第七話 潮騒の残り香、降りしきる雨
菜月を見送ったあと、図書館で時間を潰した私は、なんの気なしに公園を覗いた。
――いや、どこかで予感がしていたのかもしれない。また、菜月がいるんじゃないかと。
楠の木陰へ足を向け、いつものベンチを見やる。
(……居ないか…。…いや、居る……?)
駆け寄って覗き込むと、そこには汗だくでベンチに横たわる菜月の姿があった。
脂汗と滴る汗で顔を真っ赤にし、日焼けした細い腕で額を拭っている。
そして重そうな瞼を開け、ゆっくりとした動作でこちらを向いた。
「……よかった……また、会えた……」
今にも泣き出しそうな菜月の顔を見ていたら、胸が締め付けられ、思わず抱きしめてしまいそうになる。
「どうして……帰ったんじゃないのか……?」
「……帰りたく……ない……」
横たわったまま、そっと手が伸ばされた。
私はその、壊れそうなくらい繊細な手をやさしく握り返し、菜月の身体を引き上げた。
「……ふぅ。……何だか、ぼーっとする……」
ベンチに座った菜月は、正面に立つ私の腹に額をピタリとくっつけてきた。
服越しにも伝わってくるほどの、強烈な熱っぽさ。
「……水は飲んだか?熱中症じゃないか?」
私は焦りながらカバンを探り、自分の飲みかけのペットボトルのキャップを開けた。
(……あ、でもこれを飲ませない方がいいか。
自販機で新しいのを買いに……)
そう思って周囲をキョロキョロと見回していると、菜月がすっと手元からボトルを奪い取り、ごくごくと勢いよく飲み始めた。
「ぷはっ……おいしい!……怜と…間接キスしちゃった……うふふ」
火照った顔で、どこか艶っぽく笑ってみせる菜月。
さっきまでの弱々しさが嘘のような態度に、私は思わず赤面してしまう。
その時だった。
――ぽつり。
冷たい一滴が、私の頬を叩いた。
見上げれば、いつの間にか空は禍々しい鉛色に染まり、遠くで低く重雷鳴が響いている。
ゴロゴロと鳴り響く音と同時に、まるでバケツをひっくり返したような猛烈な夕立が降り注ぎ始めた。
「わっ……!?なつ、雨だ!」
激しい雨粒が、一瞬で私たちの髪や服を濡らしていく。
ぬるいアスファルトから白い煙が立ち上り、視界が真っ白に塞がれた。
「……っ……冷た……」
菜月が身を縮め、小さな肩を震わせる。
濡れた薄いTシャツが肌にべったりと張り付き、華奢な身体のラインと、首筋から肩にかけてのあの痛々しい傷痕の輪郭が、くっきりと浮かび上がった。
このまま雨に打たれていれば、熱中症どころか一発で風邪をひいてしまう。
親に連絡を……という大人の倫理観が一瞬頭を掠めたが、目の前で打ち震える菜月を見て、そんな迷いは一吹きで吹き飛んだ。
(迷っている場合じゃない……!)
「なつ!手、繋いでて!」
私は菜月の細く冷たい手首を強く握りしめた。
「……え?」
「うち、目と鼻の先だから!…走れるか!?」
菜月は驚いたように目を見開いたが、すぐに嬉しそうに破顔すると、握り返す手にギュッと力を込めた。
「うん!走る!」
大雨の中、弾ける水飛沫を散らしながら、私たちは二人で駆け出した。
雷鳴と激しい雨音のなか、繋いだ手からは菜月の体温だけが熱く伝わってくる。
アパートの階段を駆け上がり、鍵を乱暴に鍵穴に差し込んでドアを押し開ける。
「入って!早く!」
菜月を狭い玄関へ滑り込ませ、私も中へ飛び込んで勢いよくドアを閉めた。
バタン!
重い金属音が響き、外の豪雨の音が遠い世界の出来事のように遮断される。
狭く暗い玄関。
肩で息をする二人。
ポタポタと床に落ちる雨水の音だけが、やけに大きく響いていた。
濡れた前髪の隙間から、菜月が潤んだ瞳で私を見上げてくる。
逃げ場のない、二人きりの密室空間。
心臓の早鐘が、室内を満たしていくのを感じていた――。




