第二十一話 刹那、君と
『お電話ありがとうございます。189です。どのような状況でしょうか?』
「……」
言葉が詰まって喉から出ない。
『安心してください。匿名でのご相談も受け付けています。お話しいただいた内容を、むやみに外部へお伝えすることはありません。あなたご自身のお困りごとでしょうか?』
小さく息を吸い込んで、話し始める。
「こ……子供が、心配で……電話しました」
『はい。では、状況を、あなたのわかる範囲でお聞かせください。……焦らなくて大丈夫です』
「……父親……に、よる」
生唾を飲み込む。
「虐待……です」
口にした瞬間、その言葉が現実になったような気がした。
『そのお子さんは今、どちらに?』
「……私の。……隣で、眠っています」
『安全は確保されていますか?』
「……はい」
『では現在、そのお子さんはあなたと一緒にいるのですね?』
「……はい」
「無理やり連れてきたわけではありませんか?」
「違います」
少しの間があった。
緊張で手のひらに汗が滲み、スマホを落としそうになる。
『それでは……詳しくお聞きしていきます』
「……はい」
『保護されたお子さんとあなたのご関係は?』
「……知り合い、です」
『お子さんの年齢は?』
「12」
『名前は?』
「……なつ。男の子です」
『……ありがとうございます』
喉がカラカラに乾いていた。
『あなたのお名前、ご年齢、ご職業はお聞かせ願えますか?』
「……」
『……それでは、そのお子さんの情報を教えて下さい』
「虐待です」
『……』
電話の向こうで、静かに耳を傾けている。
私は次の言葉を発するまで、何度も口を開いては閉じ、息を吐き出していた。
「……性的なことも」
すうっと空気を吸い込む。
「……あります」
私はその言葉を、ようやく口にできた。
「……本人から、聞きました」
それから私は、聞かれるままに話した。
父親から虐待を受けていると、本人から聞いたこと。
家を出た経緯。
父親から誘拐の通報を受けていること。
ひとつずつ、言葉にしていく。
電話の向こうの女性は、途中で私の話を遮ることもなく、淡々と聞いていた。
その事務的な声が、今はありがたかった。
自分が何をしているのか、少しだけ整理できる気がした。
そして最後に、女性が尋ねた。
『そこは、どちらですか?』
「……え?」
『今いらっしゃる場所です。職員を向かわせることもできます』
「……」
『警察との連携もできますので、ご希望でしたら――』
そのとき――。
ぷつり、と音がした。
耳元から、声が消える。
「……え?」
スマホを見る。
通話が切れている。
画面は、真っ黒だ。
「なつ……?」
なつの親指が、サイドの電源ボタンを押していた。
隣を見ると、なつが、私を見上げている。
「……怜」
怒っているようで。
今にも泣きそうな顔で。
私は、何も言えなかった。
なつは、私からスマホを奪い取る。
スマホの電源は、落としたままだった。
なぜ――。
そんなことは、聞く必要もなかった。
わかってしまったから。
もし、今ここへ警察が来たら、私は逮捕される。
でも――。
なつは、そんなことを考えたわけじゃない。
ただ、もう少し私と一緒にいたいのだと。
……私も、同じ気持ちだったから分かった。
……だけどもし、
あのまま電話をつないでいれば……
あのとき、なつを引き渡していれば……
なつを守るためにかけた電話が、最後には私自身を救う道にもなっていた。
それを、私は知らなかった。
そして、なつも知らなかった。
ただ、離れたくなかった。
このときの二人は、ただ、それだけだった。




