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刹那の夏、君の体温(ねつ)に溶ける。  作者: 毬藻 闇雪
刹那の夏、君の体温(ねつ)に溶ける。

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第三十話 夏の終わり



 眩しさに目を覚ます。

 隣には、軽装に着替えたなつが寝そべっていた。


 目が合うと、ふっと笑う。

 右手で頬杖をつくように頭を上げた。


「おはよう。怜」

「……おはよう。もしかして、ずっと見てたの?」

「ふふ。いびきかいてたよ」

「……恥ずかしいな」

「黒木さんと、遅くまで飲んだんだね」


 なつが、テーブルの上に置かれた空のボトルと、私が飲みきれなかったウイスキーのグラスを顎で指した。


「……気付いてたんだ」

「気付くでしょ」

「頭……いたい」

「二日酔いか……大人だねえ」

 茶化すように笑った。


 なつは布団を抜け出すと、カーテンを開け、窓を開け放った。


「お母さんに、頭痛薬もらってくるよ」


 冷蔵庫から取り出した冷たいペットボトルを、私の額にそっと当てる。

 そして静かに笑って、部屋を出ていった。


 端に寄せられたカーテンが、強い風に煽られ、大きくはためく。

 海の匂いを含んだ風が、部屋の中まで吹き込んできた。


 窓辺まで歩き、海を見下ろす。


 突き抜けるような青空に、洗いたての綿のような真っ白な雲が浮かんでいた。

 重厚感があり、質量さえ感じる。


 まるで、その上に乗れるのではないか。

 そんな子供じみた錯覚を覚えた。


 浜辺を歩く人々を眺めながら、ペットボトルの水を一気に半分ほど飲む。


 乾いていた身体に水が染みていくと、さっきまでの頭痛も少し和らいでいた。


「怜、薬をもらってきたよ」


 なつの声に振り返る。

 手のひらには、二錠分の頭痛薬が載っていた。


「一回で二錠だよ」

「ありがとう」

 薬を受け取り、ペットボトルの残りの水で流し込んだ。


「もう朝ごはんできてたよ。行こう」

 なつが私の手を引く。

 障子の向こうからは、菜星がひょっこり顔を出した。

「なつお兄ちゃんの怜くんって、寝ぼすけなんやね! もうみんな起きてるよ」



 離れの食卓には、なつの好きな南高梅のおにぎりに、だし巻き玉子、わかめの味噌汁が並んでいた。

 昨夜のチキン南蛮もある。


「お母さんは、お客さんのお世話とか、掃除とかやってるよ。ひろくんは、お酒をいっぱい飲んだから今日は漁に行かないって。旅館でご飯作ってる」

 菜星が教えてくれる。


 そこへ黒木が、お粥を持ってきた。

「怜くん、これなら食えるやろ?」

 お粥の中央には、梅干しがひとつ載っていた。


「ありがとうございます」


 黒木は満足そうに頷く。

 菜星がふと辺りを見回した。


「……ミイ、どこ行ったんやろ?」

「ミイ?」

「猫。昨日、ここに寝ちょったとに」

 菜星は椅子から降りると、離れの周りを探し始めた。


「ミイー? ミイー?」

 庭を覗き込み、縁側の下までしゃがんで見る。


「おらんねえ」

「そのうち帰ってくるよ」

 なつが笑う。


「でも、どこ行ったんやろ……」

 菜星は少し心配そうだった。

「旅館のほうも見てみる?」

「うん!」

 なつが菜星の手を引く。

 二人が並んで外へ出ていく。


 しばらくすると、母親が最後の客を見送って離れへ戻ってきた。

 なつと菜星も、その後を追いかけて戻ってくる。


 調理場の掃除を終えた黒木も戻ってきた。


「漁師仲間が、夕方に伊勢海老を持ってきてくれることになっちょるで。今晩、一緒に食おう!」


「伊勢海老……?」

 なつの顔がぱっと明るくなる。


 みんなが揃ったところで、食卓を囲み朝食を食べながら、他愛もない話をした。


 天気のこと。

 朝から行方不明になっている猫のこと。

 そして、なつが今日から新学期だということ。


「学校には、もう連絡してあるからね」

 母親が、何気なく言った。

「うん」

 なつは頷いた。



 隣に座るなつを見ると、美味しそうにおにぎりを頬張っていた。


(ごはんが好きなのかな? それとも梅干しが好きなのだろうか……)


 なつの、うれしそうにおにぎりを食べる姿から、なぜか目が離せなかった。


 私は出会った頃のなつを思い出していた。


 最初は変わった子だと思った。

 次第に放っておけない危うさを感じた。

 なつの仕草や、行動に、勝手に意味を持たせ、私は次第に感情をコントロールできなくなっていった。


 完全に遊ばれていた。

 大人のはずなのに、手玉に取られていた。


 だけど、それでも助けたいと思った。


 私がなつを救いたいと思った。

 他の誰でもない、私が、なつに選ばれたのだから。


 なつと出会って、ほんの数週間しか経っていないのに、とても長い時間を二人で過ごしたような気がしていた。


 私の中で育ったこの感情は、何だったのだろうか?


 なつを愛おしいと思う。

 好きだと思う。


 これは特別なのだろうか?


 他の女性に感じてきた愛情と、何か違うのだろうか?


 なつに触れたいと思った。

 だけど傷付けたいわけじゃない。


 なつに何かをして、喜んでほしい。

 幸せにしたい。

 これ以上、壊れないように、私が守ってやりたいと思った。


 ――いや、そんな大げさなものじゃない。

 なつに隣で笑っていてほしかった。


 ただそれだけのことだ。



 ふと気付くと、なつの頬に白いものがついている。


「なつ、ほっぺたに、ごはん粒ついてるよ」


 なつは目を見開いて、私に尋ねる。


「え? どこ?」


「このへん」


 私は、なつの右頬と線対称になる自分の左頬に指を当ててみせた。


「怜、取って……」


 私は指先で、ごはん粒をそっと摘み取った。


「はい。取れたよ」


 すると、なつは自分の指を伸ばし、私の指先から一粒のごはんを摘み取った。


「……ありがとう」


 なつは笑った。

 そしてそのまま、口に入れる。


「捨てないんだ?」


「だって、ごはんだよ」


 なつは何でもないことのように笑った。

 私は胸の奥が熱くなり、涙が溢れそうになるのを、必死で堪えた。



 そのとき、母親がふいに言った。

「今日は予約も入っちょらんから、みんなで海でも散歩せん?」


 唐突な提案だった。

 誰もすぐには返事をしなかった。

 言葉だけが、ぽつんと空間に浮かんでいる。


 ほんの少しの違和感。

 ――客の予約がない。


 そうかもしれない。

 そうじゃないかもしれない。


 昨夜の母親の話を思えば、警察のこともある。

 けれど、私は何も言わなかった。


 私は覚悟を決めて返事をした。


「いいですね。……行こう、なつ?」


 なつが、射抜くような強い目で、私をじっと見つめていた。

 私は無言で頷いた。



 旅館を出て、砂浜まで下りる。

 波打ち際を、なつと菜星が並んで歩いていた。


 二人はしゃがみ込み、砂の上に何かを書き始める。


「なに書いてるの?」

 私が覗き込む。


「お家!」

 菜星が答えた。


 浜辺に落ちていた長い枝で、砂の上に線を引いていく。


「ここが玄関で、ここがキッチン。大きいお庭もいるよね」

「お庭まで?」

 なつが笑う。

「うん。だって新しいお家だもん」

 菜星は、当たり前のように言った。

「ここが、お母さんとお父さんの部屋」

「俺は?」

 黒木が菜星に尋ねる。

 菜星は少し考えてから、砂の上にぐりぐりと丸を描いた。


「ひろくんは……ここね!」

「えー! ここはキッチンだよ」

「お料理ができる、ひろくんのお部屋。みんなここにご飯を食べに行きます」

「えー! 俺は、菜星専属シェフか~」

 わざと情けない声を出して、黒木がよろけてみせる。

 その姿を見て、みんなが一斉に笑い出した。


 菜星はキョトンとした顔で、続きを描いていく。

「ここが、ミイの部屋」

「デカイな! 俺の部屋の五倍はありそうだ!」

 黒木が再び突っ込んだ。

 今度は菜星もおかしそうに笑った。


「なつお兄ちゃんのお部屋と、怜くんのお部屋も作るの」

「僕と怜の?」

「うん。二人のお部屋」

「一緒なんだって」

 なつが、少し照れたように笑った。

「そうなの?」

「うん」

 私も思わず笑ってしまう。


 なつは私を振り返り、目配せする。

 私はその仕草に、なぜか心臓が高鳴った。


 砂の上に描かれた小さな家を、三人で覗き込む。

 いつの間にか、黒木と母親も隣に立っていた。


 みんなで笑い合う。


 その中で、なつだけが眩しいほどに輝いて見えた。

 私は目を細め、その姿を見つめていた。


 なつが菜星の肩に手を置く。

 二人は何か言葉を交わしながら、楽しそうに笑っている。

 その向こうでは、母親と黒木が顔を見合わせていた。


 その光景を、私は少し離れたところから眺める。


 昨日まで、なつには安心して帰れる場所がなかった。

 けれど――ここには、笑って迎えてくれる人がいる。

 妹がいて、母親がいて、黒木がいる。

 これなら……きっと、大丈夫だ。

 なつは、ここでやっていける。


 そう思った瞬間、胸の奥に張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。


 私は、なつの笑顔をもう一度見つめた。


 これでいい。

 それだけで、十分だ。

 ――そんな気がした。



 ふと、砂浜に転がっていた貝殻が目に入った。

 白くてキラキラと輝く、小さな貝殻だった。

 拾い上げ、砂を払う。


「なつ」

「ん?」

 呼ぶと、なつが振り返った。

 私は貝殻を差し出した。


「これ」

「……貝殻?」

「うん」

 なつは少し驚いたように貝殻を見つめ、それから笑った。

「ありがとう」


 細い指を揃え、差し出された手のひらに、私はそっと貝殻を載せた。

 なつはそれを大事そうに握りしめ、親指と人差し指で支える。


 貝殻を空に透かした。


「キレイだね。……宝石みたいだよ」

「大げさだな。ただの貝殻だよ」

「怜が、僕にくれたんだ」


 そう言って、なつは貝殻をポケットにしまった。


「僕、大事にするよ」


 私は首を振る。

「大事になんて、しなくていいよ。ただ、なつに渡したかっただけだから……」


「ううん。……絶対に、忘れない」

 そう言って、なつは笑った。


 五人で砂浜に座り、しばらく海を眺めていた。


「怜さん、なつとあの崖に登ってみたら?」


 母親が、海の向こうを指差した。

 旅館の裏手から続く、海にせり出した岸壁。


「見晴らしもいいし、いい記念になると思うわ」


「行こうよ、怜!」

 なつが、私の腕を引っ張る。


「分かった、分かった」

 私も重い腰を上げた。


 頭痛は、もうすっかり治っていた。

 なつと手をつなぎ、旅館の裏手へと向かう。


「まだ頭いたい?」

 なつは心配そうに首を傾げ、上目遣いで聞いてくる。


「大丈夫。……なつは疲れてない?」

「うん」


 なつは緩んだスニーカーの靴紐を結び直した。

 そして立ち上がると、真っ直ぐ前を向く。


 私たちの夏は、もう終わりに向かっていた――。




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