第三話 熱病の夏、君との境界線
菜月は濡れた唇を突き出し、不満げに「取って」と二回目の催促を口にした。
私は震える指先をそっと伸ばし、その無垢な頬にほんの一瞬だけ触れる。
弾力と湿気のある皮膚表面に、まるで指先が吸い付いたかのような錯覚を覚えた。
赤ちゃんのようにきめ細かく、滑らかな触り心地。
(私なんかが触れてよかったのだろうか……汚してしまうのではないか)
そんな小さな葛藤が脳裏を過ぎる。
左手の親指と人差し指で、小さな一粒のごはんを慎重に摘み取った。
たった一瞬の出来事なのに、時間が止まってしまったかのように長く感じられる。
辺りは完全に静まり返り、背中にじわりと嫌な汗が流れていった。
菜月はその一連の動作を一瞥すると、不意に口を開き、ぱくりと私の指先を咥え込んだ。
熱い舌が、指先に挟んでいたたった一粒のごはんを滑らかにすくい取る。
(……は!?)
じわりと額から汗が吹き出した。
(……彼は……何を、している?
私は、何をされた……?)
まともに脳が機能していない。
私の指先を咥えたまま、上目遣いでじっと見つめてくる。
――そして、私の指をさらに奥まで咥え込もうと、顔を寄せてきた。
(これじゃまるで、〇ェ〇〇〇じゃないか!)
私は咄嗟に、菜月の口内から指を引き抜いた。
理性と衝動の危うい天秤の上で、ほんのわずかでも理性を保てたのは、ここが屋外の公園だったからに他ならない。
焦げた皮膚のような匂いが、鼻腔を突く。
一面に降り注ぐ蝉時雨。それに呼応するように、心臓が早鐘を打ち始める。
菜月は曇りなき眼で、私の顔をじっと睨めつけるように見つめていた。
「……ぼくの唾が指について、嫌だった?」
ぺろりと小さな舌で唇を舐めながら、無邪気に尋ねてくる。
「……ち、違うよ。ちょっと……びっくりしただけ」
声にならぬ声をどうにか絞り出すと、菜月はふふっと楽しそうに、そしてどこか艶っぽく笑って首を傾げた。
十二歳の男の子に、どうしてこんな表情ができるのだろう。
胸の鼓動が外まで漏れ出てしまいそうだった。
「怜の指の先っぽ……しょっぱい」
「……っ!ごめんね……」
思わず出た謝罪に、一体なぜ自分は謝っているのだろうと、俯いた頭の中で混濁する思考を必死に整理しようとした。
目線の先には、日焼けした細くすらりと伸びる二本の脚が映っている。その皮膚は柔らかく、どこか幼さを残していた。
「怜……」
「……なに?」
「手が、震えてるよ」
指摘されて初めて気がついた。
膝の上に置いた私の指先が、微かに、けれどはっきりと震えている。
菜月の唾液が残る指先が、まるで火傷でもしたかのように熱かった。
「……あ、ううん。ちょっと風が冷たいかなって」
取り繕うように言いながら立ち上がろうとした、その時だった。
強い風が吹き抜け、菜月の着ている少し大きめのTシャツの襟元が、はらりと大きく捲れ上がる。
引き締まった鎖骨のあたりから肩にかけ、日焼けした肌の上に痛々しく残る、白く歪んだ「大きな傷痕」が一瞬だけ剥き出しになった。
(……え?)
火傷の痕か、あるいは何かで叩かれたような古い傷の重なり。
「あっ……」
菜月はハッとしたように、すぐに服の襟を引っ張り上げて傷を隠した。
さっきまでの無邪気で妖艶な表情が吹き飛び、一瞬だけ、怯えたような冷ややかな瞳が私に向けられる。
「……見ちゃ……だめ」
掠れた声で呟く菜月。
私はその場に金縛りにあったように立ち尽くしていた。
この子は、一体どんな傷を抱えて生きているのだろう。
胸の奥が、冷たい刃物で刺されたようにドクンと激しく痛んだ――。




