第二十八話 血
「怜さん……なつとは……」
母親が、隣で静かに口を開いた。
私は少しためらい、手にしたビールを口にする。
「私……今、誘拐犯なんです」
母親が、ぱちりと目を瞬かせた。
「えっ!?」
そして、ほんの少しだけ口元を上げる。
「それじゃ、通報しなくっちゃね」
「……え?」
思わず、母親の顔を見る。
その言い方に、なぜか聞き覚えがあった。
――そうだ。
なつも、こんなふうに人をからかうことがある。
相手がどう返すのか、楽しむような目。
冗談だと分かっていても、ほんの少しだけ心を揺らされる。
五年ぶりに会った母親と、なつ。
顔が似ていることは、ずっと感じていた。
けれど――こんなところまで似るものなのか。
私は思わず、母親の横顔を見つめた。
「ふふ。……冗談よ」
母親は楽しそうに笑った。
その笑い方さえ、どこか――なつに似ていた。
私たちは、声を落として話を続けていた。
そのとき、「なん、誘惑しちょるとか?」と、背後から、黒木の声がした。
「ひろくん……」
振り返る間もなく、黒木が母親の後ろから腕を回した。
「ちょっ……」
母親の身体を抱き寄せ、そのまま顔を寄せる。
キスをしようとしたのだろう。
「なんね。今はやめて」
母親は笑いながらも、黒木の胸を軽く押し返した。
「お前はいつも男を……」
「分かったから!」
母親は困ったように笑った。
「もう酔っちょるん? お願いだから、あっちに行っとってね」
黒木は抱きついて、母親から離れようとしなかった。
「……」
「いま、大事な話をしとるんよ」
真剣な顔で言われ、ふざけている雰囲気ではないと悟ったのだろうか。
しばらく母親を見つめていたが、諦めたように息を吐く。
「はいはい」
両手を挙げ、への字口で私のほうをちらりと見た。
そして、口元だけで笑う。
「怜くん」
「はい?」
「気をつけんと――」
強い海風が、勢いよく吹き付ける。浴衣の隙間がバタバタとはためく。
「食われるよ」
湿った夜風は、一段と濃い潮の匂いを運んでくる。
「……え?」
黒木は、それ以上何も言わず、家の中へ戻っていった。
「ごめんねぇ。あの人、嫉妬深いんかね? いつもは、そうでもないんだけど……」
「いえ……」
そう答えると、母親がじっと私を見つめてきた。
「いくらなんでも、こんなおばちゃんじゃ、誘惑はできんわよね?」
くすっと笑う。
潮風が、母親の下ろした長い髪をさらさらと揺らした。
その髪の隙間から、細い首筋が覗く。
白い線が、ひとつ。
(……なつと、同じ?)
胸の奥が、ざわついた。
「……そんな、じっと見つめんで」
襟元を整えながら、苦笑いする。
「恥ずかしいやないの」
私は、両手を強く握りしめて言った。
「なつにも、同じような傷痕が、ありました……」
母親は、半ば諦めのような顔で頷き、「……そうなんや」とだけ、ぽつりとこぼした。
「そら、可哀相なことをしたわ……」
ビールをごくごくと流し込み、ふぅと小さく息を吐く。
「実はね。……あんたらが来る前の日、警察から電話が来ちょったのよ」
母親は、海を見つめたまま言った。
「息子さんが誘拐されたと言われて。……なつの、父親から通報があったそうよ」
「……はい」
やはり、連絡は来ていた。
「でも、調べてみると、いろいろ厄介なことがあるらしくて……。明日にでも、私に話を聞きたいって」
「……」
「それからね。もし、なつが来たとしても、このことは本人たちには……って」
そこで母親は、ふっと笑った。
「もちろん、承知していますって答えたわ」
しばらく、波の音だけが聞こえていた。
「怜さん」
「はい」
「……なつは逃げ出したんやろ? あの人から」
「え?」
顔が目の前まで迫っていた。私が、少しでも動けば触れてしまいそうな距離。
「なつが、あなたを見付けたん?」
海から吹き込む強い風が、二人の間を駆け抜ける。
「それとも……逃げるために、あなたを頼ったん?」
「……」
ごくりと喉が鳴る。
「なつに何かされた?」
海風はバタバタと服をはためかせ、髪をバラバラに梳いていく。
「もしかして……もう二人は、そういう関係なんやろか……」
ドクンと心臓が鳴った。
「それは! あり得ません!」
思わず大きい声が出た。
否定して、潔白を示しておきたかった。
「私は、 なつに手は出してません」
母親は目を瞬かせ、顔を伏せる。
「違うの。ごめんなさい。そうやなくて。……私がそうやったから、もう使えるもんは何でも使わんと、逃げ出せん……そんな切羽詰まった状態で、ようやっと逃げ出せたから……」
「……」
「束縛も、嫉妬も……執着も。ぜんぶ、あいつはぶつけて来るんよ」
母親は、静かに私を見る。
「なつも、もしかしたらって思った。でも……男の子やから、大丈夫かとも思ってたんよ」
「……」
「でも、そうじゃなかった」
その言葉に、胸が詰まる。
「……違う?」
「……はい」
母親は、小さく息を吐いた。
「私も、五年前に逃げたんよ」
細い指が、膝の上で重なる。
「もう、ボロボロでね。身一つで逃げた」
「なつは――」
思わず口を開きかけて、私は言葉を飲み込んだ。
母親が、こちらを見る。
「なつもよ」
「……」
「なつも一緒に連れて逃げた」
母親の声が、少しだけ震えた。
「でも……途中で捕まって、奪われた」
私は、何も言えなかった。
「助けるって言ってくれてた人も、いざとなったら意気地なくなって……何度も裏切られて、私は奪われるばかりで。……それでも助かりたくて、手当たり次第に、男にすがった」
「……」
「とにかくあの人から逃れたい一心で……」
「……はい」
二人とも、黙ったままビールを口にした。
しばらく、波の音だけが続いた。
「……あなたは、なつを救ってくれた」
母親は海へ視線を戻す。




