第三十一話 君を刻むための微熱
なつが私の手を引いて、急な坂道を登っていく。
息が上がる。
舗装されていない山道が、これほど過酷だとは思わなかった。
「はあ、はあ……」
息を切らしながらも真剣な眼差しで、私の手を引いて前を歩くなつ。
その横顔に、どきっと胸が高鳴る。
いつも守ってあげたくなるような存在の彼が、今は私を引っ張ろうとしてくれている。
額から頬を伝い、顎へと流れる汗を、繋いでいない方の手の甲でぐっと拭うなつ。
ただ可愛いだけじゃない、そんな男らしい仕草に心臓がぎゅっと締め付けられた。
――もう、ふたりの関係は終わりに向かっている。
頭では理解しているのに、心がまったくついていかない。
この夏が終われば、私たちはそれぞれ違う道を進むことになる。
『離れたくない』
そんな身勝手なわがままを、胸の奥へと押し込めた。
そのとき、前を行くなつが、ふいに声をあげる。
「見て、怜! 海!」
木々の隙間から、太陽の光を受けて輝く波が、幾重にも押し寄せているのが見えた。
「早く、早く!」
なつの足取りが途端に軽くなる。
「なつ、ちょっと待って……早いってば!」
振り返ったなつは、白い歯をこぼして眩しそうに笑った。
「崖の上に着いたらさ、怜に『いいもの』あげるよ」
(いいもの……?)
ほんの少しの期待を胸に、私はやっとの思いで頂上へと辿り着いた。
視界いっぱいに広がる、夏の海。
真夏の陽射しを反射して、眩しいほどに煌めいている。
なつの姿越しに見るこの景色は、きっと一生忘れることのできない思い出になるだろう。
「怜、ここに座って」
なつは、少し小高くなった岩場に私を腰掛けさせた。
「……目を閉じて」
そう言うと、なつは湿気を帯びた手のひらで、私の瞼をそっと覆った。
「いい? 絶対に目を開けちゃダメだからね」
瞼に届いていた太陽の光が遮られ、影がゆっくりと近づいてくる。
生暖かい吐息と、なつ特有の甘い匂いが鼻腔を満たした。
触れるか触れないかの距離感に息が止まる。
次の瞬間、私の唇に柔らかく湿り気のある感触が落とされた。
ほんの一瞬だけの、儚いキス。
そっと目を開けると、なつが私を見下ろし、真っ直ぐな瞳で見つめていた。
言葉には出さないその瞳は、まるで――
『僕を忘れないで』
そう訴えかけているようだった。
私は、なつと視線を絡ませたまま、目を逸らせずにいた。
ずっと見つめ合っていると、柄にもない陳腐な台詞を言ってしまいそうになる。
この夏のことは、ほんの刹那の夢だったと、そう思っていてほしい。
今までなつが一人きりで抱えてきた悪夢とともに、全部忘れてしまえばいい。
私のことは、なつの記憶の片隅にも残らなくても構わない。
これまでの嫌なことを、きれいさっぱり消し去って、生きていってほしい。
それだけを、私は願っていた。
二人の間を風が通り過ぎていく。
木々のざわめき。
虫の鳴き声。
海鳥が空を渡っていく。
かすかな秋の気配に、夏の終わりを感じていた。
「ニャア……」
背後から、鳴き声が聞こえた。
私となつは、同時に振り返る。
「……ミイ?」
岩陰から、ミイがちょこんと顔を出していた。
「ミイ!」
なつが立ち上がる。
ミイは、ゆったりとした足取りでこちらへ近づいてきた。
「どこ行ってたんだよ。菜星ちゃん、心配してたよ」
なつがしゃがみ込み、ミイを抱き上げて頬ずりをする。
ミイはその腕の中で、小さく鳴いた。
「怜、帰ろう」
なつが笑って、私を見る。
私は首を振った。
「……先に旅館へ戻ってて」
「え?」
「ミイを菜星ちゃんに届けてあげて」
「怜は?」
「俺もすぐ戻るから」
「だめだよ。帰ろう」
「……ちょっと浸っていたいんだよ」
「何に?」
「……さっきのキスは、どういう意味だったのかなって」
「……えっ!?」
なつが珍しく赤面した。
困ったように眉を寄せ、やがて小さく頷く。
「……すぐ、戻ってね」
「うん」
「絶対だよ!」
「うん。約束する」
私はなつを見つめた。
「……絶対?」
「絶対!」
なつは、ようやく頷いた。
「じゃあ、待ってる」
ミイを抱いたまま、なつは坂道を下っていく。
私は、その背中を見送った。
私はひとり、崖の上に残された。
遠くで、車の音が聞こえた気がした。
振り返ると、木々の向こうに、赤色灯を見付けた。
私は、ゆっくりと目を閉じる。
――これでいい。
なつは母親のもとへ戻れた。
あの父親とも引き離せた。
なつは笑っていた。
きっとここで、ちゃんと生きていける。
――それでいい。
それだけが、私の望みだった。
やがて、私は警察官に連れられ、旅館へ戻った。
なつの姿は見えなかった。
「森村怜さんですね」
「……はい」
促されるまま、私はパトカーへ向かう。
後部座席のドアが開き、乗り込もうとした。
そのとき――
「怜――! 怜――!」
どこからか、なつの声が聞こえた。
私は足を止め、振り返る。
けれど、その姿は見えなかった。
それでも、あの声を間違えるはずがない。
「怜――! ずっと待ってるから!」
小さくなった声が、風に乗って届く。
「僕を助けてくれて……」
……その先は、もう聞き取れなかった。
私はパトカーに乗り込む。
窓の向こうで、海が流れていく。
なつと一緒に来た道を、こんなかたちで後にすることになるなんて……。
――いや、違う。
私はずっと、どこかで予感していた。
それでもいいと思ったのだ。
これがなつの望みなら、叶えてやりたい。
そう思ってしまったのだ。
私こそが、なつに狂わされた一人だったのだろう。
なつの姿は、最後まで見えなかった。
けれど――
分かっていた。
あの子が、何を言おうとしたのか。
胸の奥が、痛いほど締めつけられる。
私は俯いた。
頬を、一筋の涙が伝っていった。




