第二十九話 痛み
母親は、ゆっくりと立ち上がった。
「……怜さん」
両手を前で揃え、静かに佇む。
その顔には、さっきまでのからかうような笑みは微塵もなかった。
「なつをここまで連れて来てくださって、ありがとうございます」
深々と頭を下げ、そのまましばらく動かなかった。
私は突然のことに面食らい、何の言葉も出せずにいた。
「あの。……いえ、私は……」
そして、ようやく絞り出した言葉は、情けないほど頼りなかった。
それでも笑わず、じっと顔を見つめられ、頬が熱くなっていくのを感じた。
波の音が耳に押し寄せてくる。
月が雲に覆われ、辺りは薄暗くなった。
「なつも私も、前の夫からひどい目に遭いました。……警察にも、その旨をお伝えするつもりです」
月明かりが、再び海を照らす。
「私は、なつがあなたを選んだ気持ちが分かります……。あなたは、私たちと同じ。痛みを知る側なんですよね」
「……痛み?」
「他人の痛みを自分のことのように感じ、誰かを責めることでその人が傷つくのを恐れている。その結果、波風を立てないように、すべての感情を自分の心の中に閉じ込め、一人で処理しようとして思い悩む。……すべての因果は自分のせいだと。そんな人……違うかしら?」
「……わかりません」
「きっと、そうよ」
「どうなんでしょうか……」
「私たちは、人に懐かない。だけど、なつはあなたを信頼しているように見えたわ」
「そうですか?」
「そうなのよ。だって私も……あなたが好きだもの」
目を伏せていたのに、急に視線を上げてこちらを見据えた。
また激しく心臓が跳ねる。
「……ありがとうございます」
「とにかく今夜はゆっくり休んで、また明日考えましょう?」
「……はい」
「なつは多分、離れに……私の家に寝てるままだと思うんだけど……」
「そうかもしれませんね」
「寝ていたら、起こさなくてもいいかしら?」
「はい。そうしてください。きっと疲れているだろうから、今夜はゆっくり休ませてあげたい。……なつをよろしくお願いします」
私はそう言って、思わず苦笑いする。
何をよろしくするというのだ。
実の母親だぞ。何もお願いすることはないのだ、と。
母親もそれは思ったのだろう。
しかし何も言わず、ただ確かに一度だけ頷いた。
部屋に戻ると、灯りは落とされていた。
いつの間にか敷かれた布団が、月明かりに照らされている。
布団の近くまで歩いていくと、片方の布団に、なつが眠っていた。
布団の中で小さく身体を丸め、規則正しく息をしている。
長いまつげと、さらさらの前髪が月明かりに照らされている。
可愛らしくて、美しい。
少年のようでいて、どこか神秘的だった。
私なんかが触れてもいい存在には、とても思えなかった。
髪に触れようと手を伸ばし、そのまま引っ込める。
私はその姿をしばらく眺めてから、窓辺に腰を下ろした。
暗がりの部屋で、細く窓を開け、海風を頬に当てる。
たった一缶のビールが、やけに効いていた。久々の酒に、すっかり酔いが回ってしまったようだ。
今日一日のことが、頭の中を次々と過ぎていく。
なつと二人で、列車と新幹線を乗り継ぎ、夜を明かしたこと。
鹿児島で、小旅行のような時間を過ごしたこと。
母親に会い、妹の存在を知ったこと。
警察。
そして、なつと母親の傷。
眠れるはずもなかった。
人生のクライマックスを、一遍に味わっているようだ。
美しい親子だと、なつと母親の姿を重ねる。
もしも運命が違えば、どんなに幸せな人生が送れていたのだろうと想像を巡らせてみた。
だけどいくら考えても、現実はここに帰結する。
一見、残酷に見えるこの結末が、あの親子の定めとでも言うのか?
どれくらい経っただろう。
障子の向こうから、かすかな物音がした。
私は顔を上げる。
「……怜くん、起きちょる?」
黒木が声をひそめて、部屋を覗いていた。
私が、頭を下げながら「はい」と返事をすると、ウイスキーとグラスを掲げた黒木が、そっと中に入ってきた。
「飲もうや?」
「……私、酒は強くないですよ」
「俺が強いけ、構わんよ」
「はは。何ですか、それ」
「屁理屈じゃ」
部屋の冷蔵庫からペットボトルの水と、氷の袋を引っ張り出し、グラスに移し替えた。
なつを起こさないよう、音を立てず細心の注意を払っている。
大きなガタイをして、神経質に動く姿に思わず吹き出しそうになる。
「しっ!……怜くんここは堪えんと。俺のせいで、なっちゃん起こしたくないわ」
黒木は私の視線を察して、付け加える。
「俺、意外と繊細やろが? 身体はこうやけど、細かい作業が得意なんやわ……編み物とかな」
「編み物?」
「ウケるやろ? 漁師は、網の手入れをする。浮きにロープ巻きつけたり、釣り具の手入れしたり。その流れで覚えたわ」
「嘘ですよね?」
「ま、そうやね」
私と黒木は、声を抑えて笑った。
「布団を敷きに来たら、なっちゃんが追いかけてきてね。一緒に敷いてくれたとよ」
「ああ、それでそのまま」
「うん。布団に潜って、そのまま」
二人とも、しばらくなつの寝顔を見ていた。
テーブルに置いたグラスの氷が、カランと音を立てた。
「……お母さんは、昔、大変だったんですか?」
黒木は少し黙って、頷いた。
「大変っちゅうか……あの人は、よう逃げたと思うよ。……あんときゃ、足も、まともじゃなかったしな」
「足も……」
「それでも、なっちゃん連れて逃げようとしたみたいで……まあ、途中で捕まったようやけど」
「黒木さんは……その頃から?」
「……いや。俺が知り合ったんは、もっと後じゃね。ここの旦那さんと、俺は釣り仲間じゃったから」
「再婚相手の?」
「そうやね。……静かな、もの言わん、いい人やったよ」
「菜星ちゃんは……その人との?」
「なほ? ……うーん、どうじゃろ? 顔があんま、似とる気がせんのよね。なほは、どっちか言うたら、ハーフっぽいやろ? 可愛らしい、日本人離れした、美形ちゅうんか? この辺りじゃあんま、こんな顔の子見らんよね?」
「……」
「今日、なっちゃん見て確信したわ。……三人とも、よう似ちょる」
「でも……お母さんがなつの父親と別れたのって、五年前ですよね?」
「……うーん」
黒木は困ったように笑った。
「あん人が言いたくないことは、聞かんのが花やないの?」
「……」
「あの人なぁ……昔から、人を見る目だけは妙に鋭いんよ」
「どういう意味ですか?」
「うーん……なんちゅうかなぁ。一見、優しそうに見える人とか、人当たりの良さそうな人とかおるやろ? けど、夏海は人の見た目じゃのうて、感覚で、『あの人は悪い人や』とか、『信用ならん人や』と言うんやわ」
「……はい」
「最初は、また言っとるわ……くらいに流すやろ? でも、それはだいたい、合うとる。……詳しいことは知らんけど、とにかく人をよう見ちょるっつーこっちゃろ?」
「……そうですね」
(なつも、そういうところがあるかも……)
ふと思い当たる。
けれど――
それだったら、なぜ、なつの父親のような人間を選んだのだ?
あの父親の、あの執着や嫉妬深さ……
我を忘れたように怒鳴り散らす様を目の当たりにして、普通ではないと思った。
もしかしてあの父親も、最初からああいう人間ではなかったと言うことか?
なつの母親によって、変わっていったのか……?
(黒木も、私に対して敵意を見せていた。
それも、もしかすると……)
再婚した夫は、どうだっただろうか……
頭の中で思いを巡らせていると、黒木が私のグラスにウイスキーを注いだ。
私は、濃いめの水割りを、ちびちびと口にする。
黒木の母親への呼び方が、いつの間にか『夏海』に変わっていた。
二人の仲を示しているように思えたが、私はあえて指摘はしなかった。
「……まあ、俺が言うことじゃないわな」
黒木は、ウイスキーの水割りを、一気にゴクゴクと流し込んで、ふうとため息をついた。
「……夏海はな、強いんじゃない」
「え?」
「強く見せとるだけじゃ」
黒木はそう言って、氷だけになったグラスにウイスキーを並々に注いだ。
「夏海は……ずっと、虚勢を張っとる」
「……何に対してですか?」
黒木は、グラスを傾けながら、しばらく黙っていた。
「……さあな」
それだけ言って、また酒を流し込む。
――多分、もう誰にも奪われない、自分になるため……。
きっと、なつと同じ。
そんな気がしていた。




