第十四話
一晩中湖に浸かっていたおかげで、臭鼬の悪臭はやっと薄れてきた。
完全には落ちてない。腐肉の匂いの上に焦げたゴムの匂いがうっすら乗っかってて、たぶん一生ついて回るんだろう。
最悪の香水だな、おい!
で、作業台だ。
嗅覚と臭腺を並べてみる。
嗅覚は細い管がたくさん束になった形をしていた。外から入ってくる匂いを、管の一本一本が拾いあげる。
臭腺は小さな袋だった。中に何かが詰まっていて、口のところがきゅっと締まっている。
やっぱり似てるよな?
管が匂いを吸いこんで、袋が匂いを吐き出す。向きが逆なだけで、扱ってるものは同じだ。
溶解と硬殻のときの、喧嘩する感じもしない。
これなら、いける気がする。
作業台の上で、ふたつをそっと近づけた。
管の先が、袋の口に触れる。
するっ。
管が袋の中に吸いこまれて、内側にびっしり張りめぐらされた形に変わっていく。
〈統合に成功しました〉
〈技能【嗅覚】【臭腺】を統合し、技能【匂い写し】を生成しました〉
〈MP:16→11〉
匂い写し。
名前を聞いた瞬間、なんとなく使い方がわかった。
嗅いだ匂いを袋の中に写しとって、写しとった匂いを袋から出す。
つまり一度嗅いだ匂いなら、何でも出せるってことか?
……試してみるしかないな。
まずは、一番簡単なやつから。
冷たくて少し鉄っぽい、湖の水の匂いを思い浮かべる。
それを袋に写して、出す!
〈MP:11→10〉
ふわっと、俺のまわりに水の匂いが広がった。
次の瞬間、気づいた。
腐肉の匂いが、しない。
……え?
消えたわけじゃない。俺の体からは相変わらずあの匂いが出てる。でも、それを水の匂いがすっぽり包みこんで、外に漏れないようにしてる。
おおお……!
これだよ、これ!
陸に上がっても、これをまとってれば匂いでばれない。狼の鼻をごまかせる!
いや待て、ごまかせるかどうかはまだわからない。俺の鼻は昨日今日もらったばかりで、狼の鼻のほうがたぶんずっといい。
試さないとな。
次は岩場の匂いを出してみた。乾いた石と苔の匂い。
〈MP:10→9〉
うまくいった! 岸に上がって岩の陰でこれをまとってると、自分でも自分がどこにいるのかわからなくなりそうだ。
それから。
少しだけ迷ってから、もうひとつ試した。
最後尾の匂いだ。
あいつを喰ったときに流れこんできた匂い。少し血の混じった獣くさい匂いで、後ろの左脚をかばって歩くときの汗の匂いまで混じっている。
全部、覚えてた。
覚えてたから、写せてしまった。
〈MP:9→8〉
ふわり、と。
岸辺に、あいつの匂いが漂った。
……。
さすがに、ちょっと気分が悪かった。
あいつはもういない。俺が喰った。その匂いを、俺が勝手に使ってる。
趣味が悪いにもほどがあるだろ。
すぐに匂いを止めた。
それでも、頭の中では、もう考えが回りはじめていた。
狼の群れは水を怖がってる。湖の主がまだいると思ってる。
そこへ、死んだはずの仲間の匂いが、水際から漂ってきたら。
あいつらは、どう思う?
雀荘で一番効くハッタリは、相手が一番怖がってるものを見せることだった。こっちが本当に持ってるかどうかは関係なくて、相手が勝手に怖がってくれればそれでいい。
……試すだけだ。試すだけ。
自分にそう言い訳して、俺は次の晩を待った。
群れが来た。
見張りの二頭が先に降りてきて、嗅ぎまわる。
その前に、俺は浅瀬の底から、最後尾の匂いを水際に流しておいた。あいつがいつも一人で飲んでいた、あの場所に。
昼のあいだに満タンまで戻したMPが、匂いを流しつづけるうちにじわじわ削れていく。一度出せば終わりってわけじゃないらしい。
〈MP:16→10〉
見張りの一頭が、ぴたりと止まった。
鼻を、ひくひくさせる。
あいつの匂いがする場所へ、ゆっくり近づいていく。首を低くして何度も何度も嗅ぐ。
それから、くうん、と細い声で鳴いた。
もう一頭の見張りも寄ってきて、同じように嗅いで、同じように鳴いた。
岩場の上の群れが、ざわついた。
頭が、降りてきた。
いつもの堂々とした歩き方はどこにもなくて、首を低くして耳を伏せて、一歩一歩確かめるように歩いてくる。
水際の、あいつの匂いがするところで止まった。
嗅ぐ。
長いこと、ずっと嗅いでいた。
それから顔を上げて、湖を見た。
背中の毛が、ぶわっと逆立った。
――ぐるるるるるっ!
今までで一番低い唸り声だった。威嚇っていうより、何かを本気で怖がってる声だ。
群れ全体が、一斉に水際から跳び退いた。
その中で、一頭だけ逆に前に出たやつがいた。
若い見張りの片方だ。首を伸ばして、あいつの匂いがする水面を興味深そうに嗅いでいる。前脚を、そろりと水に――おい、入る気か?
頭が吠えた。
がうっ、と短く鋭く。
若いのは飛び上がって、尻尾を巻いて群れの中に逃げこんだ。
その晩、群れは水を飲まずに帰っていった。
足音が遠ざかって、岸が静かになった。
俺は浅瀬の底で、しばらく動けなかった。
効いた。
効きすぎるくらい効いた。
あいつらは今、水の中に死んだ仲間を喰った何かがいると思ってる。湖の主がまだ生きていて、最後尾を引きずりこんだと思ってる。
まあ、半分は合ってるんだけど。
湖の主の代わりに、今は俺がいる。
……でも、ひとつだけ引っかかった。
あの若い見張り。
群れが怖がって跳び退いたのに、あいつだけは前に出た。好奇心が強いのか、怖いもの見たさってやつか。
頭が止めなかったら、あいつは水に脚を入れてた。
あいつは、また来る。
【ステータス】
個体名:ヴォイド
種族:腐肉の粘体
段階:1
レベル:9/15
HP:67/67
MP:10/16
攻撃:11
防御:8
敏捷:9
魔力:12
固有スキル:喰掠の理、変質者、■■■
スキル:溶解Lv3、硬殻Lv3、聴音Lv2、熱感知Lv1、震覚Lv2、水化Lv2、水弾Lv3、匂い写しLv1
明日の晩、群れは水を飲みに来るだろうか。
来なかったら、どこか別の水場を探すんだろう。
来たら――
俺は浅瀬の底で、最後尾の匂いを袋の中にしまったまま、じっと待つことにした。
腹はもう減っていなかった。減っていないのに、喰いたいと思った。
それが、少しだけ怖かった。




