第十三話
次の晩も、群れは来た。
見張りの二頭が降りてきて、嗅ぎまわって、鼻を鳴らす。残りが降りてくる。頭が一番に飲む。いつもと同じ順番だ。
違ったのは、一か所だけだった。
頭が昨夜あいつが死んだ場所で足を止めた。
岸の砂に鼻を近づけて、長いこと嗅いでいる。耳がぴんと立っていた。
嗅覚を手に入れた今なら、俺にもわかる。あそこにはあいつの匂いがまだ少し残ってる。それと俺の腐った匂いも。
頭は、しばらくそこから動かなかった。
それから顔を上げて、湖をじっと見た。
ぐるるる、と低く唸る。
……来るか?
来なかった。
頭はふいと顔をそむけて、何事もなかったように水を飲みはじめた。ほかの連中も、それにならう。
最後尾がいなくなったぶん、今夜は全員がちゃんと飲めていた。
誰も、あいつを探しには行かなかった。
さて。
問題は、俺の匂いだ。
嗅覚を手に入れてから、自分がどれだけ臭いのかを嫌ってほど思い知らされた。どろっと甘ったるくて、鼻の奥に刺さる腐肉の匂い。それを四六時中まき散らしてる。
水の中ならまだいい。匂いはすぐ薄まる。
でも陸に上がったら、もう駄目だ。狼の鼻なら、どこにいたって一発でばれる。
狼を狩りたいなら、いずれは陸に上がらなきゃいけない。最後尾のように、都合よく水に入ってくれるやつばっかりじゃないからな。
匂いを、どうにかしないと。
……どうやって?
わからないときは、とりあえず嗅いで回るしかない。
浅瀬から少しだけ岸に上がって、鼻を利かせる。もちろん鼻はないけど、そういう気分だ。
すぐにわかったのは、匂いが道になってるってことだった。
狼の群れが毎晩通る道は、匂いが太い帯になって岩場の向こうへ続いてる。その途中に、ところどころ匂いの濃い場所がある。岩の角や、目立つ石の根元。
縄張りの目印か。
最後尾の記憶にあった、見回り道の匂いと同じだ。あいつらは毎晩この道を回って、匂いをつけ直してる。
捨て牌どころじゃないな。ここに来たぞって、自分から看板を立てて回ってるようなもんだ。
そのほかにも、いろんな匂いがあった。
湿った苔の匂い。小さい虫の、つんと酸っぱい匂い。盲鼠に似た匂いもする。
それから岩場の陰から、とんでもない匂いが漂ってきた。
うえっ……!?
腐肉とは別の種類の悪臭だ。焦げたゴムと腐った玉ねぎを混ぜて、さらに煮詰めたような匂い。鼻の奥がちりちり痛くなる。
なんだ、これ。
匂いをたどっていくと、岩の割れ目の奥に小さな巣穴があった。その出口の前には岩から染み出した水がたまって、小さな水たまりができている。
熱感知を向けると、巣穴の奥に、盲鼠より一回り大きい灯りがひとつ丸まっていた。
あの悪臭の主か。
〈嗅覚の熟練度が上昇しました。嗅覚Lv1→Lv2〉
……このタイミングで上がらなくていいって! よけいに臭くなるだろ!
あいつ、何なんだろうな。
この悪臭はたぶん武器だ。蛇が毒の牙を持ってるのと同じで、こいつは匂いを持ってる。襲ってきたやつに匂いをぶっかけて、ひるんだ隙に逃げるんだろう。
臭いもので、身を守ってる。
……匂いで、身を守る?
もしこの力が手に入ったら、俺の腐肉の匂いも、どうにかできるかもしれない。
喰うしかないな、これは。
巣穴の出口の水たまりは、ちょうど俺が隠れられるくらいの大きさだった。小さいけど、水は水だ。
俺の卓だ。
水たまりに潜って、待った。
自分の匂いは水がいくらか消してくれる。でも相手の匂いはまったく消えてくれない。巣穴から漂ってくる悪臭が、じわじわと鼻にしみてくる。
くさい。くさいくさいくさい。
これ、何かの拷問か?
どれくらい待っただろう。ようやく、巣穴の奥の灯りがもぞもぞ動きだした。
出てくる。
細長い体に、ふさふさの尻尾。鼻先をひくつかせて、出口の水たまりで水を飲もうと首を伸ばす。
今だ!
水たまりから体を持ち上げて、鼻先を包む。
そいつは跳ねる代わりに、くるっと体の向きを変えた。
尻尾が、ばっと持ち上がる。
あ、これまずいやつ――
ぶしゅっ。
〈状態異常:悪臭〉
ぎゃあああああ!?
くさっ! くっさ! 鼻がもげる! ないけど! もげる!
嗅覚を手に入れたばっかりの体に、あの悪臭を直接ぶっかけられた。頭の中が真っ白になる。毒より効くぞ、これ!
その隙に、そいつが爪で引っかいてきた。
〈HPが減少しました。HP:64→58〉
逃げられる!
巣穴に戻られたら、もう手が出せない。出口を塞がないと。
水弾!
〈MP:16→15〉
巣穴の出口の岩に水の塊を叩きつける。ばしっ、と砕けた水しぶきに、そいつがびくっと一瞬止まった。
もう一発。
〈MP:15→14〉
今度はそいつの鼻先に当てた。こっちを向いて、牙をむく。
〈HPが減少しました。HP:58→52〉
いいぞ、逃げずにこっちを向いた。
鼻がもげそうなのをこらえて、そいつの体に飛びつく。頭から胴まで、一気に包む。
〈溶解を発動します。MP:14→13〉
じたばた暴れる。でも蛇や狼ほどの力はない。
〈溶解を発動します。MP:13→12〉
そいつはやがて、ぐったりと動かなくなった。
喰掠の理。
味は意外と普通だった。脂の乗った、ちょっと獣くさい肉だ。
ただ喰ってるあいだじゅう、あの悪臭が鼻の奥にこびりついて離れない。体の外にも中にも、匂いがしみこんでいる。
うまいのか臭いのか、もうわからない。
流れこんできたのは、臆病さだった。
大きいものが怖い。何もかも怖い。だから匂いで身を守る。匂いを出せば、みんな逃げていく。そうすれば、ひとりでも安心して眠れる。
……ああ、わかるかもな。
俺の腐肉の匂いとは、正反対の使い方だ。俺の匂いは呼び寄せるけど、こいつの匂いは追い払う。
噛み砕く。臭いけど、噛み砕く。
〈捕食を完了しました〉
〈対象:臭鼬 Lv5〉
〈経験値40を獲得しました〉
〈うち4は上位領域へ転送されました〉
〈経験値36を取得しました〉
〈能力値を吸収しました〉
〈技能の解析を開始します〉
〈対象技能:臭腺Lv2――解析成功。技能【臭腺】を獲得しました〉
〈対象技能:逃走Lv1――解析失敗〉
逃走、また失敗かよ。
盲鼠のときも失敗したよな? そんなに俺には逃げる資格がないってか。
まあいい。臭腺は手に入った。
水たまりで体を洗いながら――洗っても全然落ちないけど――臭腺を試してみた。
意識を向けると、体のどこかに小さな袋があるのがわかる。ぎゅっと絞ると、そこから匂いが出る。
出してみた。
ぶしゅっ。
ぐはっ! くさいっ! 自分でやっといて自分で死にかけるってどういうことだよ!
でも、わかったことがある。
この悪臭をまとってる間は、俺の腐肉の匂いがかき消される。
……かき消されるけど、代わりにこの悪臭をまき散らすことになる。狼の鼻なら、どっちにしろ一発でばれるよな。
だめじゃん。
いや、待て。
この袋は匂いを「出す」ためのものだ。どんな匂いを出すかは、たぶん、袋の中身次第なんだ。
もしこの中身を変えられたら?
鼻のいい俺は今ならいろんな匂いを嗅ぎ分けられる。狼の群れの匂いも。縄張りの目印の匂いも。
それから――死んだ最後尾の匂いも。
【ステータス】
個体名:ヴォイド
種族:腐肉の粘体
段階:1
レベル:9/15
HP:57/67
MP:13/16
攻撃:11
防御:8
敏捷:9
魔力:12
固有スキル:喰掠の理、変質者、■■■
スキル:溶解Lv3、硬殻Lv3、聴音Lv2、熱感知Lv1、震覚Lv2、水化Lv2、水弾Lv3、嗅覚Lv2、臭腺Lv1
作業台の上に、嗅覚と臭腺を並べてみた。
嗅ぎ取るものと、出すもの。
形が、少しだけ似ている気がした。
……とりあえず、その前にこの悪臭をなんとかしたい。湖に戻って、一晩中浸かってよう。




