第十五話
群れが来るかどうか、正直、五分五分だと思っていた。
あれだけ怖がってたんだから、別の水場を探しに行ってもおかしくないだろ?
でも最後尾の記憶を思い返すと、それは難しいはずだった。縄張りの中で、まともに水が飲める場所はこの湖しかない。ほかの水場は別の群れの縄張りか、あの糸の匂いがする広間の近くだ。
喉が渇けば、来るしかない。そして実際、群れは来た。
いつもより、ずっと遅い時間だった。
見張りの二頭が岩場の上でなかなか降りてこない。何度も鼻を鳴らして、水際の匂いを確かめている。
ようやく降りてきても、昨夜あいつの匂いがした場所には近づかなかった。わざわざ大回りして、反対側の端の、岩がごつごつした水際を選んでいる。
頭が降りてきて飲む時間も、いつもよりずっと短い。
ほかの連中も急いで飲んで、誰も水面から目を離さない。耳もずっと湖のほうを向いている。
完全に、湖の主がいる湖の飲み方だ。
……悪いな。主はもういないんだ。代わりに、俺がいるけど。
その中に、一頭だけ落ち着きのないやつがいた。
若い見張りだ。昨夜、前に出ようとして頭に吠えられたやつ。
そいつは水を飲みながら、ちらちらと反対側の水際を見ていた。最後尾の匂いがした、あの場所だ。
気になってしょうがないんだろう。怖いのに見たくて、見たいのに怖い。顔なんか見えないけど、匂いと仕草でなんとなくわかる。
雀荘にも、こういう若いのがいた。危ない牌だってわかってるのに、なぜか切りたくなって、結局切る。で、振りこむ。
俺はそっと、最後尾の匂いを水際に流した。
〈MP:16→15〉
ほんの少しだけ。風に乗って、かすかに届くくらい。
若いのの耳が、ぴくっと動いた。……よし、食いついたか?
群れが帰りかけたとき、若いのがひとりだけ足を止めた。
頭が短く喉を鳴らす。帰るぞ、の合図だ。
若いのは一歩だけ群れのほうへ戻りかけて、また止まった。
それから反対側の水際へ、そろそろと歩きだした。
最後尾の匂いがする場所へ。
頭が振り返って、低く唸った。
若いのは一瞬びくっとしたけど、止まらなかった。耳を伏せて、尻尾を下げて、それでも水際に近づいていく。
匂いのする水面に鼻を近づけて、くうん、と鳴く。首を伸ばす。もう少し、もう少し。
そして、前脚が一本、水に入った。
――ここだ。
俺は水の中で、さっきから少しだけ深いところに移っていた。前脚が一本入るくらいの場所なら、もう一歩で膝まで沈む。
体を水化で透きとおらせて、その一歩先で待つ。
〈MP:15→14〉
若いのが、もう一歩踏み出した。
前脚が二本とも、水の中だ。
今だ!
水の中から、若いのの前脚に巻きついて、一気に深みのほうへ引っぱる。
若いのが悲鳴をあげて、後ろ脚で踏ん張ろうとする。でも濡れた砂の上じゃ踏ん張りがきかない。ずるずると水の中に引きずられていく。
〈HPが減少しました。HP:67→61〉
爪が俺の体を引っかく。水の中だと、陸の上ほど力が入らないらしい。浅い。
腹まで、肩まで、水に沈んでいく。
若いのが首を振って、水面から顔を出そうとする。俺はその首に回りこんで、鼻と口を水の中に押さえこんだ。
〈溶解を発動します。MP:14→13〉
岸の上が、大騒ぎになった。
群れの全員が一斉に吠えはじめた。わんわんがうがうと、ものすごい声だ。見張りのもう一頭が、水際をぐるぐる走り回っている。
それでも誰も水には入ってこないし、入ってこられないんだ。
水の中に、仲間を引きずりこむ何かがいる。湖の主がまた獲物を捕まえた。あいつらにはそうとしか見えないだろう。
〈溶解を発動します。MP:13→12〉
若いのが、俺に噛みついてきた。
〈HPが減少しました。HP:61→55〉
水の中でも、牙は牙だ。痛っ!
でも息が続かないんだろう。噛む力はすぐに弱くなった。
そのときだった。
岸の騒ぎが、ふっと止んだ。
熱感知を向けると、群れの全員が水際から下がっていた。その真ん中を、ひとつのでかい灯りが歩いてくる。
頭だ。
頭はまっすぐ水際まで来た。唸りもしない。吠えもしない。ただ若いのが沈んでいるあたりの水面を、じっと見ている。
それから――頭は、前脚を一本、水に入れた。
――っ!
群れの誰も、一度もやらなかったことだ。最後尾も、若いのも、おそるおそるやっただけのことを、頭は迷いなくやった。
怖くないのか?
いや、怖いはずだ。背中の毛は逆立ってるし、喉の奥ではかすかに震える音がしてる。
怖いのに来たのか、仲間を取り返しに。
頭は、もう一歩踏み出そうとした。
〈溶解を発動します。MP:12→11〉
若いのの体から、最後の力が抜けた。
頭の脚が止まった。水面の向こうで何が起きたのか、たぶんわかったんだろう。
頭はしばらくそのまま動かなかった。水に前脚を一本入れたまま、じっと湖を見ていた。
それから、ゆっくり脚を引いた。
群れが帰ったあと、俺は若いのを喰った。
喰掠の理。
最後尾より、肉が柔らかかった。若いんだろう。血の味も少し薄い。
流れこんできたのは、憧れだった。
――あんなふうになりたい。
頭の背中。一番前を走る、大きな体。どんな相手にも引かない。群れのみんながあの背中についていく。
いつか自分も、あんなふうに。
それから、恐れ。
最後尾の匂いがする水。怖い。でも知りたい。何があるのか、確かめたい。頭に吠えられても、確かめたかった。
……バカだなあ、お前。
噛み砕きながら、そう思った。
好奇心で死ぬのは、若いやつの特権かもしれないけどさ。
〈捕食を完了しました〉
〈対象:餓狼 Lv6〉
〈経験値60を獲得しました〉
〈うち6は上位領域へ転送されました〉
〈経験値54を取得しました〉
〈レベルが上昇しました。Lv9→Lv10〉
〈能力値を吸収しました〉
〈技能の解析を開始します〉
〈対象技能:嗅覚Lv2――解析成功〉
〈技能【嗅覚】は保有技能【匂い写し】と同系統です。自動で統合します〉
〈匂い写しLv1→Lv2〉
〈対象技能:疾走Lv2――解析失敗〉
〈系統の記録を更新しました。餓狼:2〉
餓狼が二。レベルは10で、上限が15に上がってなかったらここで止まってたところだ。危なっ!
疾走は失敗。逃走に続いて、足が速くなるスキルにはとことん嫌われてるらしい。
まあ、粘体だしな。走る脚もないのに疾走って何だよって話だ。
その夜、遠くで遠吠えが聞こえた。
いつもの、群れが呼び合う声じゃなかった。
一頭だけの、低くて長くて太い声。湖の岸の、すぐ向こうの岩場から響いてくる。
頭の声だった。途中で途切れることもなく、ずっと続いている。
呼んでるのか? それとも、湖の中にいる何かに向かって言ってるのか?
――次は、俺が行く。
なんとなく、そう聞こえた。
その声を聞きながら、俺の霊核の奥が、また震えた。前よりはっきりと。前より強く。
【ステータス】
個体名:ヴォイド
種族:腐肉の粘体
段階:1
レベル:10/15
HP:62/76
MP:12/17
攻撃:13
防御:8
敏捷:11
魔力:13
固有スキル:喰掠の理、変質者、■■■
スキル:溶解Lv3、硬殻Lv3、聴音Lv2、熱感知Lv1、震覚Lv2、水化Lv2、水弾Lv3、匂い写しLv2
湖の底で、俺は頭の声が止むのを待った。
あいつは強い。体も頭も心も。
怖いのに、仲間のために水に脚を入れられるやつだ。
……そういうやつとだけは、正直やりたくなかったんだけどな。




