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第二話

ぽたん。


ぽたん。


天井のどこかから水が落ちてくる。俺はさっきからずっと、それを数えていた。


時計なんかないし、朝も夜もない。暗闇の中でわかる変化といったら、この水の音と腹の減り具合くらいのものだ。だから数える。


数えるのは得意だ。点数計算を何年もやってれば、嫌でもそうなる。


甲虫の殻の陰に潜りこんでから、ぽたんを三千とちょっと数えたところで気がついた。


あれ、体が戻ってないか?


意識を向けてみると、数字がちゃんと変わっていた。HPは9から少しずつ増えて、今は満タンの17。MPも1から5まで戻っている。


じっとしてれば回復するのかよ!


そりゃそうだろって話なんだけど、この場所で自分の体を使って確かめた、最初のルールだった。ひとつわかるだけで、ちょっと息がしやすくなる。息をする口はないけどな。



回復を待つあいだ、硬殻の練習をずっとやっていた。


固めて、ほどいて、また固める。


最初はとにかく遅かった。体の表面全体がのろのろ突っ張っていって、固まりきる前に気が散るとぐにゃっとほどけてしまう。


何百回かやって、ようやくコツがつかめてきた。全体をいっぺんに固めようとするから遅いんだ。固めたい場所だけを、薄く、素早く。


〈硬殻の熟練度が上昇しました。硬殻Lv1→Lv2〉


よっしゃ!


固めるのが目に見えて速くなったし、ほどくのも速い。


溶解のほうも試してみた。こっちは簡単で、ここを溶かしたいと思うだけで、触れてるところから酸がじわっとにじむ。


ただ、岩はほとんど溶けなかった。表面がほんのちょっとざらつくだけで、MPだけがしっかり減る。柔らかいものには強いけど、硬いものにはからっきしらしい。


ついでに、甲虫の空っぽの殻も喰ってみた。


〈捕食を完了しました〉

〈対象:屍喰い甲虫の残骸〉

〈経験値0を獲得しました〉


ゼロかよ!


まあ、中身はもう俺が喰ったしな。ただ、それだけでもない気がした。昨日の甲虫を喰ったときにほどけた、あの熱い塊が、殻のどこにも残ってなかった。


死んでから時間が経ったものには、もう何も残ってないってことか。


喰うなら、殺してすぐ。覚えとこう。



問題は腹だった。


HPもMPも戻ったのに、腹だけはずっと減ったままだ。回復とは別のところで、空っぽの飢えがくすぶり続けている。


何か喰わなきゃまずい。いや、マジでまずい。


でも、どこに何がいるのかわからない。感応が届くのは手を伸ばしたくらいの距離だけで、その外は真っ黒だ。


這って探す? この速さで?


どう考えても、先に俺が見つかって喰われる。


じゃあどうするんだよ……。


……待て待て。焦ってるな、俺。


負けが込んだ夜に、取り返そうとして打ち方が雑になっていく客を、何人も見てきた。焦ってるときの一打は、だいたい悪い。そういう客は、最後に必ず一番高い手を振りこむ。


まず、見えるものから見よう。



感応をゆっくり広げていく。


岩、岩、水。


少し離れたところに、水たまりがあった。天井から落ちてくる水が、床のくぼみにたまったものだ。


その縁をなぞっていくと、水のまわりだけ床が柔らかい泥になっていた。


で、その泥の上に。


小さなくぼみが、びっしり並んでいた。


指で押した跡に似た細かいくぼみが、四つか五つずつかたまっている。それが水の縁に、何十と重なっていた。


足跡だ。小さな生き物の、それも一匹や二匹じゃない数の。


足跡は、捨て牌みたいなもんだ。相手が何を捨ててきたかを見れば、手の中身がだいたい透けて見える。


足跡をたどってみる。どれも同じ方向から来て、水の縁で止まって、また同じ方向へ戻っていた。その先は岩の壁で、壁の下のほうに狭い隙間が開いている。


隙間の幅は、俺の体の半分くらいだった。


つまりここには、あの隙間から何かが水を飲みに来る。何度も、群れで。


足跡はどれも浅いから、軽いやつだ。甲虫ほどの重さはない。爪の跡がくっきりしてるから、すばしっこいのかもしれない。


よし、だいたい見えてきたぞ。どうだ、捨て牌読みは衰えてないだろ?



隙間の出口のすぐ脇まで、ずるずる這っていった。


ぽたん百回ぶんくらいかかって、着いたときには正直ちょっとへばっていた。


体を薄く広げて、岩のくぼみに張りつく。腐った肉の匂いはどうせ消せないんだから、隠さないで餌にしてやる。


来い。


ぽたん。ぽたん。


どのくらい待っただろう。数えるのに飽きかけたころ、感応の端がちょろっと揺れた。


隙間の奥から何か来る。


俺と同じくらいか、少し小さいくらいのやつだった。毛があって、四本足で、細長い尻尾が生えている。


ネズミだ!


しかも一匹だけか? いや、後ろに二匹、三匹と続いてる!


先頭のやつが隙間から顔を出した。鼻先をひくひくさせている。俺の匂いに気づいたらしく、こっちへ寄ってくる。


来た来た来た!


今だ!


俺は体をぐいっと伸ばして、ネズミの頭を包みこもうとした。


ネズミが跳んだ。


速っ!?


伸ばした体の先を軽々すり抜けて、隙間の奥へ消えていく。後ろの連中も、あっという間にいなくなった。


感応の中には、もう誰もいない。


……。


あーあ。やっちまった。


早すぎたんだ。あいつはまだ、俺の匂いを嗅いでただけだった。喰いつく前にこっちから手を出したら、そりゃ逃げるに決まってる。こっちは敏捷1で、向こうはたぶんその何倍も速いんだから。


甲虫のときはどうだった?


俺は何もしなかったし、何もできなかった。あいつが噛みついてきて、それで初めて、逃げられない距離にいた。


喰いつかせてから、捕まえる。順番が逆だと絶対に間に合わない。



また待った。


さっきの失敗で警戒されて、もう来ないかもしれない。そう思いながら、ぽたんを数え続けた。


千を超えたあたりで、また感応の端が揺れた。


来た!


今度は動かない。絶対に動かないからな?


先頭のネズミが顔を出して、鼻をひくつかせて、こっちへ一歩、また一歩と寄ってくる。


鼻先が、俺の端に触れた。


まだだ。


ネズミが口を開けた。


硬殻! 噛まれる場所だけを、薄く素早く固める。


〈MP:5→4〉


ガリッ。


〈HPが減少しました。HP:17→15〉


歯が、固めた表面で止まった。浅い! 甲虫のときほど、ごっそり持っていかれてない。


ネズミがもう一度、今度は深く噛みついてくる。頭ごと、ぐいぐい俺に押しつけてくる。


〈HPが減少しました。HP:15→12〉


――ここだ。


硬殻をほどく。


固まっていた表面が一瞬でぐにゃっと柔らかくなって、押しつけられていたネズミの頭が、そのまま俺の中へずぶりと沈みこんだ。


頭から首まで、一気に包む。


ネズミが暴れた。四本の足で床を蹴って、首を振って、なんとか抜け出そうとする。甲虫とは比べものにならない速さだ。


でも、ここは隙間の出口だった。後ろは狭い岩の穴で、横は壁。逃げられる方向なんか、どこにもない。


〈溶解を発動します。MP:4→3〉


包みこんだところから酸をにじませると、ネズミの体がびくびく震えた。たぶん甲高い声で鳴いてるんだろう。後ろにいた仲間たちが、一斉に逃げていく。


〈溶解を発動します。MP:3→2〉


足が、だんだん床を蹴らなくなっていく。


最後に一度だけ細かく震えて、ネズミは動かなくなった。



喰掠の理(グラトニー)。


今度は味が全然違った。


甲虫の泥臭さはどこにもなくて、脂っぽくて、ちょっと甘い。生臭さの奥に、ちゃんと肉の味がある。


うまっ。


思わずそう思ってしまった。


熱い塊がほどけていく。甲虫のときより小さいけど、確かに熱い。


それから、声が来た。


――こわい。


飢えじゃなかった。


――こわい、こわい、いたい、にげなきゃ、かえらなきゃ。


冷たい恐怖で、体がぎゅっと縮こまる。


その奥に、別のものがあった。


小さな、温かいものたちの匂い。


柔らかい毛の塊がいくつも寄り添っている。乾いた草を敷いた、狭くて暗い場所。そこへ帰らなきゃいけない。帰って、あの子たちに――


……巣か。


こいつには帰る場所があって、待ってる子どもがいたんだ。


胸の穴の縁が、ずきっと痛んだ。


明け方の部屋で、起きて待っていてくれた誰か。


やめろ。それはこいつの気持ちで、こいつの巣だ。俺には関係ない。


流れこんでくるものを噛み砕いて、飲みこむ。


甲虫の飢えより、ずっと飲みこみにくかった。恐怖の声はすぐに静かになったのに、あの温かい匂いだけが、いつまでも底のほうに残っていた。



〈捕食を完了しました〉

〈対象:盲鼠 Lv2〉

〈経験値14を獲得しました〉

〈うち1は上位領域へ転送されました〉

〈経験値13を取得しました〉

〈能力値を吸収しました〉

〈技能の解析を開始します〉

〈対象技能:聴音Lv2――解析成功。技能【聴音】を獲得しました〉

〈対象技能:逃走Lv1――解析失敗〉


盲鼠。目の見えないネズミか。俺と同じだな。


こいつは、この真っ暗闇をどうやって歩いてたんだろう。


答えは、聴音に意識を向けた瞬間にわかった。


音が、生まれた。


ぽたん。


数えていたあの水の音が、初めて耳に届いた。膜で感じる振動じゃなくて、澄んだ、水の落ちる音として。


うわ、と思った。


どこかでさらさら砂が崩れる音。かすかな風が岩の隙間を抜けていく音。遠くで何かがかりかり岩を引っかく音。ずっと向こうで、水が流れる音。


感応じゃ手の届く範囲しかわからなかったのに、音は遠くまで届く。真っ黒だった何もない場所が、音でどんどん埋まっていく。あっちに水があって、こっちに風の通り道があって、その先には広い空間がある。


「……すげえ」


声は出ないけど、言わずにいられなかった。


喰ったやつの力は、そいつの生き方ごと俺のものになるらしい。



そのとき、音の世界のずっとずっと遠くで、長く低い声が響いた。


うおおおぉぉ――ん。


最初の声に別の声が続いて、さらにまた別の声が重なる。


遠吠えだ。


いくつもの喉が、同じ調子で吠えて呼び合っている。でかい群れが、この暗闇のどこかにいる。


体の表面がざわっと波打った。


盲鼠がやたら逃げ足が速かったのは、俺が怖かったからってだけでもなさそうだ。こいつらは毎日、あの声を聞きながら生きてたんだ。


あの遠吠えの主と比べたら、盲鼠も甲虫も小石程度だろう。


……いや、今考えても仕方ないか。


今日は、狙って当てた。一回すっぽ抜けたけど、二回目はちゃんと当てた。それで十分だ。


【ステータス】

個体名:ヴォイド

種族:腐肉の粘体

段階:1

レベル:3/10

HP:14/18

MP:3/5

攻撃:4

防御:3

敏捷:2

魔力:3

固有スキル:喰掠の理(グラトニー)、■■■

スキル:溶解Lv2、感応Lv1、硬殻Lv2、聴音Lv1


敏捷が1から2になっていた。


倍だ、倍。ネズミの足の速さの、ほんのひとかけらだけど。


隙間の出口に張りついたまま、俺は耳を澄ませた。耳はないけど、もうそれっぽいのはある。


遠吠えは、もう聞こえなかった。


代わりに、隙間の奥の、ずっと奥のほうから、きいきいという小さな鳴き声が聞こえた気がした。


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