第十六話
あの遠吠えの次の晩から、群れの水の飲み方が変わった。
最初に降りてくるのは見張りじゃなくて、頭になった。
頭がひとりで水際まで来て、湖をじっと見る。鼻をひくつかせて、耳を立てて、長いあいだ動かない。それからようやく振り返って、短く喉を鳴らす。
それを合図に、ほかの連中が降りてくる。
頭はみんなが飲み終わるまで一滴も飲まなかった。水際の一番湖に近いところに立って、ずっと水面をにらんでいる。
全員が飲み終わって岩場に戻ってから、頭は最後にひとりで少しだけ飲んだ。
……最後に飲むのは、前は最後尾の役目だったよな。
それを今は、頭がやってる。
見張りの代わりに、湖の主から群れを守る盾になってるんだ。
正直、めちゃくちゃ困った。
頭があそこに立ってるかぎり、ほかのやつを水際で引きこむのは無理だ。誰かに手を出した瞬間、頭が飛びこんでくる。若いのを引きこんだ晩、あいつは前脚を水に入れた。次はたぶん全身で来る。
全身で来られたら、どうなる?
浅瀬なら、狼の脚でも十分立てる深さだ。水の中だからって、あの体格差がひっくり返るとは思えない。
頭のステータスはわからない。鑑定なんて持ってないからな。でも最後尾と若いのの記憶の中で、頭はいつも桁違いだった。どんな相手にも引かない。噛みつけば骨ごと砕く。
今の俺じゃ、勝てない。
どう読んでも勝てない!
じゃあ、どうする?
……知らないことが多すぎるんだよな。
あいつらがどこで寝てるのか。何頭いるのか。何を喰ってるのか。俺が知ってるのは、湖の岸に来たときの姿だけだ。
雀荘で、知らない客と打つときは、最初の何局かはとにかく様子を見た。どんな手が好きか、どこで押してくるか、負けが込むとどう崩れるか。それがわかるまでは、大きく張らない。
今は、まさにそれだ。
陸に上がることにした。
匂い写しで、岩場の匂いをまとう。乾いた石と苔の匂いだ。腐肉の匂いはその下にすっぽり隠れる。
〈MP:17→16〉
岸を這い上がって、狼たちが毎晩通ってくる匂いの帯を追った。
もちろん、帯の上を直接は進まない。そんなことをしたら、俺の通った跡が狼の道に残る。帯から少し離れた岩の陰を、ずるずると進んでいく。
匂いをまとってるあいだは、MPがじわじわ減っていく。
〈MP:16→14〉
途中で何度か、岩のくぼみに潜りこんで休んだ。
岩場を抜けると、少し開けた場所に出た。天井が高くて、乾いた風が流れてくる。地面には骨があちこちに転がっていた。
骨の匂いを嗅いでみる。蟹の殻。盲鼠の頭蓋骨。蛇の背骨。それから俺の知らない何か大きなものの、太い脚の骨。
狩りの食べ残しか。でかい骨まであるぞ、おい。
その先に、岩が崩れて重なりあったところがあって、匂いの帯はそこに吸いこまれていた。
岩と岩の隙間の奥に、空洞がある。
巣だ。
〈MP:14→12〉
巣穴から少し離れた岩の陰に、体を平たく押しつけた。
熱感知を向ける。
灯りが見えた。
入口のすぐ内側に、大きいのがひとつ。たぶん見張りだ。奥に、それより少し大きいのが三つ、寄り添って丸まっている。
そして、一番奥に。
ひときわ強く燃えている、でかい灯り。頭だ。
その頭の腹のあたりに、小さな灯りが、ふたつ。
……え?
小さい。盲鼠より少し大きいくらいだ。頭の腹にぴったりくっついて、もぞもぞ動いている。
子どもだ!
狼の子どもが、二頭いる。
しばらく、何も考えられなかった。
それから、盲鼠の巣を思い出した。
寄り添う毛の塊。乾いた草の寝床。帰らなきゃいけない場所。
この群れにも、それがあったんだ。
最後尾の記憶にも、若いのの記憶にも、子どもの匂いはなかった。たぶん生まれたばっかりなんだろう。群れが近ごろ水を飲む時間を気にしていたのも、頭が水際で盾になったのも、もしかしたら――
ここに、守るものがあるからか。
前の世界で、公園の植え込みの段ボールに、子犬が捨てられてるのを見つけたことがある。夜勤明けの朝だった。二匹いて、きゅうきゅう鳴いていた。
俺のアパートはペット禁止で、結局、コンビニで牛乳を買って、皿代わりのフタに注いで置いてきただけだった。
次の日に行ったら、段ボールはもうなかった。
誰かが拾ったのか、それとも。
わからないまま、それきりだ。
……なんでこんなことばっかり思い出すんだよ!
名前も顔も思い出せないくせに。
頭の灯りが、ゆっくり持ち上がった。
起き上がって、巣穴の入口のほうへ歩いてくる。
やばっ、気づかれたか!?
俺は岩の陰で、体をさらに平たくした。岩の匂いを、もう少し濃くする。
〈MP:12→10〉
頭は入口で立ち止まって、鼻を上に向けた。
嗅いでいる。
風の匂いを。岩の匂いを。
長いあいだ、そうしていた。
それから、くるりと向きを変えて、巣穴の奥へ戻っていった。子どもたちの灯りのそばに、また体を横たえる。
……セーフ! あっぶねえ!
心臓がばくばくしていた。心臓なんかないけど、霊核がばくばくしてた気がする。
帰り道は、行きよりずっと長く感じた。
岩場の匂いをまといなおしながら、慎重に湖へ戻る。
〈MP:10→8〉
途中で、熱感知が少し遠くまで見えるようになっていることに気づいた。
〈熱感知の熟練度が上昇しました。熱感知Lv1→Lv2〉
岩の向こうの小さな灯りの形まで、前よりはっきりわかる。巣穴で目をこらし続けたせいかもしれない。
湖に戻って、浅瀬の砂に潜りこんでから、ようやく息をついた。
わかったことを、頭の中で並べる。
群れは今、六頭いる。頭と、たぶん副の雌と、見張りが一頭と、成獣が二頭。それから子どもが二頭。
頭は子どもから離れない。水際で盾になるのも、たぶん子どもに水を運ぶ群れを守るためだ。
あいつは、群れのために動いてる。
最後尾のことは待たなかったのに。
……いや、違うか。
最後尾を待たなかったのも、群れのためだったのかもしれない。足の遅い一頭に合わせていたら、群れ全体が危なくなる。頭はそういう計算をして、切り捨てた。
俺と同じだ。
餌場を残すとか、損得とか言ってる俺と、やってることは変わらない。
【ステータス】
個体名:ヴォイド
種族:腐肉の粘体
段階:1
レベル:10/15
HP:76/76
MP:8/17
攻撃:13
防御:8
敏捷:11
魔力:13
固有スキル:喰掠の理、変質者、■■■
スキル:溶解Lv3、硬殻Lv3、聴音Lv2、熱感知Lv2、震覚Lv2、水化Lv2、水弾Lv3、匂い写しLv2
今の俺じゃ、頭には勝てない。
だから、もっと喰う。もっと強くなる。
それと、あの巣穴の小さな灯りふたつのことは、いったん考えないことにした。
考えたら、たぶん手が鈍る。
手なんかないけどな。




