第五話 熱病の行方
ゴクンと、重い生唾を飲み込む。
服の中に引きずり込まれた手のひらに、菜月の胸の鼓動がダイレクトに打ち寄せていた。
ドク、ドク、と速いリズムが刻まれている。
(このまま、誘惑に従って触れてしまいたい……)
力任せに引き寄せて、この華奢な身体を強く抱きしめてしまおうか。
そんな黒い衝動が、自分の魂をゆっくりと支配していく。
頬をじわりと嫌な汗が伝い落ちるのを感じていた。
心の底を見透かすように見つめてくる、菜月の澄んだ茶色の瞳。
その瞳が、挑むように微かに細められた。
「……触っていいよ、怜」
掠れた声で囁きながら、菜月は自分の体重を私の方へと預けてくる。
呼吸が触れ合うほどの至近距離。濡れた唇が、誘うように小さく開かれていた。
「……大人はみんな、こういうの……好きでしょ?」
(……っ!?)
その言葉が、冷たい水のように脳髄へぶち撒けられた。
――大人はみんな、好き。
無邪気な顔の裏に見え隠れする、諦めのような、どこか大人を試すような冷ややかな色。
(ダメだ……これ以上は、絶対にダメだ……!)
私はギリギリのところで理性の手綱を強く引き絞り、服の中にあった手を、弾かれたように引き抜いた。
「っ……!」
勢いあまって、ベンチから少し距離を取ってしまう。
荒い息を吐きながら自分の手を見つめると、指先が惨めに震えていた。
「……なんで?」
菜月はぽつりと呟き、首を傾げた。
拒絶されたと思ったのだろうか。さっきまでの艶っぽい表情が嘘のように消え、幼い顔に濃い陰影が落とされる。
菜月は傷ついたのか、寂しそうにキュッと唇を結び、静かに俯いてしまった。
その小さな肩の落とし方に、胸が締め付けられるほど痛む。
(違う、嫌なんじゃない。嫌なわけがないんだ。
ただ――この子を傷つける側に、なりたくないだけだった)
「……ごめん。驚かせちゃって……」
私はしゃがみ込み、俯く菜月の顔を覗き込むように視線を合わせた。
菜月の頭をぽんぽんと優しく撫で、そのまま柔らかいほっぺをそっと摘まんでみる。
潤んだ瞳でじっと見つめ返され、自分の意思がゆらいでしまいそうになるのを必死で抑えた。
菜月は唇を少し突き出し、「怜は、僕をキライなの?」と不満げに口にする。
(……違うよ。菜月が大切だから、触らないんだ)
喉まで出かかった言葉を、どうにか飲み込んだ。
この先、菜月の誘惑に抗い続けられる自信などないことも、また事実だったから。
「ほら……薬、塗り終わったよ。……なつ?またここで会おう。…待ってるから」
菜月は顔を上げないまま、静かに頷いた。
「うん。……また、来る」
「よし。じゃあ、今日はもう帰ろう」
菜月の小さな背中を見送りながら、私は深く息を吐き出した。
あの時、菜月の瞳の奥にあった怯えと、服の隙間から見えた痛々しい傷痕。
(あの子は……一体、どんな大人に何をされてきたんだ……?)
頭から離れない違和感と胸のざわめき。
私にはまだ知る由もなかった。
菜月がたった一人で、どんな絶望と戦っていたのかを――。




