第ニ十五話 兄弟(後)
「まぁ珍しかね。写真を撮らんのね?」
車に乗り込むと、運転手が聞いてきた。
「あ! 撮るの忘れてた!」
なつが慌てたように声を上げる。
「あらー! 弟どん、まこて元気じゃね!」
運転手も負けじと大声を上げるものだから、私となつは顔を見合わせ、同時に吹き出した。
「じゃっで、思い出ちゅうもんは……写真より、心にちっと刻まれるもんじゃがね」
運転手が、しんみりと呟いた。
方言を正確に理解できたわけではない。
もしかしたら、違う意味だったのかもしれない。
……だけど、私にはちゃんと聞こえた。
海沿いの下道を、ゆっくりと進んでいく。
行き交う車もまばらで、運転手は海を眺めるなつのために、わざと速度を落としてくれているようだった。
ロケーションのいい場所では、路肩に車を停めた家族連れが、海を背景に写真を撮っている。
(……夏休みも、今日までか)
シートの上でつないだ手を見下ろし、ふと思う。
明日から学校が始まる。
――決着は今日。
「あと一箇所、行ってんよか?」
私たちの返事を待たず、運転手は道を逸れた。
また、どこかへ連れて行かれるらしい。
曲がりくねった峠道を、車はぐんぐん進んでいく。
――旧道か。
深い緑の木々が生い茂り、ガードレールも古びている。
右へ、左へとハンドルが切られるたび、車体が大きく揺れた。
峠道を車で走るという初めての経験に、なつも私も緊張して、思わず「おっ!」とか「こわい!」とか声を上げてしまう。
やがて、木々の切れ間から海が見え始めた。
崖のような高台から見下ろす海は、陽射しを乱反射させ、じっと見ていられないほど眩しい。
なつは背筋を伸ばし、静かに海を眺めていた。
切り立った崖が視界を塞ぐと、海は見えなくなる。
すると、なつはすっと座り直し、そわそわと窓の外を窺う。
再び海が見えるのを、楽しみに待っているようだった。
その姿が、私にはたまらなくかわいかった。
「客も少なかね」
車を停めると、運転手はドアを開けて外に出た。
私となつも、開かれたドアから外へ降りる。
運転手はポケットから煙草を取り出すと、指に挟んだ一本で前方を指し示した。
「いるか岬。昔はここから、イルカが見えちょったんよ」
なつが海へ向かって歩いていく。
私も、その後を追った。
岸壁に並んで立ち、海を見下ろす。
なつはキョロキョロと辺りを見回し、イルカの姿を探している。
私も目を凝らしてみたが、岩に弾ける波しぶきと、遠くに点々と浮かぶブイしか見つけられなかった。
そうして、しばらく二人で海を眺めていた。
そびえ立つ真っ白な入道雲。
その向こうに広がる、どこまでも青い空。
あまりの雄大さに、言葉を失う。
少し丸みを帯びた水平線の上を、船がゆっくりと横切っていく。
海面と空の境目では、陽炎のように景色が揺らめいていた。
眼下へ目を移すと、漁船らしき小さな船が、何艘か通り過ぎていく。
波しぶきを上げ、航跡を残し、やがてそれも波に呑まれて消えていった。
遠くから白い海鳥が渡っていく。
照りつける太陽が、波間に無数の光を散らしていた。
車のそばで煙草をくゆらせていた運転手が、私たちのところへやって来た。
「スマホ貸してくいやん。写真、撮ってあげもんで」
「あっ、いえ……」
私が断ろうとすると、
「お願いします!」
なつが私の手からスマホを奪い、慣れた手つきで画面を操作して、運転手に手渡した。
(……なつ?)
小声で尋ねる。
「思い出。ね。……お兄ちゃん!」
なつは白い歯を覗かせ、とびきりの笑顔を見せた。
「ほらほら、二人ともそこ立ってん! 海を背にしたらよかよ!」
「……こう?」
なつが私の腕を取る。
「もっと寄ってみやん!」
運転手がスマホを構えながら、身振りで近寄るよう促した。
「兄ちゃん、何てれちょっとか! ははは。じゃ、撮っどー!」
――カシャッ。
「いるか……見たかったな」
車に乗り込んだなつが、ぽつりと呟いた。
「そがん簡単には見えんよ。いつでも見えちょったら、もっと観光客も溢れちょるだろ」
「……うん」
しょげた声で返事をするなつに、運転手が声を掛けた。
「……また、来いっちゅうこっじゃがね。……二人で」
なつが、その言葉に弾かれたように顔を上げた。
――また、来い。
なつと、二人で?
車窓いっぱいに海が広がっている。
海の向こうには、桜島がまだ見えていた。鹿児島を離れても、まるでついてくるように。
夕方になるにつれ、海の色も少しずつ変わっていった。
その頂からたなびく煙が、夕焼けに淡く染まっている。
撮ってもらった二人の写真を眺めていたなつも、いつしか船を漕ぐように、こっくり、こっくりと頭を揺らし始める。
私はなつを静かに引き寄せた。
細い肩が、私の腕の中に収まる。
やがて、私の肩に預けられたなつの頭へ、そっと頬を寄せた。
――もう少し、このままでいたい。
車の走行音だけが、長い沈黙を埋めていた。
私は眠るなつの吐息を聞きながら、どうかこの先の人生が、なつにとって、幸せなものでありますようにと、願わずにはいられなかった。
そうして夕暮れどき、ようやく目的地の日南に到着した。
大きいけれど、どこか寂れた海辺の旅館。
手紙に記された差出先の住所。
ここに、なつの母親がいる。
寝ぼけたなつを支えながらタクシーを降りる。
「せっかく二人で来たんだで、よか思い出、作っていきやんね」
運転手が窓を開け、手を振った。
「……ありがとうございました」
私も小さく頭を下げる。
タクシーがゆっくりと走り去っていく。
その姿を見送ってから、なつを見る。
……いい思い出。
私は、その身体を少しだけ強く引き寄せた。
この夏を、いい思い出として、懐かしめるように。
この私に、できるだろうか……。




