第六話 波の音と、ぬるい水底
明け方、お父さんの気まぐれで叩き起こされた。
ぼんやりとした頭でも、「どこか連れて行ってくれるの!?」と弾んだ声を出して機嫌を伺う。
「…そう。お母さんと行った海に行こう」
お父さんは俯いたままで答えた。どんな表情をしているのか見えなかったけれど、少なくとも怒っている感じはしない。
(……お母さんと……?)
海パンを着せられ、半ば無理やり車に押し込まれる。
怜と約束したわけではないけれど――
(今日も、会いたかったな……)
胸に湧き上がる気持ちを押し殺し、口の端を引き上げて見せた。
車の窓を半分開け、腕を外に出してみる。夏の朝の、蒸した空気が全身にまとわりつく。アスファルトからモワッと立ち昇る熱気と、前方から流れるぬるい風。
カーステレオから流れてくる、ビーチボーイズの陽気な音楽が僕の気持ちを萎えさせていく。
お母さんとの思い出。
お父さんにとっては、それが全てなのだ。
ニ時間ほど車に揺られ連れて来られたのは、人気のない海だった。
ゴツゴツとした岩肌には、貝殻が幾重にもこびりついている。
時折激しく弾ける白波と、遠くで鳴く海鳥の尖った声。それが耳障りなほど頭の中に響いていた。
(……蝉の鳴き声、ここにはないんだな)
ふと、そんなことを思った。
頭に浮かぶのは、あの楠の木陰と――怜のこと。
(また、怜に会いたい……)
自然と口の端が上がってしまう。
怜のあの狼狽えるような仕草、僕を求めるような熱く優しい眼差し。
触れてほしいのに、怜だけには触れてほしくない……なぜかそう思ってしまう。
大人ぶらない彼は、友達のようで、兄のようで……そのどちらでもない、名前のつかない不思議な温もりをくれた。
磯の香りと、生ぬるい潮風の匂いが混ざり合い、鼻の奥を刺す。
お父さんに手首を強く引かれ、岩場の陰に二人で座り込んだ。細めた目で僕の頬をやさしく撫で、手櫛で髪を梳かしながら呟く。
「お前は本当に、出て行った母親にそっくりだな……」
お父さんの口癖。
「この澄んだ茶色の瞳…長いまつ毛。引き締まった唇……滑らかな肌……。
夏海……愛してるよ……」
愛憎の混じった目で見つめられる。壊れたロボットみたいに、同じ言葉を何度も何度も繰り返しながら…。
それからお父さんは、乱暴な手つきでズボンのベルトを外し、下着をずらした。
「……また、優しくしてくれるね?」
うっとりと目線を下半身にやり、濁った視線で僕を見下ろす。
けれど、その瞳の先に「僕」は存在していない。お父さんは僕という輪郭を通して、向こう側にいるお母さんを見ているのだ。
波の音に混じって、生々しい水音が響く。
「……んっ……夏海……」
お母さんの名を呟きながら、お父さんの手が僕の頭を乱暴に押さえつけてくる。
何度も吐き気を催しながら、果てるまでただ作業のように頭を動かした。
激しい波音が全てを掻き消していく。
――僕に刻まれる汚濁と罪の意識だけを残して。
「……うまくなったな、なつ。今日はご褒美をあげよう……」
お父さんはいつにも増して歪んだ笑みを浮かべ、僕の腰をぐっと引き寄せた。
そして、おもむろにその指先を海パンの隙間へと挿し込む――。
「……ッ、嫌だ……っ!」
――ガツン!
次の瞬間、僕は夢中でお父さんの胸を突き飛ばしていた。
いつもならただ固まって従うだけだったのに、どうして拒絶してしまったのだろう。
(……怜……?)
頭を過ったのは、あの優しく温かい怜の手の感触だった。
自分でも信じられない抵抗に、息を荒げて立ち尽くした。
岩場に頭を打ち付けたお父さんが、横たわったまま呻いている。
その額から、赤い血が垂れ落ちていた。
「……なつ……痛いよ……ほら、こんなに血が。お願いだ、なつ……父さんを否定しないでくれ……」
お父さんの目からボロボロと涙が溢れ出す。
僕の足首をきつく握りしめ、肩を震わせながら泣き出した。
その哀れで異常な姿に、背筋が凍りつくような恐怖が襲いかかってきた。
(助けて、怜……っ!)
脳裏で、怜の困ったような笑顔が何度もフラッシュバックする。
逃げ出したい!
……けれど、逃げ場なんて、どこにも……ない。
僕は震える手でお父さんの手を引っ張り、無理やり立ち上がらせた。
「見て!あっちに行ってみようよ。ほら、泳げそうだよ!」
必死で声を張り上げ、破れかぶれの笑顔を作ってみせる。
お父さんの機嫌を損ねないための、いつもの「お調子者」の仮面。
これを被らなければ、捨てられてしまうかもしれないから……。
必死に笑いながら、僕の心は悲鳴を上げていた。
(早く……早く帰りたい。怜のいる、あの静かな場所へ――)




