第十八話
反響感知を手に入れてから、陸に上がるのが少し楽しくなっていた。
ちっ、と音を出すと、岩場の形がぼんやり返ってくる。どこに割れ目があって、どこが行き止まりで、どこに身を隠せるくぼみがあるのか。熱感知で温かいものを見て、震覚で動くものを感じて、反響感知で動かないものの形をなぞる。
見えないはずの世界が、どんどん見えてくる。
だから、少しだけ調子に乗っていた。
……いや、少しじゃないか。
蜘蛛のときに、あれだけ痛い目を見たのにな。
その日は湖から岩場を抜けて、狼の縄張りの端のほうまで足を伸ばした。
もちろん、岩の匂いはまとっている。
〈MP:17→16〉
狙いは蝙蝠の割れ目とは別の、もっと奥の暗がりにいる何かだった。熱感知の端で、盲蛇くらいの大きさの灯りがじっとしているのを、前から見かけていたんだ。
あれを喰えれば、また少し強くなれる。
狼の匂いの帯からは、十分に離れて進んだ。巣穴とは反対の方向だし、群れが通る時間でもない。
大丈夫。たぶん大丈夫。
そう思っていた。
最初に気づいたのは、震覚だった。
地面が、ほんのわずかに揺れた。
何かが体重を移した。それだけの、小さな揺れ。
……ん?
ちっ、と音を出す。
岩場の形が返ってくる。割れ目やくぼみや転がった岩の中に、ひとつだけ形の違う「岩」があった。
ほかの岩より丸くて、ほかの岩より大きくて――
熱感知を向けた瞬間、全身が凍りついた。
ひときわ強い灯りが、そこにあった。
頭だ! 岩陰にぴたりと伏せている。俺が進んでいく道の、すぐ先に。
なんで――
考える前に、頭が跳んだ。
速いっ!
伏せていた体がばねみたいに弾けた。俺が反応するより先に、でかい口が目の前に来ていた。
硬殻!
〈MP:16→15〉
がぶっ。
〈HPが減少しました。HP:82→57〉
――っ!?
一撃で二十五も持っていかれた。
固めた表面なんか、まるで関係なかった。牙が硬殻の層ごと俺を噛みちぎっていく。甲虫の顎とも、蛇の牙とも、蜘蛛の牙とも違う。骨ごと砕くための牙だ。
頭は噛みちぎった俺の一部をぺっと吐き捨てた。
それから鼻を近づけてきて、嗅いでる。
岩の匂いの下の、俺の本当の匂いを。
……ばれた。
近づかれたら、匂い写しじゃ隠しきれないんだ。岩の匂いの奥から、腐肉の匂いがどうしても漏れる。
頭の喉の奥で、低い音が鳴った。
湖の中にいたものの正体を、確かめてるんだ。
逃げろ。でも、どこへ?
湖まで遠すぎる。這って戻れる距離じゃない。
反響感知を必死に飛ばす。ちっ、ちっ、ちっ。
すぐ横の岩壁に、指一本ぶんもない細い割れ目がある。狼の鼻先すら入らない幅だ。
でも、俺なら。
頭が、もう一度口を開けた。
水化!
〈MP:15→14〉
体が透きとおって、形がほどける。
〈HPが減少しました。HP:57→40〉
牙がほどけかけた体の端を引きちぎった。
かまうな。残りを全部、割れ目に流しこめ!
硬殻で入口を薄く固める。
〈MP:14→13〉
水化した体が岩の割れ目の中へ、すうっと染みこんでいく。水が砂に吸いこまれるように、奥へ、奥へ。
〈水化の熟練度が上昇しました。水化Lv2→Lv3〉
さらに薄く細くなって、割れ目の奥へ逃げていく。
〈MP:13→12〉
〈MP:12→10〉
岩の外で、頭が割れ目をがりがり引っかく音がした。
鼻先を押しつけて、ふんふんと嗅いでいる。前脚で岩を掘ろうとしている。
でも岩は岩だ。いくら狼の爪でも、掘れやしない。
……掘れないよな? な?
どれくらいそうしていただろう。がりがりという音が止んだ。
頭の気配が割れ目の前からすっと離れる。
震覚で足音を追う。行ったり来たり、割れ目のまわりを何度も回っている。ときどき止まって、何かをしている。
匂いだ。
匂い写しで、そっと外の匂いを嗅いでみる。
割れ目のまわりの岩に、頭の匂いが何か所も濃く残されていた。
縄張りの目印だ。
ここは俺のものだ。お前のことは覚えたぞ。
そう言われている気がした。
それから、足音が遠ざかっていった。
割れ目の中で、ようやく体の力を抜いた。
HP40。半分以上持っていかれた。体も、あちこち噛みちぎられて、ずいぶん小さくなっている。
でも、それより堪えたのは、別のことだった。
あいつは待ってたんだ。俺が通る道の先の、風下の岩陰で。
風下――そうだ。今になってわかる。あいつは俺の匂いが流れてくる方向に伏せていた。俺の匂いは向こうに届くけど、向こうの匂いは俺に届かない。
それに、あの場所。
俺が狙っていた灯りへ向かうには、あそこを通るしかなかった。前から何度か、あの灯りの様子を見に来ていた。そのときの匂いが、少しずつ残っていたんだろう。
頭は、俺の通り道を読んだ。
癖を読んで、待つ場所を決めて、来るまでじっと待った。
――俺がいつもやってることを、そのままやり返されたんだ。
麻雀で一番悔しい負け方は、自分の得意な待ちで、逆に振りこまされることだ。こっちの手を読みきった上で、こっちが切りたくなる牌を、相手がわざわざ待ってる。
あれを、狼にやられた。
「……くそっ」
声は出ない。出ないけど、言わずにいられなかった。
もうひとつ、まずいことがある。
あいつは、俺の匂いを嗅いだ。
湖の中にいるものが、水の主なんかじゃなくて、小さな腐った肉の塊だってことを。
湖の主のふりはたぶん、もう半分ばれた。
群れが水を怖がってくれたのは、湖の主がいると思っていたからだ。その怖さが俺の一番の武器だった。
頭はほかの連中にそれを伝えられるんだろうか。狼同士で、そんなことができるのか。
わからない。
でも頭自身はもう、水を前ほど怖がらないだろう。次に水際で誰かを引きこんだら、今度こそ全身で飛びこんでくる。
【ステータス】
個体名:ヴォイド
種族:腐肉の粘体
段階:1
レベル:10/15
HP:40/82
MP:10/17
攻撃:13
防御:8
敏捷:14
魔力:13
固有スキル:喰掠の理、変質者、■■■
スキル:溶解Lv3、硬殻Lv3、熱感知Lv2、震覚Lv2、水化Lv3、水弾Lv3、匂い写しLv2、吸血Lv1、反響感知Lv1
割れ目の奥で、体が戻るのを待った。
体が戻ったら湖に帰って、それから考えよう。
正面からは勝てない。待ち伏せも読まれる。湖の主のふりも、もう長くは通じない。
じゃあ、何が残ってる?
……あいつが読めないもの。
あいつが一度も見たことのない、俺だけの手。
それを、見つけるしかない。




