第十九話
割れ目の奥で体が戻るのを待ちながら、ずっと考えていた。
あいつが読めない手って、何だ?
頭は俺の匂いを覚えた。腐肉の匂いも、岩の匂いでごまかそうとしたことも、水の中から仲間を引きずりこむやり方も、全部知ってる。
俺が持ってる手は、もう全部見られてる。
じゃあ、俺じゃない手を使えばいい。
――俺じゃない、誰かの手を。
最後尾の記憶を、もう一度たどった。
縄張りの見回り道。岩の割れ目、乾いた風の通り道。それから、ほかの群れとの境目。
湖から見て、巣穴とは反対の方向。岩場をずっと抜けた先に、匂いががらっと変わる場所がある。そこから先は別の群れの縄張りだ。
最後尾はそこへ近づくたびに毛を逆立てていた。境目で、向こうの群れのやつと睨みあったこともある。向こうのほうが数が多くて、頭の群れはいつも一歩引いていた。
……これだ!
雀荘の卓で、自分が一番弱いと思ったら、まともにぶつかっちゃいけない。残りの二人を噛み合わせるんだ。強いやつ同士がやりあって点を削りあってるあいだに、こっちは傷を負わずに済む。
俺ひとりじゃ頭に勝てない。それはもう、嫌ってほどわかった。
だったら、頭よりでかい相手に、頭の相手をしてもらえばいい。
体が戻ってから、まず湖に帰った。
それから、境目に向かった。
岩の匂いをまとう。
〈MP:17→16〉
巣穴とは反対側の岩場を、ずるずると進む。反響感知で地形をなぞりながら、震覚で足音を探りながら、熱感知で灯りを避けながら。
前回の待ち伏せのことがあるから、今度は道を毎回変えた。同じ岩の陰は二度通らない。風の向きを確かめて、なるべく風上を進む。
〈MP:16→14〉
かなり進んだところで、匂いが変わった。
頭の群れの匂いが薄くなって、代わりに知らない匂いが濃くなっていく。
獣くさいのは同じだ。でも混じっているものが違う。少し苦くて、湿った土と、何か焦げたような匂い。
隣の群れの匂いだ。
岩の角や目立つ石の根元に、その匂いがべったり残されている。こっちの縄張りの印は、頭の群れのよりずっと多くて、ずっと濃い。
数が多い群れなんだろう。どんだけいるんだよ、こいつら!
〈MP:14→12〉
その匂いを、袋の中に写しとった。
一頭ぶんじゃ足りない。何か所も回って、何頭ぶんもの匂いを覚えた。年寄りっぽい匂い、若い雄の匂い、それから一番強くて一番偉そうな、たぶん向こうの頭の匂い。
それから、仕込みを始めた。
まず、頭の群れの縄張りの中に、隣の群れの匂いを置いていく。
巣穴へ向かう匂いの帯のそばの岩。見回り道の目立つ石。湖の岸の、群れが水を飲む場所の近く。
一か所ずつ、隣の群れの頭の匂いを、べったりと。
〈MP:12→10〉
〈MP:10→8〉
巣穴のすぐ近くにも、ひとつだけ置いた。
子どもがいる巣の、すぐそば。
……やりすぎか? やりすぎだよな、たぶん。
いや、ここが一番効く。それはわかってる。
わかってるから、置いた。
〈MP:8→6〉
次は、逆だ。
境目を越えて、隣の群れの縄張りの中に、頭の群れの匂いを置く。
頭の匂い。最後尾の匂い。若い見張りの匂い。どれも喰ったときに覚えている。
〈MP:6→4〉
これで、どっちの群れも、相手が自分の縄張りに入りこんできたと思うはずだ。
〈MP:4→3〉
〈匂い写しの熟練度が上昇しました。匂い写しLv2→Lv3〉
最後のほうはほとんどMPが残っていなかった。岩の匂いをまとう余裕もなくて、腐肉の匂いをまき散らしながら、湖へ這って帰った。
途中で何にも出くわさなかったのは、たぶんただの運だ。運に頼るなって、自分で言ったばっかりなのにな!
湖の底に潜って、待った。
最初の夜は、何も起きなかった。
頭の群れは水を飲みに来た。岸の、隣の群れの匂いを置いた場所で、見張りが足を止めた。毛を逆立てて、低く唸る。頭が降りてきて、長いあいだその匂いを嗅いだ。
頭の喉が、ぐるるっと鳴った。
その晩、群れは水を飲み終わっても、すぐには帰らなかった。岸の岩場を何度も行き来して、あちこちに自分たちの匂いを付け直していく。
俺の置いた匂いの上から、上書きするみたいに。
二晩目は、遠くから遠吠えが聞こえた。
頭の群れより低くて、数が多い声だ。境目の向こうから、何頭もの声が重なって響いてくる。
隣の群れだ。
その声に応えるように、頭の群れの遠吠えが返った。数は少ない。でも一歩も引かない声だった。
……始まったか!
三晩目。
頭の群れは、水を飲みに来なかった。
その代わりに、岩場の向こうから、とんでもない音が聞こえてきた。
吠え声。唸り声。悲鳴。何かがぶつかりあう音。爪が岩を引っかく音。
反響感知を目いっぱい飛ばしても、ここからじゃ形はわからない。でも震覚が地面の揺れを拾う。何頭もの体が岩場の上で入り乱れている。
二つの群れが、ぶつかっている。
俺が、ぶつけた。
湖の底で、俺はじっとその音を聞いていた。
計算どおりだ。
俺より強い連中が、勝手に削りあってる。俺は一滴の血も流さずに、それを待ってればいい。終わったら、残った死骸を喰えばいい。
完璧な手だ。
……そのはずなのに。
頭の声が聞こえた。ほかのどの声より太くて、低くて、激しい声。
その声のすぐ近くで、小さな、甲高い鳴き声がした気がした。
きゃん、という、子どもの声。
気のせいだ。
巣穴はここからずっと遠い。子どもの声なんか、聞こえるはずがない。
気のせいに決まってる。
【ステータス】
個体名:ヴォイド
種族:腐肉の粘体
段階:1
レベル:10/15
HP:82/82
MP:3/17
攻撃:13
防御:8
敏捷:14
魔力:13
固有スキル:喰掠の理、変質者、■■■
スキル:溶解Lv3、硬殻Lv3、熱感知Lv2、震覚Lv2、水化Lv3、水弾Lv3、匂い写しLv3、吸血Lv1、反響感知Lv1
岩場の向こうの音は、長いあいだ止まなかった。
俺は湖の底で、それが止むのを待った。
待つのは得意だ。
得意なはずなのに、今夜だけは、やけに長く感じた。




