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刹那の夏、君の体温(ねつ)に溶ける。  作者: 毬藻 闇雪
刹那の夏、君の体温(ねつ)に溶ける。

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第ニ十六話 母親



「あら、お客さん?」

 背後から声が掛かった。

 なつが、弾かれたように振り返る。

「お母さん!」

「……えっ……なつ!?」


 女性は、なつが駆け寄ってくると、目を丸くしたまま立ち尽くしていた。

 渋茶の着物を着て、長い髪を後ろでひとつに束ねた、細身の女性。

 どこか頼りなげにも見える。


 色素は、なつほど薄くない。

 けれど、ぱっちりとした二重に、長いまつ毛。    

 その顔には、確かになつの面影があった。


「……なつ? どうしたの?」

 女性は周囲を窺うように、きょろきょろと視線を泳がせる。

「……お父さんと一緒に、来たん?」

 不安そうな表情で、なつの目線に合わせる。

 なつは、まるで幼い子供のように、ぶんぶんと首を振った。


 そして、私を指差す。


「……怜。僕の……」

 なつは言葉に詰まり、首を傾げた。


「怜」


(僕の、怜……)

 私は思わず笑ってしまった。


 なつの母親は、しばらくのあいだ、なつを抱きしめていた。

 なつも母親の腰に腕を回し、そのぬくもりを確かめるように、じっと身を寄せている。


「よく来てくれたわ。本当に、大きくなって……」

「……うん」

 母親は、なつの頬に手を添え、顔をじっと見つめている。

 まるで、長い時間を隔てて向かい合う、二枚の鏡のようだった。


 けれど――。

 突然の再会にしては、どこか静かすぎる。

 二人とも涙を流すわけでもなく、取り乱すわけでもない。

 ただ、互いの顔を確かめるように見つめ合っている。


 ――こういうものなのだろうか。

 ほんの少しだけ、胸に引っ掛かるものがあった。

 母親は、何かを予感していたのだろうか。

 それとも――。



「部屋は、使えるところが、ほとんど埋まっちゃってて……。と言っても三部屋だけで、あとは床と天井がボロボロで使えなくてね。でも、せっかく来てくれたんだから、特別室を用意するわね」


 方言の混じった独特の話し方に、やさしい声の響きが重なる。

 その声の音には、どこか温かさがあった。


 母親は、なつの手を引きながら、楽しそうに笑って私たちを案内していく。

 聞きたいことは、山ほどあるはずだ。

 それでも今は、息子との再会を味わっているようだった。


 私も、伝えるべきことを整理する時間が欲しかった。だからそのことに、少しだけ安堵していた。


 歩いている母親を見ると、左足をわずかに引きずっている。

 注意して見なければ気付かないほどの、ほんの小さな違和感。

 怪我でもしているのだろうか。

 ――そう思った瞬間、母親と目が合った。


 そのまま、真っ直ぐに瞳を見つめられる。

 そして、静かに微笑まれた。

 なぜか、心臓がドクンと大きく鳴った。



 階段を上がり、廊下の突き当たりに、その部屋はあった。

 母親が鍵を回し、引き戸を開く。

 案内されたのは、太平洋に面した、バルコニー付きの大広間だった。


 建物は寂れているが、特別室というだけあって、広さは十分にある。

 母親がカーテンを端へ寄せ、窓を開け放つ。


 太平洋から吹き込んだ風が、一気に部屋を駆け抜けた。

 さんざめく海の音。

 風に揺れる木々のざわめき。

 夕暮れの光が、細く部屋へ差し込んでくる。


「ここはね、夫の……」

 母親は一度言葉を止めた。


「……なつの父親と別れてから再婚したんだけど、その夫の実家の旅館なの」

 俯き、着物の裾を払うような仕草をする。

 風に乱れた後れ毛を耳に掛け、それから顔を上げた。


「夫の両親も、夫も、もう亡くなっちゃったんだけどね……」

「じゃあ、ここはお母さんの旅館?」

「……うん。私が相続して、今は私が経営しちょるのよ」

「すごいね。経営者なんだ」

「ふふふ」

 母親は、少し照れたように笑った。


「……怜さんは、なつと一緒の部屋に泊まってくれるんやろか? もし、あれやったら……なつを私の家に連れていきますけど」

 なつが私を見上げて笑った。

「ええっと……」


 返事に困っていると、母親がなつにも尋ねた。

「なつは、どうしたい? お母さんとこで寝る?」

「僕は、この部屋で寝たいな! 特別室だし」

 なつが無邪気に笑う。

「……あらあ。お母さん、フラれちゃった!」

 あははは……。

 三人で声を出して笑った。



 テーブルを囲み、お茶をいただく。

 薄いせんべいと、ういろうがお茶菓子に出された。

 お菓子を食べながら、なつは旅の話を夢中になって話している。

 母親は、それを嬉しそうに聞いていた。

「いるかは残念だったけど、御神牛を撫でられたから、二学期は成績が良くなる気がするんだ」

「へええ。そんげなこつ、あったっちゃねー」


 なつが、母親をじっと見つめる。

「お母さん……」

「……ん。どうしたん?」

 母親は、なつを見つめ返しながら首を傾げた。

 少しだけ、空気が張り詰める。


「なんだか……」

 なつは何かを言いかけて、口をつぐんだ。

 けれど、意を決したように顔を上げる。

「すごく、訛ってる……」


 一瞬の間。

 それから、母親は目を丸くした。

 そして次の瞬間、堪えきれないように、けたけたと笑い出した。

「うそやろ! あはは……」

 口元を手で覆い、少し身を屈めながら笑い続ける。

「えー! 私、訛っちょるん!?」

 楽しそうな声が部屋に響いた。


 それを見ながら、なつも眉根を寄せ、なんとも言えない顔で笑っている。

「これでも、なつに合わせて、標準語のつもりで喋っちょったわ!」


 母親は目の端に浮かんだ涙を指先で拭った。

 そして、ふと私を見る。

 その視線が、真っ直ぐに私の目を捉えた。

 また、胸が小さく跳ねる。


「私も、もうすっかり、宮崎人になっちょったんやね」


 なつによく似た面影。

 なつとよく似た仕草。

 けれど、その中には、なつにはないものがあった。

 母親だけが持つ、大人の女性としての艶だった。



 なつと部屋の風呂を交代で入り、浴衣に着替える。

 その後、内線でロビーに呼び出された。


 ロビーのソファには、小学校低学年くらいの女の子が座り、三毛猫と遊んでいた。


 なつが近寄り、女の子に声を掛ける。


「こんばんは。お名前は?」

 女の子は、なつの顔をじっと見つめた。


「……なほ」

「なほちゃん?」

「うん。菜っぱに星って書いて、なほ」


「……菜星(なほ)」


 なつが、その名前を小さく呟いた。


 その目が、ほんの一瞬だけ揺れた……。



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