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刹那の夏、君の体温(ねつ)に溶ける。  作者: 毬藻 闇雪
刹那の夏、君の体温(ねつ)に溶ける。

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第二十七話 菜星



「なほ!」

 背後から、母親の声がした。


「お母さん!」

 女の子は、母親の呼び声に反応して駆け寄った。

「だめじゃない。ちゃんと離れに居てって言ったのに」

 女の子は口を尖らせ、母親に上目遣いをする。

「だって……ミイがこっちに来たんだもん」


 二人の会話を、なつは黙って聞いていた。


「なつ……」

 私が声を掛けるのと同時に母親が振り返り、私にほんの一瞬だけ目配せをする。


「なつ。騙してたわけではないんだけど……びっくりさせたわよね。ごめんなさいね」


 なつは小さく首を振った。

 そして、静かに目を伏せる。


「この子ね……あなたの、妹よ」

 そしてためらったように口を閉じ、再び開く。

「……血の繋がった、実の妹」


 それから女の子に向き直る。

「菜星(なほ)。この子は、菜月(なつ)」

 母親は、少しだけ微笑んだ。

「……あなたのお兄ちゃんよ」


 なつは、しばらく菜星の顔を見つめていた。

 やがて、ふっと笑う。


「そっかあ。知らなかった。僕、お兄ちゃんだったんだ!」


 あまりにも屈託のない笑顔に、母親の表情も少し緩んだ。


「菜星ちゃん。よろしくね」

 なつが頭を下げ、右手を差し出す。


 菜星は恥ずかしそうに母親の後ろへ隠れたが、しばらくして、「……よろしく」と、小さな声が返ってきた。


 少しだけ緊迫した雰囲気に、私は動けずにいた。


「お母さん」

 なつが口を開く。

「ん?」

「僕、お腹空いた」

 あっけらかんとしたなつの声に、私も、なつの母親も救われたように笑い出す。


「あらあら。そうやったね。ご飯にしましょうか」

 女の子がミイを床に下ろした。

 ミイは後ろ足で後頭部を掻きながら、毛づくろいを始める。


 母親はなつの背中に手を乗せ、顔を覗き込みながら、「離れのキッチンで、一緒に食べましょう」と言った。


 母親を先頭に、みんなで廊下を歩き始めた。

 三毛猫のミイが先を歩き、その後ろをなつがついていく。

 少し離れて、菜星がもじもじしながら歩いていた。


 なつが振り返り、手を差し出した。

「なほちゃん」


 菜星はその手を見つめ、それから母親を振り返る。

 母親が小さく頷いた。

 菜星は、ようやくその手に小さな手を重ねた。


 なつが笑う。

 二人の手が、しっかりと繋がった。

 その様子を見て、母親と私は顔を見合わせた。

 思わず、二人とも笑ってしまう。


 そのときだった。

「怜さん」

 母親が、私の耳元に顔を寄せた。

「……後で、お話があります」


 先ほどまでの笑顔は消えていた。

 背筋に冷たいものが走る。

 胸の奥が、ドクンと鳴った。



 離れのキッチンに案内されると、そこには、すでに料理が並べられていた。


「わあ……」


 なつが目を輝かせる。


 新鮮なカツオとカンパチの刺し身。

 カツオのたたき。

 郷土料理の地鶏の炭火焼き。

 チキン南蛮、サラダ巻き。

 そして、デザートには、艶やかなマンゴーまで用意されている。


「どうかしら?」

 母親が少し照れたように笑う。

「ちょっと、張り切っちゃった……」


「すごい!」

 なつが嬉しそうに声を上げた。


「ほんとは伊勢海老も出したかったんやけどね……」

 母親が、少し残念そうに笑う。


「でも、漁の解禁は明日からやからね」

「明日なんだ」

「そう。あと一日早ければ、食べられたのにね」


 そう言って、母親は肩をすくめる。

 それでも、目の前の料理を見つめるなつの顔を見て、嬉しそうに笑った。


 そのとき、背後から男の声がした。


「こんばんは」


 ほんの一瞬だけ、なつの顔がこわばった気がした。


 振り返ると、こんがり日焼けした、長身で筋肉質な男が立っている。


 なつの日焼けなど、日焼けにあらずと言わんばかりの黒さ。

 潮風に晒されているせいか、髪も肌もどこか乾いている。

 その顔に浮かんだ白い歯だけが、妙に鮮やかだった。


「こちらは……お料理を作ってくれてる……黒木千紘(くろぎちひろ)さん」


「ひろくんだよ」

 菜星が、無邪気に付け加えた。


「どうも……黒木です」

 男はそう言って、軽く頭を下げた。


 太い眉に、日に焼けた顔。無精髭の残る顎。

 短く刈った髪の生え際まで、潮風に晒されているようだった。

 袖から覗く腕は太く、手の甲には細かな傷がいくつも走っている。


 海で働く男なのだと、見ればなんとなく分かった。


 ふと左肩に目が止まった。

 一瞬、入れ墨でも入っているのかと思ったが、よく見ると、そこだけ皮膚が硬く盛り上がり、白く荒れている。


 ――傷跡。

 何の傷なのかは、分からなかった。



 席に着いて、改めて料理を眺めてふと思う。

 急に訪ねてきた私たちのために用意したにしては、あまりにも豪華だった。


 ――やはり。


 母親は、私たちが来ることを警察から聞いていたのだろうか。

 そう思うと、先ほどの「お話があります」という言葉が、また胸に引っ掛かった。



 なつは料理を前にして嬉しそうに笑っている。


 ……いや。

 よく見ると、少しだけ違った。


 笑っている。

 けれど、その笑顔の奥には、何かが沈んでいるように見えた。


 私が気づいたことなら、なつも気づいているはずだ。


 突然現れた妹。

 そして――母親の隣にいる、知らない男。


 母親には、なつの知らない生活があった。

 自分のいないところで、新しい家族ができていた。

 それを目の前にして、心が晴れやかになれるはずもない。

 なつが何も感じていないと考えるほうが、無理なのだろう。


 それでも、なつは楽しそうに食事をしていた。

 だから私も、余計なことは考えないようにした。

 この時間を壊さないように、なつと一緒に笑った。


「ひろくん、これ食べる?」

 菜星が残した料理を、黒木は何のためらいもなく自分の皿へ移した。

「食べんのか?……美味いのに」

 菜星は笑って首を振った。


 母親の皿に料理を取り分けるとき、黒木は自分の箸を使っていた。

 ――かなり親しい関係なのか。


 言葉にしなくても、わかることがある。

 この三人の間には、なつの知らない時間が確かにあった。


 三人しか知らない人の名前で盛り上がり、三人だけの話題があった。

 なつと私は、そこに入り込めない。

 その距離が、妙に生々しかった。



 食事を終えると、黒木が食器を片付け始めた。


「僕も手伝います」

「いいよ。お客さんなんだから、座っちょって」

 そう言いながら、黒木さんは手際よく皿を重ねていく。

 母親も手伝おうとしたが、

「いいって。今日は積もる話もあっじゃろ?」

 そう言われて、笑いながら手を引っ込めた。


 私たちは居間へ移り、テレビを眺めながら、取り留めのない話をした。

 菜星はなつの隣を陣取り、しなだれかかりながら夢中で話し掛けていた。

 さっきまであんなにもじもじしていたのが嘘のように、二人は距離を縮めていた。


 なつも楽しそうだった。

 しばらく母親と話をしていると、二人の声が聞こえなくなった。


 見ると、なつと菜星はソファの下の絨毯に、手を繋いだまま、並んで眠っていた。

 それを見て、母親が声を出さずに笑った。

 私も、つられて笑う。



「怜さん」

 母親は、私の肩にそっと手を当て、こちらを見つめてきた。


 胸の奥が、わずかに強張る。

 ――後で、お話があります。

 夕方の声が、耳の奥に蘇った。


 私も母親を見つめ返す。

 その表情からは、先ほどまでの柔らかな笑顔が消えていた。


 母親は立ち上がり、私の耳元へ直接、「出ましょうか」と声を掛けた。

 背筋に、ゾクッと電流が走った。

 振り返った黒木さんと、目が合う。

 母親は何事もなかったようにシンクへ向かった。


「千紘……ちょっと外に行くわね。あと、よろしく」

「おう」

 母親は冷蔵庫を開け、ビールの缶を二本取り出し、「怜さん……こっちへ」と、私を手招きした。


 玄関先で私のために、サンダルを靴箱から取り出し、足元に置いた。

 そして、母親が立ち上がると、ふわりと柔らかな匂いに包まれた。

 シャンプーのような、優しい匂いだった。



 海辺に面したテラスに出る。

 月の光が、静かな海を照らしていた。

 なつの母親と並んで腰を下ろすと、しばらく二人で海を見ていた。

「……静かやね」

 母親は海を見たまま、独り言のように呟いた。

「こうしてゆっくり海を見るのは、久しぶりやわ」

「毎日、見てるんじゃないんですか?」

「毎日見ちょるけど、見たくなるんよ。海って……不思議やわ」


 そして、私の顔を見ながら、左手を伸ばして海を指し示す。

「ほら。……見てん。月が波に反射して……きれいやろ?」

 顔を向けると、視線が重なる。

 母親の瞳に、月の光が反射していた。


「……はい。とても……きれい、です」

 ゴクリとつばを飲み込む。


「ふふ。気に入ってもらえたかしら?」

 そう言って、母親が缶ビールを持ち上げる。

 プルタブに指を掛けた。

「……貸してください」

「ふふ。怜さん、優しいんやね」

「え?」

「女の扱いに慣れとるみたい」

「……そんな経験、ありません」

「そう?」

 母親は笑った。


「じゃあ、今夜は特別なんやろか?」

「え」

「私と、よう、目が合いよる……」

「……っ」

「ごめん、ごめん。ちょっとからかっちゃった。……悪い癖やわ、ね」


「……開きました」

 缶ビールを手渡すと、指先が重なった……。

「ありがとうね」


 母親がじっと私の目を見つめている。

 私は視線を離せずにいた。


 月の光を受けた茶色の瞳が、静かに揺れている。

 その瞳は、昼間に見たものよりもずっと、艶めいて見えた――。


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