第二話 繊月の下、君を喰む
私は仕事を終えると、祖母の入所している施設に寄り、そのまま家路についた。
夕食の支度を簡単に済ませ、リビングの窓を開ける。
夜風に当たりながら、私は足の爪を切っていた。
薄い光をまとった月が、空に浮かんでいる。
まるで、たった今切り落とした爪のような月だった。
窓辺に座っていると、肌寒さが身に染みる。
季節は少しずつ、冬へ向かっているらしい。
なつがカフェのアルバイトを終えて帰宅したのは、午後八時を過ぎた頃だった。
なつは帰ってくるなり、部屋中を探し始めた。
――スマホなら、ソファの上にあるよ。
そう言いかけて、やめた。
あのメッセージを見たことは、知られないほうがいい。
「こんなとこにあった!」
嬉しそうにソファの上で跳ねて、こちらを振り返る。
なつに目を向けると、ソファの背面に顔を乗せたまま、じっと私を見ていた。
「……よかったね」
私はそれだけ言うと、また足元を見た。
一日中スマホがないと、さぞ不便だっただろう。
そう思う一方で、私はあの通知の文面を思い出していた。
「一日スマホがないと、本当に不便だよね。改めて、情報社会の中に生きてるんだなって実感したわ」
何でもないことのように言うと、なつは私の左隣に腰を下ろした。
「怜もそう思うやろ?」
そう言って笑ったあと、空に視線を移す。
「あれ、怜の爪、飛ばしたん?」
「えっ?」
「ほら。怜の爪、空に浮かんどる……」
なつは白い紙の上に落ちていた爪の欠片を拾い、月に重ねた。
「触ったの……汚いよ」
「汚くなんかないわ。怜から切り離された瞬間、汚くなるん?」
思いがけないことを言われ、私は返事に詰まった。
「汚いよ。……なつの髪の毛だって、こうして頭に生えてるときは、そんなにキレイなのに、排水口に溜まった瞬間、ただの汚いゴミになるだろ?」
なつは何も言わなかった。
ただ、ふっと笑って顔を伏せた。
「見て。俺の爪も伸びてる」
差し出された指先を眺める。
「そうかな?」
「怜。もう切り終わったんなら、切って」
なつは指を揃え、私の前に手を差し出した。
「……怪我させたら怖いな」
「いいよ」
「……手、貸して」
「ん」
少しひんやりとした手を取る。
爪切りを構え、指先を慎重に挟んだ。
「ちょっと、角度が……」
「こう?」
なつが身体を寄せてきた。
肩が触れ、腕が重なる。
――近い。
そう思った瞬間、心臓が大きく跳ねた。
ふわりと、甘い香りが漂う。コロンでもつけているのだろうか。
私は意識を指先に集中させた。
ぱちん。ぱちん。
皮膚を挟まないように、少しずつ爪を切っていく。
「上手やね」
耳元で、なつの声がした。
声が近い。
それだけで、指先が震えそうになる。
なつは私の肩に顎を乗せると、さらに身体を寄せた。
「あっ……動いたら危ないよ」
「ふふ。夜風で冷えたわ。……こうしてくっついても、いいやろ?」
返事をする間もなく、腰に脚を絡められた。
背中には、なつの右腕が回っている。
心臓がドクンと鳴った。
なつに気づかれていないだろうか。
「ほら、終わったよ」
「こっちも」
なつが右手を差し出した。
「こっちは、やりにくいな……」
私は爪切りを渡そうとした。
ところが、なつは不意に立ち上がると、私の股の間に横向きに腰を下ろした。
「こうしたら、切りやすいやろ?」
艶っぽく笑い、左腕を私の首に絡めてくる。
「そんなにくっついたら、やりにくいに決まってる……」
「だって、寒いもん!」
あまりに堂々と言うものだから、私は思わず笑ってしまった。
なつも、つられたように笑う。
こんなふうに甘えてくるなんて、なつらしくない。
そう思いかけて、ふと気づいた。
私は、なつの何を知っているのだろう。
六年前のあの夏。
私は、なつの寂しそうな顔を覚えている。
だけど、彼が、どんな気持ちで毎日を過ごしていたのか、私のことをどう思っているのか、本当は何も知らない。
本当は、こんなふうに誰かに甘えたかったのかもしれない。
だけど早熟させられて、大人でいることを強いられた――。
そう考えると、首に回された腕を、無理に振り解くことなどできなかった。
なつは、さらに身体を寄せてくる。
顔が熱くなる。
何を考えているんだ、私は。
ただ爪を切っているだけだ。
そのとき、なつが顔を上げた。
何か言おうとしたのか、唇がわずかに開く。
次の瞬間、なつの唇が私の唇に触れた。
――え?
あまりに突然のことで、身体が硬直した。
「……お礼になるかな?」
耳元で囁かれた声に、返事をする間もなかった。
なつの舌が、わずかに私の唇の内側へ差し入れられる。
そして、舌先を一度だけ、そっと吸われた。
ほんの一瞬だった。
なつは何事もなかったかのように、私の肩に頬を寄せている。
爪切りを持つ手が止まった。
心臓がうるさい。
――今、何をされた?
どうして?
お礼って、何の?
頭の中でいくつもの疑問が渦巻くのに、ひとつとして言葉にならない。
私はただ、目の前の爪を見つめていた。
……何だったんだ、今の。
頭の中が混乱したまま、なつの爪を切り揃えていく。
「終わったよ」
「ありがとう」
なつが身体を離す。
私は、爪の欠片が乗った紙を丸めようと手を伸ばした。
「……まだ終わっとらん」
なつの声に、顔を上げる。
なつは外灯を背に立ち上がり、私の前に足を差し出した。
何も言わず、目を細めてこちらを見下ろしている。
「……ふふ」
吐息に紛れるような、小さな笑い声だった。
靴下を履いたまま、逆光の中で笑うその顔は、さっきまでの無邪気な面影とは違って見えた。
背筋に、ぞくりと電気が走る。
ベランダの手すりに肘をかけ、横柄に脚を差し出す。
その姿が、私の理性を揺さぶった。
「……足も?」
「うん」
なつは、もう一度笑った。
私は何も言わず、その足を膝に乗せようとした。
「怜」
不意に、なつが口を開く。
さっき私の口に触れた、あの湿り気のある、柔らかくて、ぬるっとした感触――。
考えるだけで、また触れたくなっている。
私は思わず身震いをした。
「……俺のスマホ、見たやろ?」
心臓が、どくんと跳ねた。
さっきまでの甘い空気が、音もなく凍りつく。
私は顔を上げられなかった。
膝の上に置かれた足が、ひどく近く感じられた。
私はゆっくりと靴下に手をかける。
震える指先に、神経を集中させながら――。




