第一話
暗い。
真っ暗で何も見えないし、何も聞こえない。手も足もどこにあるのかさっぱりわからない。
……なんだこれ。
あるのは、ぬるっとした重さだけだった。冷たくて硬いものの上に、俺がべちゃっと広がっている。そういう感覚だけがある。
落ち着け。こういうときは慌てたほうが負けだ。
夢だろ、たぶん。金縛りなら前にもなったことがあるし、そのうち目が覚めて、いつもの天井が――
いつもの天井って、どんなだっけ?
思い出そうとした途端、頭の中にばらばらの景色が転がり出てきた。
煙草の煙で黄ばんだ雀荘の天井と、牌をかき混ぜるじゃらじゃらという音。
始発を待つあいだに寄ったコンビニの、目が痛くなるほど白い明かり。
明け方に帰った狭い部屋で、湯気の立つカップ麺を誰かと二人ですすったこと。
ああ、知ってる。全部、俺が生きてた場所だ。
なのに肝心なところが出てこない。自分の名前も、顔も、どうしてこんなところでべちゃっとしてるのかも。明け方に帰るたび、起きて待っていてくれたのが誰だったのかも。
胸の真ん中に、穴が開いている。
大事な何かがあったはずの場所が、スプーンでくり抜いたみたいにきれいに空っぽだ。痛くはないけど、すうすうして寒い。
ひとつだけ、耳の奥に声が残っていた。
――おかえり。
誰だよ。どこに帰ってきたっていうんだよ。
わかんねえことだらけで頭がどうにかなりそうだったけど、それより何より、腹が減っていた。
胃袋があるのかも怪しいのに、飢えだけはやけにはっきりしている。空っぽの内側を、爪でがりがり引っかかれてる気分だ。
夢でこんなに腹が減るか? 減らないよな。
じゃあ、これ、夢じゃないのか。
〈個体の生成を確認しました〉
うおっ!?
頭の中で声がした。耳じゃなくて、頭の内側に直接響いてくる。男とも女ともつかない、やけに事務的な声だった。
〈個体の登録を開始します〉
〈――エラー。個体の登録に失敗しました〉
〈再試行します〉
〈――照合中〉
〈分類を確定しました。種族:腐肉の粘体〉
「……誰だ?」
返事はない。ていうか今、声出てたか?
〈ステータスを表示します〉
【ステータス】
個体名:なし
種族:腐肉の粘体
段階:1
レベル:1/10
HP:8/8
MP:3/3
攻撃:2
防御:1
敏捷:1
魔力:2
固有スキル:喰掠の理、■■■
スキル:溶解Lv1、感応Lv1
目なんかないはずなのに、数字の列が見えた。
ゲームかよ!
HPとかMPとかレベルなら、まあわかる。前の俺も暇つぶしにスマホで何かやってたんだろう。雀荘の待ち時間なんて、だいたいそうやって潰すもんだし。
問題は、それ以外がさっぱりわからないことだった。
HP8って多いのか? 少ないのか? 比べる相手がいないから判断のしようがない。攻撃2、敏捷1。1って。どう見ても景気のいい数字じゃないだろ。
それから、腐肉の粘体。
腐った肉の、粘体。粘体って、スライム的なやつだよな。
しかも腐ってんのかよ!
「嘘だろ……」
口がないからか、やっぱり声は出なかった。
喰掠の理、溶解、感応。名前が並んでるだけで説明はどこにもないし、意識を向けてもあの声は何も教えてくれない。不親切にもほどがある。
一番気味が悪いのは、その隣の黒い塗り潰しだった。
■■■。
さっき登録に失敗したとか言ってたよな? これ、大丈夫なやつか?
〈――〉
黙った。都合が悪くなると黙るタイプか、こいつ。
じっとしているうちに、少しずつまわりがわかってきた。
体の表面に薄い膜が張っていて、そこに触れたものの形がぼんやり伝わってくる。ひやっとした岩。ぽたっ、ぽたっと落ちてくる水。湿った空気がゆるく流れているのもわかる。
届くのは、手を伸ばしたくらいの範囲まで。その先は真っ黒で、何もわからない。
感応って、これのことか。
空気が妙に重くて、ねっとりしていた。吸いこむと、体の芯がじんわり温まる。何か濃いものが、あたり一面に溶けているらしい。
それと、もうひとつ。
足の下のずっと深いところで、何かが脈を打っていた。
どくん、と。
岩そのものが、ものすごくゆっくり震えている。一回と次の一回のあいだが、気が遠くなるほど長い。
……心臓か、これ。
体の表面がぞわぞわっと波打った。
怖い。怖いはずなのに、なぜか胸の穴の縁を、そっと撫でられた気がした。
なんなんだよ、ここは。
カサッ。
膜の端に、何かが触れた。
硬くて冷たいものが、細い脚をせわしなく動かしている。関節がこすれる、かさかさした振動。
こっちに来てる。少しずつ、形が膜に映ってくる。俺の何倍もある胴体に、分厚い殻の背中。頭の先には、左右から閉じるでかい顎がついていた。
でっかい虫だ。
〈鑑定には技能が必要です〉
今それ言う? 聞きたいのはそこじゃないんだけど!
虫は床を探るように、ゆっくり近づいてくる。頭の先で、二本の触角がひくひく揺れていた。
何か嗅いでるな。ここで匂うものっていったら、腐った肉の匂いくらいで――
腐肉の粘体。
……あ。
俺じゃん。
こいつ、俺を喰いに来たのか!
逃げろ逃げろ逃げろ!
体を動かして、ずるずる這う。
遅っ!?
自分でも引くくらい遅い。水たまりが広がるほうがまだ速いんじゃないか、これ。
カサカサカサッ。
音がすぐ後ろまで来てる。無理だ、逃げきれない。
じゃあどうする。戦うか? 攻撃2で? あの殻に何ができるっていうんだよ!
考えがまとまる前に、触角がぴとっと俺に触れた。
虫が止まって、一秒、二秒。
カチン、と顎が鳴った。
〈HPが減少しました。HP:8→3〉
――っ!
痛いのとは違う。自分の半分以上をごそっと持っていかれて、底が抜けたみたいに力が入らない。
次に噛まれたら、死ぬ。
いやだ。
いやだ、いやだ、いやだ!
腹減ってんのは、こっちも同じなんだよ!
そう思った瞬間、体が勝手に動いた。
閉じかけた顎の隙間から喉の奥へ、残った俺が全部なだれこんでいく。考えてやったんじゃなくて、体のほうが先に飛びこんでいた。
喰われる前に喰え、と。
〈溶解を発動します。MP:3→2〉
口の中の柔らかい肉に触れたところが、じゅっと溶けた。
虫が跳ねる。
めちゃくちゃに頭を振って、俺を吐き出そうとしている。口の中で、俺は壁に叩きつけられてはまた叩きつけられた。
〈HPが減少しました。HP:3→2〉
まずい、振り落とされる。外に放り出されたら今度こそ終わりだ。
揺さぶられながら、膜が何かを拾った。
すぐ横の床に、細い裂け目が走っている。岩が割れて下に落ちこんだ溝で、幅はこの虫の頭がぎりぎり入るかどうかくらい。
――あそこだ。
降りられない局なら、押すしかない。
誰かに、そう教わった気がする。
なんで今そんなことを思い出したのかはわからない。でも、俺は確かに自分で選んだ。
口の中から、裂け目のほうへ全体重をかける。
ずるっ。
虫の頭が、裂け目に落ちた。
ガンッと殻が岩の縁にぶつかる。胴体は太すぎて溝に入らず、頭だけががっちり挟まった。脚が宙をかき、後ろの脚が床をがりがり引っかく。
もう抜けないし、頭も振れない。
〈溶解を発動します。MP:2→1〉
溶けろ。
〈溶解を発動します。MP:1→0〉
溶けろ溶けろ溶けろ!
〈溶解の熟練度が上昇しました。溶解Lv1→Lv2〉
じゅう、と音が変わった。さっきより深いところで、柔らかいものがぐずぐず崩れていく。
虫の脚の動きがだんだん鈍くなって、最後に一回だけびくんと大きく跳ねて、それきり止まった。
喰掠の理。
名前を思い浮かべただけで、俺の奥で何かががばっと口を開けた。
最初に来たのは味だった。
うげっ、まずい! 泥と腐った葉っぱと錆びた釘を鍋で煮詰めたような、どうしようもない土の味がする。
なのに止まらない。
まずいまずいと思いながら、体が勝手にどんどん取りこんでいく。
そのうち、熱が来た。
溶けた肉の奥に、固くて熱い小さな塊があった。それがほどけた途端、とんでもない熱が体の端から端まで一気に駆け抜ける。
熱っ、熱い熱い!
でも、嫌な熱さじゃなかった。飢えて冷えきっていた内側が、どんどん満たされていく。
――喰いたい。
俺のじゃない声がした。
――喰いたい。喰いたい。喰いたい。腐った肉。柔らかい肉。喰いたい、喰いたい、ただ喰いたい。
虫の、最後の気持ちだった。
言葉にもなってない真っ黒な飢えが、どっと押し寄せてくる。俺ごと押し流そうとしてくる。
喰いたい、喰いたい、喰いたい――
……うるさい。知ってるよ、そんなの。
俺だって腹が減ってたんだ。お前は俺を喰おうとして、俺がお前を喰った。それだけの話だろ。
だから、お前の飢えはいらない。俺の腹は、俺のもんだ。
押し寄せてくる声を、奥歯で噛むようにして砕いて、飲みこむ。歯なんかないけど、気持ちの問題だ。
黒い飢えはしばらく俺の底でぐるぐる渦を巻いて、それからふっと静かになった。
〈捕食を完了しました〉
〈対象:屍喰い甲虫 Lv4〉
〈経験値38を獲得しました〉
〈うち3は上位領域へ転送されました〉
〈経験値35を取得しました〉
〈レベルが上昇しました。Lv1→Lv2〉
〈レベルが上昇しました。Lv2→Lv3〉
〈能力値を吸収しました〉
〈技能の解析を開始します〉
〈対象技能:硬殻Lv2――解析成功。技能【硬殻】を獲得しました〉
〈対象技能:腐臭探知Lv1――解析失敗〉
声がばーっと流れていく。
あの虫、屍喰い甲虫っていうのか。レベル4で、こっちはレベル1だったから三つも格上だ。
よく勝てたな、俺……。
レベルが二つ上がって、硬殻とかいうスキルが増えた。腐臭探知の失敗っていうのは、たぶん取り損ねたってことだろう。
で、ひとつ聞き捨てならない一行があった。
うち3は、上位領域へ転送されました。
転送? どこに? 誰に?
俺が死にかけて稼いだもんを、誰かが横から黙って抜いていった。どう読んでもそういう意味だよな、これ。
「おい」
呼んでみる。
〈――〉
はいはい、黙秘ね。わかってたよ。
雀荘でも、場代だけはきっちり取られた。勝とうが負けようが、店は必ず一定の額を持っていく。でもあれは、少なくとも誰が取ってるのかはわかってた。
こいつは、それすらわからない。
硬殻は、名前だけじゃ何が起きるのかわからない。だから試してみた。
硬殻、と念じる。
体の表面がきゅっと突っ張って、外側だけがかさぶたのように少し固くなった。膜で触ってみると、つるつるして硬い。
あの虫の、背中の殻だ。
喰ったやつの力が、ちゃんと俺の中に残ってるんだ。
溶かすものと、固めるもの。真逆のものが同じ体の中にあるのは、なんだか変な気分だった。
さっきの戦いを思い返す。
勝てたのは、ほとんど運だ。体が勝手に口の中へ飛びこんだのも、溶けたのも、すぐ横に裂け目があったのも。
でも、裂け目に体を傾けたのだけは俺だ。
なんでうまくいった?
あの虫は背中が硬かったけど、口の中は柔らかかった。暴れられたら振り落とされるけど、頭が挟まれば暴れられない。
……そういうことか。
今さら気づいても遅いんだけどな!
配られた手も見ないで、なんとなく打って、たまたま上がっただけ。そういう勝ち方をした若いのが、次の半荘でぼろぼろに負けて帰っていくのを、俺は雀荘で何十回も見てきた。
ツキで上がったやつは、ツキがなくなった途端に崩れる。
なのに今の俺は、ツキ以外に何も持ってない。この卓のルールすら知らないんだ。何が強くて何が弱いのか、相手が何を持っていて何を狙ってるのか、何ひとつ読めない。
まずは覚えるしかない。この場所のルールと、ここにいるやつらの手の内を。
今日の偶然を、次は狙ってやる。
〈個体名が未登録です。登録しますか〉
また声がした。
名前か。
前の名前は胸の穴の向こうに落っこちてて、拾いに行けそうにない。なら、今の俺に合うやつをつければいい。
胸の真ん中の、空っぽの穴。何もなくて何も見えなくて、喰っても喰ってもまだ腹が減ってる。
「――ヴォイド」
声は出なかったけど、名前はちゃんと俺の奥に刻まれた気がした。
〈個体名の登録を受理しました〉
〈個体名:ヴォイド〉
足の下で、またあの鼓動が鳴った。
どくん、と。
名前を呼ばれて、返事をしたみたいに。
【ステータス】
個体名:ヴォイド
種族:腐肉の粘体
段階:1
レベル:3/10
HP:9/17
MP:1/5
攻撃:4
防御:3
敏捷:1
魔力:3
固有スキル:喰掠の理、■■■
スキル:溶解Lv2、感応Lv1、硬殻Lv1
HPが少しだけ戻っていて、空っぽだったMPにも一滴ぶんの熱がたまっていた。喰えばそのぶん回復するらしい。
とはいえHP9だ。さっきは一口で5持っていかれたから、あの虫がもう一匹来たら二口で終わる。
……笑えねえ。
俺は空っぽになった虫の殻の陰にずるずる潜りこんで、硬殻で体の表面を固めておいた。これで少しは匂いが閉じこめられるといいんだけど。
腹はまだ、ちょっと減っていた。




