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刹那の夏、君の体温(ねつ)に溶ける。  作者: 毬藻 闇雪
あの夏の続き、ふたりの体温(ねつ)。

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第一話 知らない君の日常



「怜、早く起きな。仕事、遅れるよ」


 ぼんやりと天井を見上げる。


 キッチンでフライパンを洗っていた端正な顔立ちの男性が、こちらに顔だけを向けた。


 ……誰だ。


 寝ぼけた頭で、私はその顔から目を離せずにいた。


「キスしてあげよっか? そしたら目が覚めるかな?」


 濡れた手をタオルで拭きながら、なつがベッドの側まで歩み寄ってくる。



 低くなったなつの声に、私はまだ慣れないでいた。


 ベッドサイドに腰を下ろしたなつが、顔を寄せてきた。


 ――近い。


 そう思った瞬間、心臓が大きく跳ねた。


 あの可愛らしかった少年が、こんなにも凛々しい大人の顔になるのか。


 日に焼けた首筋に、かすかに残る日焼けの境目。その下に、あの白い傷痕が見えていた。


 六年前と同じ傷痕。

 けれど、それを持つ少年は、もうどこにもいない。


「そんなじっと見らんで。恥ずかしいやろ」


 なつが照れたように笑う。

 その訛りの残る言葉が、耳元でやけに甘く響いた。


 胸の奥が、また騒がしくなる。


 目を反らそうとして、反らせなかった。


 こんなに近くにいるのに。

 手を伸ばせば、触れられる距離にいるのに。


 私は、どうしても動けなかった。


 これは、やはり。


 私は、なつのことが……。



「怜?」


「……なんでもない」


「なんでもない顔やないけど」


 なつが首を傾げる。

 その仕草に、昔の面影が重なった。


 けれど、次に聞こえたのは、記憶の中の少年よりずっと低い声だった。


「なあ。ほんまに、キスしたら目ぇ覚めると思う?」


「……っ」


 ――冗談だ。


 そう分かっているのに、返事が喉につかえた。


 なつは私の顔を覗き込んでいる。

 笑っているようにも見えるし、こちらの反応を窺っているようにも見えた。


「……仕事に遅れる」

「話、そらしたやろ」

「そらしてない」

「そらした」


 なつが小さく笑う。


 私は逃げるように布団をめくった。

 起き上がろうとしたところで、ベッドの端に置いた手が、なつの手に触れた。


 ほんの一瞬。


 それだけで、指先が熱くなった。

 反射的に手を引っ込める。


 なつの笑顔が、わずかに止まった。


「……そんなに、嫌?」

「え?」

「俺に触れるの」

「違う。そういうことじゃ……」


 言いかけて、言葉を失う。


 違う。

 嫌なわけがない。


 むしろ、触れたいと思っている。


 けれど、それを口にしたら、今まで何とか保ってきたものが、すべて崩れてしまいそうだった。


 なつはしばらく私を見つめていた。


 やがて、小さく息を吐く。


「……そっか」


 その声は、さっきまでのからかうような響きを失っていた。


「じゃあ、俺、朝ごはんの片づけしてくるわ」


 立ち上がったなつの背中を、私は黙って見送った。


 引き止めたかった。

 何か言わなければと思った。

 それなのに、声が出なかった。


 キッチンから、水の流れる音が聞こえてくる。


 私は自分の手を見つめた。

 さっき、触れたばかりの指先。


 あんな一瞬のことで、こんなにも動揺している。


 いったい、いつまでこんなことを繰り返すつもりなのだろう。


 なつは、もう十八歳だ。


 私が知っている十二歳の少年ではない。


 それくらい、分かっている。

 分かっているのに。


 私は、なつに触れることさえ、まだ怖かった。

 結局、私たちは何もしないまま、それぞれ学校と仕事へ向かうことになった。


 なつは肩に鞄を引っ掛けると、玄関へ向かいながら振り返った。


「先に出るね。課題提出、朝までやったから。ご飯はそれ食べてな。

 黒木さん直伝、出汁からひいた味噌汁と、南高梅のおにぎり。

 弁当はチキン南蛮や! うまい思うよ!

 じゃ、はよ支度して仕事行きなね! 行ってきます!」


 ガチャン!


 ドアが、鈍い金属音を響かせた。

 私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。


 やがてキッチンへ向かい、テーブルの上に目を落とす。


 うまそうな朝食が、きちんと用意されていた。

 弁当まである。


 出汁からひいた味噌汁に、南高梅のおにぎり。

 チキン南蛮だって、朝からわざわざ作ってくれたのだろう。


 それにひきかえ、私ときたら。


 寝癖でぼさぼさの頭に、伸び放題の無精髭。


 ……なつは、私といて楽しいのだろうか。


 ふと、そんな疑問が浮かんだ。


 あの夏のことを、なつはまだ覚えている。


 私が約束を守れなかったことも。

 六年間、離ればなれになったことも。


 だからこそ、今度は私の側にいようとしているのではないか。


 あの夏の義務感から。

 私をひとりにしないために。


 無理をしているのではないか。


 テーブルの上から、味噌汁の湯気がゆっくりと立ちのぼっていた。


 そのとき、何かが震える音がした。


 見ると、ソファの隅にスマートフォンが置き忘れられている。


 なつのものだ。


 画面が明るくなり、通知が浮かび上がる。


『昨日はありがとう♡ また二人で会いたいな』


 知らない名前の女からだった。

 私は、しばらくその画面を見つめていた。


 やがて、画面は暗くなった。


 静かな部屋に、味噌汁の湯気だけが立ちのぼっていた――。





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