、熱感知Lv2、震覚Lv2、水化Lv3、水弾Lv3、匂い写しLv4、吸血Lv1、反響感知Lv1、噛砕Lv2
魚の群れが沖へ戻っていく。
湖が静かになる。
俺は浅瀬の、境目に一番近いところまで這っていって、そこで待った。
匂いは、隠さない。
腐った肉の匂いを、湖の岸に向かって、思いきりまき散らす。
ここにいるぞ。
お前の副を死なせたやつは、ここにいる。
やがて、震覚が岸で足音を拾った。
重い足音だった。もう足を引きずってはいなかった。




