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刹那の夏、君の体温(ねつ)に溶ける。  作者: 毬藻 闇雪
あの夏の続き、ふたりの体温(ねつ)。

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第三話 薄明かりの誘惑



「……俺のスマホ、見たやろ?」


 静かな、なつの声。

 私は顔を向けることができなかった。


「……見て、ない」

 それだけ言うと、顔を伏せた。

 なつがどんな顔をしていたのか、確かめるのが怖い。



 私は、なつのアンクル丈の靴下に指を掛ける。


 ――はっ。


 なつの唇から、小さな吐息が漏れた気がした。


 私は一度ためらった後、ゆっくりと脱がせる。

 その瞬間、なつの足指が、きゅっと縮こまった。


「……やばい。エッチやな……その脱がし方」

「っ……ごめ」

「なんでそうなるの。謝らんでいいよ?」

「ん……」

「俺が勝手に、ゾクッとしただけやもん」

 その言葉を聞いて、思わずなつの足をぎゅっと握りしめていた。



 ――しまった。


 なつに、欲情している……?


 私だけが――。



「……切りにくいな。ちょっと角度が……」

 私は誤魔化すように言葉を紡いだ。

 なつの方を向くことができない。


 ――熱い。


 なつに触れている部分から、熱が全身に回っているようだ。

 自分でも、手が震えているのが分かった。


 なつの足裏を左手に乗せ、右手に爪切りを構える。

 爪先に刃先を当てながら、左手の角度を変えた。


 なつの吐息が、かすかに漏れる。

 私の指先が、小さく震え続ける。


「……あ。……そこ」

 なつは爪先を反らした。

「……うん。じっとしてて」


「ん……いかん。やっぱり……くすぐったいわ」

 足の指を固くして、上ずった声でクスクスと笑う。

「ほら、我慢して。怪我するよ」


 私は、なつの足から目が離せなかった。


 すらりと長い指先。

 つるりと滑らかな肌。

 触れているところだけ、しっとりと手に馴染む。


 ――爪を切るだけ。


 ただ、それだけのことなのに。

 なつのことを強烈に意識している。

 くらくらと目眩を起こしそうだ。


「そんな意地悪、言わんで。……くすぐったくて、立ってられんもん……」

 なつは小さく震えていた。


 もしかして、なつも……?

 そう思った瞬間、思わず顔を上げてしまった。


 なつと視線が交差して、背筋に電気が走る。


 なつは、目を細めてこちらをじっと見下ろしていた。さっきのふざけた様子が嘘のように、ただこちらを見ている。


 口元で小さく笑うその顔は、さっきまでの無邪気な面影とは違っていた。


 なつの視線に耐えかねて、足元に顔を向けると、露わになった足先に、外灯の光が淡く落ちていた。


 夜風に晒された足先は、ひんやりと冷たい。


 爪切りを構え直し、指先をそっと支えた。

 なつは無言だった。


「……痛かったら言って」

「うん」


 刃先を爪に当てる。


 ――ぱちん。


 小さく、乾いた音がした。


 そのたびに、なつの指が私の手の中でわずかに動く。

 なつの、くすぐったさを必死で耐える姿に、私の中の何かが反応して、小さな波が何度も押し寄せていた。



 ――もっと触りたい。



 だめだ!


 私は爪だけに意識を集中させた。

 余計なことを考えないように。


 なつの顔を見ないように。


 なのに、視線を落とすほど、手の中にある足の温度ばかりが気になった。


「怜」

「……何?」


 沈黙が怖かった。

 私の気持ちは、筒抜けだったか――。


「残念」

 なつが、くすっと笑った。

「スマホ、見てないんや」


 爪切りを持つ手が止まった。


「……え?」


「わざと置いといたのに」


 なつは、いたずらが成功した子どものように笑った。


 私は再び顔を上げた。

 なつの目が、まっすぐこちらを捉えている。


「……わざと?」

「うん」


 あっさりと頷く。


「怜が気にするかなと思って」


 心臓が、嫌な音を立てた。

 最初から、私の反応を試していたのか……。


「……何のために、そんなことを」


 なつは首を傾げた。


「何のためやと思う?」

 口の端で、いたずらっぽく笑う。


 私は何も言えなかった。


 なつの足を支える手に、知らず力が入る。

 私の手の中で、なつの指先がぴくりと縮んだ。


「……痛かった?」

「ううん」


 なつは、ほんの少しだけ目を伏せる。


「痛くないよ」

 その声が、さっきよりも静かだった。


「ごめん」

「……謝らんでええよ」

 なつはそう言って、また笑った。


 今度は、さっきのような挑発する笑い方ではなかった。

 何かを堪えているようにも見えた。

 けれど、私がその理由を尋ねる前に、なつは顔を上げる。


「なあ、怜」

「……何?」

「俺のこと、気になる?」


 ――ドキッ。

 爪切りの刃先が、爪の手前で止まった。


 私は答えられなかった。

 気にならないはずがない。


 あのメールの女性は誰なのか。

 彼女と会っていたのか。

 私の知らないところで、なつは、どんな顔をしているのか。


 なつは、あのメールの女性と、付き合っているのか――。


 知りたい。

 けれど、知りたいと言えば、何かを認めることになる気がした。


 なつを束縛する権利など、私にはない。


 それなのに……。


「……爪、切るから。動かないで」


 ようやく出てきたのは、そんな言葉だった。

 なつはしばらく私を見つめていた。


 それから、ふっと笑う。


「……ほんま、意地悪やな。怜は」


 その言葉が、なぜだか胸に刺さった。

 私は何も答えず、爪切りを動かし続けた。



「ん……っ、そこ、くすぐったいわ」

 不意になつが足を震わせた。

 足先を反らし、くすくすと笑う。


「また。……動いたら危ないよ」

「やっぱり、くすぐったいんやもん」

 すっと足が逃げる。


 私は爪切りを持ったまま、困り果てた。


「……立ったままだと危ないな。……なつ、こっちにおいで」


 なつは一瞬、目を丸くした。


 それから、ゆっくりと口元を緩める。


「……いいの?」


「……うん。爪を切るんだから。じっとしていてくれないと困るだろ」


「ふうん……」

 なつは含みのある笑みを浮かべ、私の前に腰を下ろした。


 ――やはり、近いか。


 そう思ったときには、もう遅かった。

 なつの脚が、するりと私の腰に絡んだ。


「……なつ?」


「こうしたら、動かんで済むやろ?」


 耳元で囁かれ、息が止まった。


 ――なつに完全に遊ばれている。


 ふう、と小さく息を吐く。

 理性が崩壊しそうだ。


 ……誘惑が、過ぎる。


 激しく高鳴る心臓を落ち着かせるため、小さく何度も深呼吸を繰り返す。


 ……なつにバレないように――。 



「……怜?」

 顔を上げられないまま爪先を見つめていると、なつが私の顔を覗き込んだ。


「なに?」



「……怜のほうが、震えとるやん」



 胸がぎゅっと苦しくなった。

 なつに直接、鷲掴みされたようだ。


「……震えてない……」


「ほんとかなぁ?」


 なつが、うふふ、と笑う。

 その声が近すぎて、妙に耳の奥に残った。


「爪、切ってるだけなのに?」

「……危ないから、動かないで」


「はぁい」

 返事だけは素直だった。


 けれど、腰に絡んだ脚は離れない。


 私は爪を切る。

 指先が、思うように動かない。


 なつはそれを見て、また小さく笑った。


「怜。……かわいい」


 心臓が、どくん、と跳ねた。


 やめてくれ。


 そんな顔で、そんな声で、私を見ないでくれ。

 顔が熱くなっていく。


 なつを抱きしめてしまいたい――。

 その衝動を、わずかに残る理性で、必死に抑えていた。


 私はなつの爪を切り終え、ようやく深く息を吐く。


「……終わったよ」


「んふ。……ありがと」


 なつは、細長い指先で、爪先の切れ具合を確かめながら、上目遣いで言った。


「やっぱり、怜に切ってもらって正解やわ。きれいに切れとる……」


「……そうかな?」

「これからは、怜に切ってもらうわ」

「えっ……」


 なつは脚をほどいても、私から離れなかった。

 私の肩に頬を寄せ、しばらく黙っている。


「……なつ?」


「怜」


「何?」

「これ終わったら、もう寝る?」

「……まあ。寝るね」

 なつは顔を上げた。


 外灯の光を受けた瞳が、妙に艶めいて見えた。


「体、冷えてしもうた」


「だから、あんなところでいつまでも風に当たってるから……」

 私の言葉を遮り、なつが小首を傾げる。


「なあ」

 なつが耳元に顔を寄せた。

「今日は、怜のベッドで寝たい」

「……は?」


「自分の部屋があるだろ?」

「うん」


「だったら――」

「怜と一緒に寝たい」


 あまりにもあっさり言われて、思考が途切れた。

 なつは私の顔を覗き込む。


「……いいよね?」

 さっきまでの、こちらを翻弄するような笑みは消えていた。


 代わりに、少しだけ甘えるような目をしている。


 そんな顔をされたら、断りにくい。


 ――いや。


 断りたいのか、私は。


「……ベッド、狭いよ」

「知っとる」

「寝返りも打てない」

「うん」

「……それでもいいの?」


 尋ねてから、しまったと思った。

 まるで、来てもいいと言っているようなものじゃないか。


 なつは一瞬、目を丸くした。

 それから、ゆっくりと笑った。


「うん。怜がおるもん」


 胸の奥が、きゅっと締めつけられた。

 そんなふうに言われたら……。


 心臓がバクバクと、激しく鳴り響いていた――。





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