第十話
体が重い。
湖の主を喰ってからずっとこうだ。HPもMPも休めば戻るけど、この重さだけは消えない。体の芯に、自分のものじゃなかった熱の塊がどっかり居座っている。
それでも、少しずつ馴染んでいった。
浅瀬で漂いながら重さに体を慣らしていくうちに、魚の群れが五回ほど行き来して、重さは重さのまま自分のものになっていた。
HP54、MP14。
生まれたときは8と3だったんだぞ。我ながら出世したもんだ。
水弾を試してみることにした。
湖の主が撃ってきた、あの水の塊だ。あれが今は俺の中にある。
意識を向けて、体の表面の一部をぎゅっと縮める。そこにまわりの水を集めて、固めて、押し出す。
〈MP:14→13〉
ぽちゃん。
目の前の水面に、小さなしぶきが立った。
……しょぼっ!
主のはハンマーで殴られたみたいに重かったのに、俺のは小石を投げこんだくらいの音しかしない。なんだこれ、泣けてくる。
もう一回。今度はもっと縮めて、もっと固める。
〈MP:13→12〉
ばしゃっ。
少しはましになった。でも、狙ったところから大きくずれた。
三発目は固めすぎて、押し出す前にぼろっと崩れた。
〈MP:12→11〉
四発目。縮めて、固めて、狙いを定めて、押し出す。
〈MP:11→10〉
ばしゃん!
岸辺の岩に当たって砕けた。狙ったところから、ほんの少し下。惜しい。
五発目。
〈MP:10→9〉
ばしゃん!
当たった。狙ったところに、ど真ん中。
〈水弾の熟練度が上昇しました。水弾Lv1→Lv2〉
よっしゃあ!
生まれて初めての、離れたところに届く攻撃だった。
今までは全部、触れないと何もできなかった。包んで溶かすには、相手に近づかれるのを待つか、こっちから這っていくしかなかった。
今は届く。弱いけど、ちゃんと届く。
とはいえ、一発ごとにMPが減る。主みたいに撃ちまくったらあっという間に空っぽだ。撃ち止めになったあいつがどうなったかは、俺が一番よく知ってる。
使いどころは考えないとな。
その夜――魚の群れが沖へ戻ったあとの静かな時間を、とりあえずそう呼んでる――のことだった。
震覚が、岸で何かを拾った。
足音だ。四本の脚で、爪が岩をかちかち叩いてる。一頭じゃない。二頭、三頭……。
聴音を向けると、はっ、はっ、はっ、と短い息が聞こえた。舌を出して、せわしなく吐く息だ。
熱感知。
岸の上に、灯りが並んでいた。
でかい。盲鼠や蟹とは比べものにならないし、盲蛇よりも熱い。四本脚で胴体が細長くて、頭が前に突き出してる。
全部で七頭。
――あの遠吠えの連中だ。
盲鼠を喰った日に聞いた、いくつもの喉が重なる声。あの声の主が、今この湖の岸に来てる。
俺は浅瀬の底の砂に、体をべたっと押しつけた。
動くなよ、俺。絶対に動くなよ?
七頭は、まっすぐ水際までは来なかった。
岸の岩場の上でいったん止まって、そのうちの二頭だけが先に水際へ降りてくる。鼻を地面にこすりつけるようにして、あたりを嗅ぎまわっている。残りの五頭は、岩場の上で待っていた。
先に来た二頭が水際で頭を上げて、短く鼻を鳴らした。
それを合図に、残りが降りてくる。
見張りか。
先に安全を確かめる役がいて、確かめ終わってから残りが来るわけだ。よくできてるな、おい。
七頭のうち、一頭だけ明らかにほかと違うやつがいた。
一回り大きい。熱感知の中で、そいつの灯りだけがひときわ強く燃えている。
そいつは最後に降りてきた。誰よりも遅く、でも誰よりも堂々と。水際に着くと、ほかの六頭がさっと道をあける。そいつが真ん中の一番いい場所で水を飲みはじめても、ほかの連中は黙って待っている。
群れの頭だ。
震覚で足取りをなぞると、一歩一歩が地面にずしっと食いこむ。体のあちこちに、硬くなった古い傷の手ざわりがあった。
何度も何度も戦ってきたやつの体だ。
うわ、あれとは絶対にやりたくない。
頭が飲み終わると、ほかの連中が順番に飲みはじめた。
その順番にも決まりがあるらしい。大きいやつから先で、若そうなのは最後のほう。
そして、七頭目。
一番最後に、一頭だけひょこひょこ遅れて水際に来たやつがいた。
足音がおかしい。四本のうち一本だけ、地面を叩く音が弱い。そこに体重をかけないように、かばいながら歩いている。
後ろの左脚か。痛めてるんだな。
そいつは、ほかの連中が飲み終わってから、ようやく水に口をつけた。
群れは、そいつを待たなかった。飲み終わったやつから順に岩場へ戻っていく。頭が岩場の上で振り返って、短く喉を鳴らすと、見張りの二頭が最初に動いて、残りがついていく。
脚を痛めたやつは、まだ飲んでいる。
……置いていかれてるぞ、お前。
そのとき、頭が止まった。
岩場の上で振り返ったまま、鼻をひくつかせている。
こっちを向いた。
湖を、浅瀬を、俺が潜ってるこの砂のあたりを。
匂いか!
水の中なら腐肉の匂いは薄まって、遠くまでは届かない。でもゼロじゃない。岸のすぐそばまで来たあいつの鼻なら、かすかに嗅ぎつけることもできるのかもしれない。
頭は動かない。熱感知の中で、あいつの灯りがまっすぐこっちを向いている。
喉の奥で、低い音が鳴った。
ぐるるる、と。
やめろやめろ、こっち見んな。
俺は動かなかった。震覚も熱感知も全部あいつに向けたまま、砂の中でひたすら固まっていた。
長い時間が経った気がした。
やがて頭は、ふいと顔をそむけた。岩場の向こうへ歩きだすと、群れがついていく。
脚を痛めたやつが慌てて水から顔を上げて、ひょこひょこ後を追った。
足音が遠ざかっていく。
はあああ……。寿命が縮んだ。粘体の寿命がどれくらいか知らないけど。
あれは、今までの獲物とは違う。
甲虫も盲鼠も盲蛇も蟹も、湖の主でさえ一匹だった。一匹を相手に、一匹で戦ってきた。
あいつらは七頭いる。見張りがいて、頭がいて、順番がある。一頭を狙えば、残りの六頭が飛んでくるだろう。
ひとつの卓に、敵が何人も座ってる。この体になってから、そんな卓には座ったことがない。
でも、前の俺は知ってたはずだ。
雀荘で、三人の常連がつるんでるように見える卓に、一人で入ったことが何度もある。仲良さそうに笑ってても、点数が動きだせば全員が自分の点数しか見てなかった。一番弱いやつが崩れると、卓全体の空気ががらっと変わる。
頭が振り返ったとき、脚を痛めたやつはまだ水を飲んでいた。
群れは、あいつを待たなかった。
あいつは、群れの中にいるようで、いないんだ。
遠くで声がした。
うおおおぉぉ――ん。
遠吠えだ。岩場の向こうのずっと遠くで、最初の声に別の声が重なって、また別の声が重なっていく。あの七頭が呼び合ってるんだろう。
その声を聞いた瞬間。
俺の体の芯で、何かがほんのわずかに震えた。
詰まった霊核の奥のほう。湖の主の重さの、さらに下。
あの声に、応えるみたいに。
……え、なんだ今の?
聞いたって、誰も答えちゃくれない。
進化の条件の一部。残りって、何なんだ?
遠吠えが止んだ。
最後の一頭の声だけが少し遅れて、ひとりで長く尾を引いていた。
脚を痛めた、あいつの声だった。
【ステータス】
個体名:ヴォイド
種族:腐肉の粘体
段階:1
レベル:8/15
HP:54/54
MP:9/14
攻撃:10
防御:6
敏捷:6
魔力:11
固有スキル:喰掠の理、変質者、■■■
スキル:溶解Lv3、硬殻Lv3、聴音Lv2、熱感知Lv1、震覚Lv2、水化Lv2、水弾Lv2
湖は静かだった。
主はもういない。浅瀬には、魚と蟹と、何も考えてない小さな粘体たちだけだ。
ここにいれば、しばらくは安全だろう。喰うものにも困らない。
でも、ここにいたら、あいつらには届かない。
俺は岸のほうへ、ゆっくり体を向けた。
岩場の向こうの、群れが消えていった暗闇のほうへ。
……いや、まずは水弾の練習をあと百発くらいやってからだな。あのしょぼさで行ったら、秒で喰われる。




