↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
刹那の夏、君の体温(ねつ)に溶ける。  作者: 毬藻 闇雪
刹那の夏、君の体温(ねつ)に溶ける。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

29/39

第二十九話 痛み



 母親は、ゆっくりと立ち上がった。


「……怜さん」


 両手を前で揃え、静かに佇む。

 その顔には、さっきまでのからかうような笑みは微塵もなかった。


「なつをここまで連れて来てくださって、ありがとうございます」

 深々と頭を下げ、そのまましばらく動かなかった。

 私は突然のことに面食らい、何の言葉も出せずにいた。


「あの。……いえ、私は……」

 そして、ようやく絞り出した言葉は、情けないほど頼りなかった。

 それでも笑わず、じっと顔を見つめられ、頬が熱くなっていくのを感じた。


 波の音が耳に押し寄せてくる。

 月が雲に覆われ、辺りは薄暗くなった。


「なつも私も、前の夫からひどい目に遭いました。……警察にも、その旨をお伝えするつもりです」


 月明かりが、再び海を照らす。


「私は、なつがあなたを選んだ気持ちが分かります……。あなたは、私たちと同じ。痛みを知る側なんですよね」


「……痛み?」

「他人の痛みを自分のことのように感じ、誰かを責めることでその人が傷つくのを恐れている。その結果、波風を立てないように、すべての感情を自分の心の中に閉じ込め、一人で処理しようとして思い悩む。……すべての因果は自分のせいだと。そんな人……違うかしら?」


「……わかりません」

「きっと、そうよ」

「どうなんでしょうか……」


「私たちは、人に懐かない。だけど、なつはあなたを信頼しているように見えたわ」


「そうですか?」

「そうなのよ。だって私も……あなたが好きだもの」


 目を伏せていたのに、急に視線を上げてこちらを見据えた。

 また激しく心臓が跳ねる。


「……ありがとうございます」

「とにかく今夜はゆっくり休んで、また明日考えましょう?」

「……はい」


「なつは多分、離れに……私の家に寝てるままだと思うんだけど……」

「そうかもしれませんね」

「寝ていたら、起こさなくてもいいかしら?」

「はい。そうしてください。きっと疲れているだろうから、今夜はゆっくり休ませてあげたい。……なつをよろしくお願いします」


 私はそう言って、思わず苦笑いする。

 何をよろしくするというのだ。

 実の母親だぞ。何もお願いすることはないのだ、と。

 母親もそれは思ったのだろう。

 しかし何も言わず、ただ確かに一度だけ頷いた。



 部屋に戻ると、灯りは落とされていた。


 いつの間にか敷かれた布団が、月明かりに照らされている。

 布団の近くまで歩いていくと、片方の布団に、なつが眠っていた。

 布団の中で小さく身体を丸め、規則正しく息をしている。


 長いまつげと、さらさらの前髪が月明かりに照らされている。

 可愛らしくて、美しい。

 少年のようでいて、どこか神秘的だった。


 私なんかが触れてもいい存在には、とても思えなかった。

 髪に触れようと手を伸ばし、そのまま引っ込める。


 私はその姿をしばらく眺めてから、窓辺に腰を下ろした。

 暗がりの部屋で、細く窓を開け、海風を頬に当てる。

 たった一缶のビールが、やけに効いていた。久々の酒に、すっかり酔いが回ってしまったようだ。



 今日一日のことが、頭の中を次々と過ぎていく。


 なつと二人で、列車と新幹線を乗り継ぎ、夜を明かしたこと。

 鹿児島で、小旅行のような時間を過ごしたこと。

 母親に会い、妹の存在を知ったこと。

 警察。

 そして、なつと母親の傷。


 眠れるはずもなかった。

 人生のクライマックスを、一遍に味わっているようだ。


 美しい親子だと、なつと母親の姿を重ねる。


 もしも運命が違えば、どんなに幸せな人生が送れていたのだろうと想像を巡らせてみた。


 だけどいくら考えても、現実はここに帰結する。

 一見、残酷に見えるこの結末が、あの親子の定めとでも言うのか?



 どれくらい経っただろう。

 障子の向こうから、かすかな物音がした。

 私は顔を上げる。


「……怜くん、起きちょる?」

 黒木が声をひそめて、部屋を覗いていた。


 私が、頭を下げながら「はい」と返事をすると、ウイスキーとグラスを掲げた黒木が、そっと中に入ってきた。


「飲もうや?」

「……私、酒は強くないですよ」

「俺が強いけ、構わんよ」

「はは。何ですか、それ」

「屁理屈じゃ」


 部屋の冷蔵庫からペットボトルの水と、氷の袋を引っ張り出し、グラスに移し替えた。

 なつを起こさないよう、音を立てず細心の注意を払っている。


 大きなガタイをして、神経質に動く姿に思わず吹き出しそうになる。

「しっ!……怜くんここは堪(こら)えんと。俺のせいで、なっちゃん起こしたくないわ」


 黒木は私の視線を察して、付け加える。

「俺、意外と繊細やろが? 身体はこうやけど、細かい作業が得意なんやわ……編み物とかな」

「編み物?」

「ウケるやろ? 漁師は、網の手入れをする。浮きにロープ巻きつけたり、釣り具の手入れしたり。その流れで覚えたわ」

「嘘ですよね?」

「ま、そうやね」

 私と黒木は、声を抑えて笑った。 


「布団を敷きに来たら、なっちゃんが追いかけてきてね。一緒に敷いてくれたとよ」

「ああ、それでそのまま」

「うん。布団に潜って、そのまま」

 二人とも、しばらくなつの寝顔を見ていた。


 テーブルに置いたグラスの氷が、カランと音を立てた。


「……お母さんは、昔、大変だったんですか?」


 黒木は少し黙って、頷いた。

「大変っちゅうか……あの人は、よう逃げたと思うよ。……あんときゃ、足も、まともじゃなかったしな」

「足も……」

「それでも、なっちゃん連れて逃げようとしたみたいで……まあ、途中で捕まったようやけど」


「黒木さんは……その頃から?」

「……いや。俺が知り合ったんは、もっと後じゃね。ここの旦那さんと、俺は釣り仲間じゃったから」

「再婚相手の?」

「そうやね。……静かな、もの言わん、いい人やったよ」


「菜星ちゃんは……その人との?」

「なほ? ……うーん、どうじゃろ? 顔があんま、似とる気がせんのよね。なほは、どっちか言うたら、ハーフっぽいやろ? 可愛らしい、日本人離れした、美形ちゅうんか? この辺りじゃあんま、こんな顔の子見らんよね?」

「……」

「今日、なっちゃん見て確信したわ。……三人とも、よう似ちょる」


「でも……お母さんがなつの父親と別れたのって、五年前ですよね?」

「……うーん」

 黒木は困ったように笑った。

「あん人が言いたくないことは、聞かんのが花やないの?」

「……」


「あの人なぁ……昔から、人を見る目だけは妙に鋭いんよ」

「どういう意味ですか?」

「うーん……なんちゅうかなぁ。一見、優しそうに見える人とか、人当たりの良さそうな人とかおるやろ? けど、夏海は人の見た目じゃのうて、感覚で、『あの人は悪い人や』とか、『信用ならん人や』と言うんやわ」

「……はい」

「最初は、また言っとるわ……くらいに流すやろ? でも、それはだいたい、合(お)うとる。……詳しいことは知らんけど、とにかく人をよう見ちょるっつーこっちゃろ?」

「……そうですね」


(なつも、そういうところがあるかも……)


 ふと思い当たる。

 けれど――


 それだったら、なぜ、なつの父親のような人間を選んだのだ?


 あの父親の、あの執着や嫉妬深さ……

 我を忘れたように怒鳴り散らす様を目の当たりにして、普通ではないと思った。


 もしかしてあの父親も、最初からああいう人間ではなかったと言うことか?

 なつの母親によって、変わっていったのか……?

 

(黒木も、私に対して敵意を見せていた。

それも、もしかすると……)


 再婚した夫は、どうだっただろうか……


 頭の中で思いを巡らせていると、黒木が私のグラスにウイスキーを注いだ。

 私は、濃いめの水割りを、ちびちびと口にする。


 黒木の母親への呼び方が、いつの間にか『夏海』に変わっていた。

 二人の仲を示しているように思えたが、私はあえて指摘はしなかった。


「……まあ、俺が言うことじゃないわな」

 黒木は、ウイスキーの水割りを、一気にゴクゴクと流し込んで、ふうとため息をついた。


「……夏海はな、強いんじゃない」

「え?」

「強く見せとるだけじゃ」


 黒木はそう言って、氷だけになったグラスにウイスキーを並々に注いだ。

「夏海は……ずっと、虚勢を張っとる」

「……何に対してですか?」

 黒木は、グラスを傾けながら、しばらく黙っていた。

「……さあな」

 それだけ言って、また酒を流し込む。



――多分、もう誰にも奪われない、自分になるため……。


 きっと、なつと同じ。

 そんな気がしていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。