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刹那の夏、君の体温(ねつ)に溶ける。  作者: 毬藻 闇雪
刹那の夏、君の体温(ねつ)に溶ける。

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番外編 事件概要・調査報告書



【事件概要】


【被疑者】

 森村 怜(もりむら れい)

 性別・男

 年齢・21歳

 職業・無職(前職/営業職(顧客開発・新規開拓)ストレスにより退職)


【発生日】

 2020年8月30日 午後7時頃~

 2020年8月31日


【逮捕】

 2020年9月1日 午後1時


【被害者】

 松本 菜月(まつもと なつ)

 性別・男

 年齢・12歳

 〇〇小学校・6年


 ・父親から虐待を受けていた。

 ※詳細な被害内容、写真、診断書有り。極秘。

 ・母親は別居中。



【森村怜との接触】

 ・菜月は自ら森村についていった。

 ・森村を兄のように慕っていた。

 ・森村には少年を連れ去る意思はなく、当初から児童相談所へ連絡しようとしていた。

 ※通報履歴確認済。



【父親の行動】

 ・連れ去り事案発生中、父親が「息子が誘拐された」と警察へ被害届を提出。

 ・未成年者略取事件として捜査が開始された。



【森村への対応】

 ・森村は少年を別居中の母親のもとへ届けた。

 ・逮捕後、少年本人の証言および関係資料を踏まえ、身柄拘束を継続する必要性は低いと判断され、釈放された。

 ・以後、在宅で捜査が進められた。



【捜査内容】

 ・少年本人の証言

 ・母親の証言

 ・児童相談所への相談記録

 ・タクシー運転手など、周囲の人物の証言


 以上を確認。



【被害少年の今後・ケア等】

 ・児童相談所による継続的な支援が行われ、カウンセリングも開始された。



【父親について】

 ・虐待に関する捜査が進められた。

 ・親子関係について必要な手続きが取られ、菜月は父親から引き離され、母親のもとで生活することになった。



【特記】

 ・被害少年の強い意向により、森村との文通を検討。

 ・菜月本人の意思と周囲の支援機関の判断を踏まえ、了承される見通し。



 以上。


 ―――――――――――――――――――――――



 検察庁の一室は、静まり返っていた。


 担当検察官の夏樹は、机の上に広げた記録を、もう一度ゆっくりと目で追っていた。


 被疑者――森村怜。


 未成年者略取の成否が問題となった事案。


 しかし、記録を読み進めるほど、単純な「誘拐」として処理することのできない事情が浮かび上がってくる。


 少年は、父親から虐待を受けていた。

 相談ダイヤルへの通話記録も残っている。


 母親とは別居しており、少年は自ら森村についていった。


「森村が、無理やり連れて行ったわけではなく、少年本人の意思で母親のもとへ向かったか……」


 夏樹は両手を組み、顎を載せた。

 考えるときは、いつもこのポーズになる。

 事務官の西村は、そんな夏樹を横目に見ながら、ペットボトルのお茶を机の端に置いた。


「またその資料ですか?」

「ああ、うん。……ありがとう」

 夏樹はペットボトルを手に取り、一口飲んだ。


「……ちょうど息子と同じ年齢でね。どうして、こんな行動を取ったのか気になるんだよね」

「どちらが、ですか?」

 西村が資料を覗き込みながら尋ねた。

「いや。森村が……ね」

 そう言って、夏樹は再び書類に目を落とした。


 森村自身も、少年を連れて逃げ続けるつもりではなかった。

 児童相談所へ連絡しようとしていた記録も残っている。

 その最中に、父親が「息子が誘拐された」と被害届を出した。


 そこで、状況は一気に変わった。


 森村は、少年を別居中の母親のもとへ届けた。

 だが、その行動だけを切り取れば、法的な問題がなくなるわけではない。

 夏樹は、もう一度、少年の供述書を手に取った。


 夏樹が最初になつと会ったのは、九月の初めだった。

 まだ夏の暑さが残っていた。


「松本……菜月(なつ)」

 書類に目を落としたまま、夏樹が顔を上げる。

「……なつ?」

「はい」

「へえ。菜月と書いて、なつか」

「……はい」

「変わった名前やな」

「ふっ。……よく言われます」

 なつは、背筋を伸ばして座っていた。


 夏樹は用紙の裏に、自分の名前を書いた。

「俺の名字は夏樹(なつき)や」

「……似てますね」

「お。気づいたか」

 夏樹は少し笑った。

「俺も昔、“なつ”って呼ばれてたんや」

 なつが、ほんの少しだけ笑った。



「変わった子やったな……」


 夏樹は、少年の供述書をめくった。

 そこには、短い言葉が残されていた。


 ――怖くなかった。お兄さんがいてくれたから。


 短い言葉だった。

 だが、その後に続く供述には、妙に一貫したものがあった。


 どこへ行くのか。

 なぜ、そこへ行くのか。

 誰と一緒にいたいのか。

 少年は、自分の意思で答えていた。


 森村に言われたからではない。

 むしろ、逆だった。

 森村がどう動くのかを、少年のほうがよく分かっていたように見える。


 ――この人なら、自分を見捨てない。

 そう判断したのではないか。


 夏樹は、そこで初めて少年の行動そのものに目を向けた。


 十二歳。

 普通なら、大人に連れられてしまえば、その流れに身を任せるしかない。


 だが、この少年は違った。

 行き先を自分で決め、タクシーの運転手にも自分の意思を伝えている。


 森村が児童相談所へ連絡しようとしていたことも、結果として捜査の中で明らかになった。


 少年は、森村を動かした。

 自分を助けてくれる人間を見つけ、その人間ならどう動くのかを、子供なりに理解していた。


「……この子、分かってたんじゃないですかね」

 西村が、ぽつりと言った。


「何を?」

「森村さんなら、絶対に自分を助けるってことを」


 夏樹は答えなかった。

 再び、少年の供述書に目を落とす。

 ――操った、という言葉は少し違う。

 けれど。

 この少年は、森村怜という人間を、自分のために動かした。

 そして森村は、それに抗えなかった。

 夏樹は、わずかに息を吐いた。


「……ずいぶん、賢い子だな」

 その言葉は、少年への評価というより、半ば感嘆に近かった。

 だからこそ、夏樹は何度か少年のもとへ足を運んだ。

 記録だけでは分からないものが、まだある気がした。


「……ちょっと、少年のところへ行ってくる」

「またですか?」

 西村が、うんざりしたように顔を上げる。

「うん。もう一度、話しておきたい」

「何回目です?」


「さあ……」

 夏樹は立ち上がり、資料を一枚だけ手に取った。


「そんなに気になるんですか?」

 西村の問いに、夏樹は少し考えた。


「……あの子が、気になるんだよ」

「少年が?」

「うん」

 それだけ言って、夏樹は部屋を出た。



 ――少年との面談。


「森村さんに、ついていったんだね?」

「いいえ」

「森村さんは、君をどうするつもりだったと思う?」

「児童相談所に連絡するつもりだったと思います」

「どうしてそう思ったの?」

「だって、怜、電話しようとしてたから」

「……君は、それを知っていて一緒にいたの?」

「うん」

 夏樹は、少年の顔を見つめた。


「怜は、僕がお願いしたら、たぶん何でもしてくれるから」


 夏樹は、そこで妙に引っかかった。

 子供らしい言葉。


 ……と、いうより。

 わざと「子供を演じている」ようにも思えた。

 十二歳の少年にしては、妙に言葉を選んでいる。

 けれど、それを指摘するほどの確証はない。

 その言葉の奥には、森村という人間をよく見ている者にしか分からない確信があった。


「森村さんを、悪い人だと思ってる?」

 なつは首を横に振った。

「思ってません」

「じゃあ、森村さんは君を助けた?」

「……はい」

「君は?」

「え?」

「君は、森村さんを助けたいと思ってる?」


 なつは少し考えた。

 そして、静かに答えた。


「もう、助かってるよ」


 夏樹は、何も言えなかった。

 十二歳の少年が、自分が森村を救ったと自覚しているのか。


 いや。

 そんなはずはない。

 けれど夏樹には、どうしても腑に落ちなかった。


 この子は、自分を守ってくれた大人を、今度は自分の言葉で守ろうとしている。


 ――そう見えた。


 けれど。

 それだけではない気がした。

 まるで、もう一つ先まで見えているような。

 自分が何を言えば、誰がどう動くのか。

 森村がどう動き、警察がどう動き、最後に何が残るのか。

 そこまで分かっていたのではないか。


 夏樹は、ふと妙なものを思い出した。

 カタツムリに寄生する、ある寄生虫の話だ。


 宿主の行動を変え、鳥に見つかりやすい場所へと向かわせる。

 その先に待っているのは、宿主の死だ。


 寄生虫にとっては、それが次の場所へ進むために必要なことだった。


 ――もし。


 もし、この少年も同じだとしたら。


 そして、その先にあるものさえ受け入れていたのだとしたら。


 夏樹は、背筋にわずかな寒気を覚えた。


 もちろん、そんな証拠はない。

 ただの想像だ。

 少年は、ただ大人に助けてもらっただけなのかもしれない。


 それでも。

 あの目だけが、どうしても気になった。



 捜査記録を照らし合わせる。

 少年本人の意思。

 少年自身の一貫した証言。

 虐待を受けていた家庭環境。

 森村が児童相談所へ連絡しようとしていた事実。

 タクシー運転手の証言。

 母親の証言。

 そして、森村が最終的に少年を母親へ届けたこと。


 少年の証言だけで判断することはできない。

 だが、その言葉がなければ、見えてこなかったものがある。


 母親の証言。

「松本京一郎(菜月・父親)による逮捕、監禁を受けた経験あり。その後、離婚」


 児童相談所の記録。

 そして、周囲の人間の証言。


 タクシー運転手は、捜査段階でこう述べていた。

「仲のいい兄弟だったよ。弟さんに引っ張られて、にこにこ笑っちょって。優しい兄ちゃんやったわ」


 タクシーの行き先は、菜月少年が指示していた。

 二人の行動は、少年本人の意思によるものだった。


 夏樹は、しばらく黙って記録を見つめていた。

 森村の行為だけを切り取れば、問題は単純ではない。


 しかし――

 少年本人の意思。

 少年自身が、森村に連れ去られたのではないと一貫して証言していること。

 虐待を受けていた家庭環境。

 森村が取った行動。

 そして、最終的に少年を母親のもとへ届けたこと。

 それらすべてを考慮する必要があった。


 夏樹は、少年の供述書を閉じた。


「森村怜については、不起訴処分とする」


 それ以上の言葉はなかった。

 裁判にはならない。

 有罪にも、無罪にもならない。

 事件は、検察の段階で終わった。


 接近を制限する措置も、後日解除された。

 少年は父親から引き離され、母親のもとへ戻ることになった。


「もっと別のやり方があるだろうに……」

 夏樹は、窓の外へ目を向けた。

「それさえも見逃すほど、衝動的に……」


 窓の外では、すでに日が傾き始めていた。


 ――行動原理が、さっぱり分からなかった。

 これが、成人した大人のやることなのか。

 いや。

 或いは――。


 夏樹は、あの少年の目を思い出していた。

 面談の最後。


「君、将来何になりたい?」

「……まだ、分からない」

「そうか」

 夏樹は少し笑った。


「検察官になったらどうや。おもろいぞ」

「けんさつかん?」

「うん。人間の嘘とか、本音とか、毎日見られる」

 なつは、少しだけ目を細めた。


「……じゃあ、夏樹さんも、僕の嘘が分かる?」


「さあな」

 夏樹は笑った。

「それを今から考えるのが、仕事なんや」


 夏樹は椅子に深く身を預け、小さく息を吐いた。


「……これが、一番マシな終わり方だ」


 誰に言うでもなく、そう呟いた。



 夏樹は、もう一度なつの顔を思い出した。


「……なつくん」


 独り言のように呟く。


「すべて、君の描いた通りになったよ」


 もちろん、本人はここにはいない。

 だから、返事が返ってくるはずもない。

 それでも夏樹は、あの少年なら、どこかで静かに笑っているような気がした。


 ――君は、どこから演じてたんだ?



 窓の外には、秋になりきれない夏の空が残っていた。

 青空の向こうに、薄い雲がゆっくりと流れている。


 ――あの少年も、まだどこかで夏の続きを生きているのだろうか……。







いよいよ次回で最終回です。(予定)


最後までお付き合い、よろしくお願いします。


評価をいただけますと、作者の励みになり、飛び跳ねて喜ぶことと思います。


よろしくお願いします♡

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