第二十話
音が止んだのは魚の群れが浅瀬に戻ってくるころだった。
最後に、長い遠吠えがひとつだけ聞こえた。
頭の声だった。
勝ち鬨なのか、それとも別の何かなのか、俺にはわからなかった。
MPはほとんど空っぽだった。
本当は満タンになるまで休んでから行くべきだ。でも、そんなに待っていたら死骸が冷えてしまう。冷えた死骸からは、得られるものがどんどん減っていく。
少しだけ休んで、岩場へ向かった。匂いはまとわなかった。そんな余裕はない。
腐肉の匂いをまき散らしながら、ずるずると這っていく。
途中で何かに出くわしたら終わりだな、と思いながら。
岩場を抜けて、境目に近い開けた場所に出た。
匂いが、すごかった。
血の匂い。獣の匂い。二つの群れの匂いが、ぐちゃぐちゃに混ざりあっている。地面には爪の跡が無数に残っていて、岩には毛の塊がこびりついていた。
熱感知を向ける。
灯りは、ほとんどなかった。
生きているものは、もうみんな去ったあとだ。残っているのはまだかすかに温かい塊が、ふたつだけ。
ひとつ目は知らない匂いだった。隣の群れの、若い雄だ。首のあたりを深く噛み裂かれて、横倒しになっている。
ふたつ目に近づいて、俺は止まった。
知ってる匂いだった。
頭の群れの、副だ。頭の次に大きくて、いつも頭のすぐ後ろを歩いていた雌。巣穴の奥で、頭と並んで丸まっていたやつ。
……そうか。
お前が、死んだのか。
喰掠の理。
先に、隣の群れの雄から喰った。
肉はまだ少し温かかった。でも生きてる獲物を喰うときの、あの焼けるような熱さはない。熱い塊がほどけるのも、ずいぶんぼんやりしていた。
流れこんでくる声も、薄かった。
知らない匂いへの怒り。縄張りを奪いにきた高揚。自分たちのほうが多い、勝てる、という興奮。
それが途中で、ぶつっと途切れていた。
〈捕食を完了しました〉
〈対象:餓狼 Lv8〉
〈対象の死亡から時間が経過しています〉
〈経験値60を獲得しました〉
〈うち6は上位領域へ転送されました〉
〈経験値54を取得しました〉
〈レベルが上昇しました。Lv10→Lv11〉
〈能力値を吸収しました〉
〈技能の解析を開始します〉
〈対象技能:嗅覚Lv3――解析成功〉
〈技能【嗅覚】は保有技能【匂い写し】と同系統です。自動で統合します〉
〈匂い写しLv3→Lv4〉
〈対象技能:噛砕Lv2――解析成功。技能【噛砕】を獲得しました〉
〈系統の記録を更新しました。餓狼:3〉
噛砕が取れた。前に最後尾から取り損ねたやつだ。
本当なら、もっと喜んでいいはずだった。
それから、副を喰った。
こっちは、もう少しだけ温かかった。
最期まで、誰かのそばにいたんだろう。
流れこんできた声は、さっきよりずっとはっきりしていた。
――こどもたち。
巣穴の奥。小さな灯りがふたつ。乳の匂い。
知らない匂いが巣穴のすぐ近くでした。だから巣穴の前に立った。頭が境目の向こうで戦っているあいだ、副は巣穴の前から一歩も動かなかった。
知らない群れが来た。三頭。四頭。
副は戦った。噛まれても、噛み返した。巣穴の入口から、一頭も中に入れなかった。
――こどもたち、だけは。
最後に、背中のほうで、きゃん、と小さな声がした。
それきり、途切れた。
〈捕食を完了しました〉
〈対象:餓狼 Lv9〉
〈対象の死亡から時間が経過しています〉
〈経験値70を獲得しました〉
〈うち7は上位領域へ転送されました〉
〈経験値63を取得しました〉
〈能力値を吸収しました〉
〈技能の解析を開始します〉
〈対象技能:遠吠えLv2――解析失敗〉
〈対象技能:群狩Lv1――解析失敗〉
〈系統の記録を更新しました。餓狼:4〉
しばらく、動けなかった。
巣穴のすぐ近くの、知らない匂い。
あれは、俺が置いた匂いだ。
隣の群れの頭の匂いを、巣穴のそばに、ひとつだけ。一番効くとわかっていたから置いた。
一番効いた。
隣の群れは俺の置いた匂いをたどって、巣穴まで来たんだ。頭は境目で戦っていて、巣穴を守れるのは副だけだった。
あの夜、気のせいだと思った子どもの声。
気のせいじゃなかった。
……いや、待て。
副の記憶の最後で、子どもたちの声はした。鳴いたってことは、生きてたってことだ。副は一頭も巣穴に入れなかった。だから子どもたちはたぶん――
たぶん、生きてる。
たぶん。
それでも、副は死んだ。俺の置いた匂いのせいで。
計算どおりだった。
二つの群れが削りあって、頭の群れは数を減らした。俺は一滴の血も流さずに、死骸をふたつ喰えた。レベルも上がった。噛砕も取れた。
完璧な手だ。
雀荘で、こういう勝ち方を何度も見た。自分は何もしないで、ほかの客同士を噛み合わせて、最後に転がりこんできた点を拾う。上手いやり方だ。誰も文句は言えない。
でも、そういう勝ち方をした夜のやつは、たいてい帰り道でひとりになりたがった。
今なら、なんとなくわかる。
勝ったのに、払ったものの重さが、あとから来るんだ。
湖に戻ったあとも、ずっと副の声が底のほうに残っていた。
噛み砕いたはずなのに、きれいに消えない。最後尾の「おいていかないで」も、まだ少し残っている。
喰ったやつの声が、少しずつ溜まっていく。
これ、大丈夫なのか?
【ステータス】
個体名:ヴォイド
種族:腐肉の粘体
段階:1
レベル:11/15
HP:90/102
MP:5/19
攻撃:17
防御:11
敏捷:16
魔力:14
固有スキル:喰掠の理、変質者、■■■
スキル:溶解Lv3、硬殻Lv3、熱感知Lv2、震覚Lv2、水化Lv3、水弾Lv3、匂い写しLv4、吸血Lv1、反響感知Lv1、噛砕Lv1
その夜、群れは水を飲みに来なかった。
ずっと遅くなってから、震覚が岸で一頭ぶんの足音を拾った。
重い足音だった。でも、いつもと違う。一歩ごとに、少しずつ引きずっている。
頭だった。
体じゅうから、血の匂いがした。顔の古傷の横に、新しい傷が増えていた。
頭は水際まで来て、湖を見た。
唸らなかった。吠えもしなかった。
ただ、ゆっくり首を下ろして、水を飲んだ。
飲み終わっても、しばらく水際から動かなかった。湖の底の、俺がいるあたりを、じっと見ていた。
全部わかってるぞ、と言われている気がした。
俺は何も言い返せなかった。言い返す口もないけど。




