第十二話
それから三晩、あいつは毎晩ひとりで戻ってきた。
群れが帰ってしばらくしてから、ひょこひょこと水際に来て、あたりの匂いを嗅いで、耳を立てて、それから水を飲む。
飲む場所は毎回同じだった。群れが使う水際から少し外れた、岸がゆるく水に沈んでいくところ。そこなら誰にも邪魔されずに、少しだけ深く首を入れられる。
三晩目には前脚が両方とも水に入っていた。
本人は気づいてないのか、気づいてて渇きに負けてるのか。どっちにしろ、一晩ごとにほんの少しずつ深くなっている。
癖ができあがったな。よしよし。
四晩目の前に、準備をした。
あいつが首を入れる場所の、すぐ先の水の中。そこに体を薄く広げて沈める。水化で体を透きとおらせておけば、水とほとんど見分けがつかない。
問題は、どこを狙うかだった。
正面から包んだって、あいつの牙なら俺くらい簡単に噛みちぎれる。蛇と違って、口が塞がる瞬間なんてないしな。
いや、ある。水を飲んでる最中、口と鼻を水に突っこんでるその瞬間だけは。
そこを包めば、あいつは息ができなくなる。それに口を塞いでしまえば、吠えて群れを呼ぶこともできない。
……我ながら、えげつないことを考えるようになったもんだ。
四晩目。
群れが来て飲んで帰っていって、最後のあいつは今夜もろくに飲めていない。
俺は水の中で待った。
しばらくして震覚が岸の足音を拾う。四本のうち一本だけ弱い、あの足音だ。
来た。あいつは水際で止まって匂いを嗅いで、耳を立てる。いつもの手順だ。
それから首を伸ばして、水に口をつけた。
ぴちゃ、ぴちゃ。
まだだ。もっと深く、もっと奥まで。
ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ……。
あいつが前脚を水に入れて、首をぐっと伸ばした。鼻先が俺の端に触れるか触れないかのところまで来る。
今だ!
水の中から体を一気に持ち上げて、鼻と口をまるごと包む。
〈MP:14→13〉
あいつが跳ねて、首を振って、後ろに跳び退こうとする。速いし、力が強い! 水から引っこ抜かれて、俺ごと岸の上に持ち上げられた。
まずい。水から出たら、こっちの卓じゃなくなる。
でも、ここで離したら全部台無しだろ!
鼻と口を包んだまま、体の残りを首に回す。ぐるっと一周巻きついて、外側を固める。
硬殻!
〈MP:13→12〉
固い首輪で締めあげて、内側から溶かしてやる。
〈溶解を発動します。MP:12→11〉
あいつが暴れて、岸の岩に体を叩きつけて、前脚で俺を引っかく。爪が硬殻を削る。
〈HPが減少しました。HP:54→46〉
いってえ! 爪も硬いのかよ。
〈溶解を発動します。MP:11→10〉
首を振るたびに、鼻を包んでた部分がずれる。あいつがその隙間に噛みついてきた。
〈HPが減少しました。HP:46→39〉
ぐっ……牙が、俺の一部を噛みちぎった。
離すな。離したら吠えられる。吠えられたら、群れが戻ってくる。七頭まとめて来られたら、それこそ終わりだ。
噛みちぎられたところに、すぐ体を寄せ直して、もう一回口を塞ぐ。
硬殻をかけ直す!
〈MP:10→9〉
〈溶解を発動します。MP:9→8〉
あいつの息がどんどん苦しそうになっていく。鼻も口も塞がれて、喉は溶かされてる。それでも暴れる。後ろの左脚を引きずりながら、それでも四本の脚で地面を蹴る。
〈HPが減少しました。HP:39→34〉
〈溶解を発動します。MP:8→7〉
〈HPが減少しました。HP:34→30〉
だんだん蹴る力が弱くなってきて、体がふらついて、前脚が折れて、岸の砂の上に横倒しになる。
それでもしばらく、小さく足を動かしていた。
やがてそれも止まった。
喰掠の理。
狼の肉は、硬くて、血の味が濃かった。
獣の匂いがむっと立ちのぼる。噛みごたえがあって、喰っても喰っても肉がある。甲虫や蛇とはまるで違う、ちゃんとした「肉」の味だ。
蛇よりずっと大きい熱い塊がほどける。
それから、声が来た。
――のど、かわいた。
――まって。おいていかないで。
渇きだった。いつも最後に飲まされる渇き。順番が来るころには、群れはもう帰りかけている。慌てて少しだけ飲んで、置いていかれないように走る。後ろの左脚が痛い。それでも走る。
群れのみんなの匂い。頭の、大きくて強い匂い。その匂いのそばにいれば、安心できた。でもいつも、一番遠くにいた。
縄張りの見回り道の匂いも流れこんできた。岩の割れ目、乾いた風の通り道、ほかの群れとの境目。
それから、ひとつの記憶。
糸の匂いがする広間。
前に、群れであそこに入ったことがある。若いのが二頭、網にかかった。頭が助けに行って、何かでかいものと戦った。頭の顔に、深い傷ができた。
それ以来、群れはあの匂いのする場所には近づかない。
……あの広間だ。
俺が半分を置いてきた、あの蜘蛛の網。
あいつらも、あそこで仲間を失ってたのか。
――おいていかないで。
最後にもう一度、その声がした。
噛み砕こうとして、少し手間取った。
置いていかれる気持ちっていうのは、腹の底にずしっとくる。胸の穴の縁を、何度も何度も撫でていく。
明け方の部屋で、待っていてくれた誰か。
俺は置いていったのか? それとも、置いていかれたのか?
わからない。わからないけど、ごめんな、ともう一度だけ思った。
それから、ちゃんと噛み砕いた。
〈捕食を完了しました〉
〈対象:餓狼 Lv7〉
〈経験値70を獲得しました〉
〈うち7は上位領域へ転送されました〉
〈経験値63を取得しました〉
〈レベルが上昇しました。Lv8→Lv9〉
〈能力値を吸収しました〉
〈技能の解析を開始します〉
〈対象技能:嗅覚Lv3――解析成功。技能【嗅覚】を獲得しました〉
〈対象技能:噛砕Lv2――解析失敗〉
〈対象技能:遠吠えLv1――解析失敗〉
〈系統の記録を更新しました。餓狼:1〉
餓狼。あいつら、餓狼っていうのか。
それより気になったのは、最後の一行だった。
系統の記録?
今までこんなの、甲虫を喰っても蛇を喰っても湖の主を喰っても、一度も出てこなかったぞ?
餓狼のときだけ、記録される。
進化の条件の一部。残りの条件。そして、遠吠えを聞いたときに震えた、俺の霊核の奥。
……ああ、そういうことかもしれない。
まだ確信はない。でも、たぶん俺は、こいつらを喰わなきゃいけないんだ。
嗅覚に意識を向けた。
その瞬間――くっさ!?
鼻なんかないのに、とんでもない匂いが襲ってきた。腐った肉の、どろっと甘ったるくて鼻の奥に刺さる匂い。
どこからだ? どこから――俺だった。
俺の体が、この匂いを出してる。
うわあ……。
ずっとこんな匂いをまき散らしてたのか、俺。そりゃ甲虫も来るし、狼の頭にも嗅ぎつけられるわ。
自分の匂いにのたうち回ったあとで、ようやくまわりの匂いがわかってきた。
湖の水の、冷たくて少し鉄っぽい匂い。魚の生臭さ。蟹の甲羅の、乾いた潮みたいな匂い。
岸の向こうからは、狼の群れの匂いが帯になって続いていた。来た道と、帰った道。その先の、縄張りの奥まで。
見えなかったものが、また見えるようになった。
【ステータス】
個体名:ヴォイド
種族:腐肉の粘体
段階:1
レベル:9/15
HP:38/64
MP:8/16
攻撃:11
防御:8
敏捷:8
魔力:12
固有スキル:喰掠の理、変質者、■■■
スキル:溶解Lv3、硬殻Lv3、聴音Lv2、熱感知Lv1、震覚Lv2、水化Lv2、水弾Lv3、嗅覚Lv1
岸の砂の上にはもう何も残っていなかった。
明日の晩も、群れは来るだろう。一頭足りないことに、あいつらは気づくだろうか。
たぶん、気づく。
でも、探しにはこない気がした。
あいつの記憶の中で、群れは一度も振り返らなかったから。




