第十九話 夜明け前
私は、なつの手を引いて、空いてる席へ座らせた。
「先に、トイレに行ったら?」
「大丈夫……」
なつは、潤んだ瞳で小さく微笑むと、そのまま窓の外へ顔を向けた。
夜の街並みが、流れていく。
灯りが雲に反射して、異様な雰囲気を醸し出していた。
「また、雨が降りそうだな」
私が言うと、なつは頷いた。
それから二人は無言で、列車の揺れに身を任せていた。しばらく乗り換えはない。眠るなら今だと思ったけれど、一向に眠気は訪れなかった。
「……少し、眠ったら?」
なつを見ながら聞いた。なつは窓枠に頬杖をついて、空を眺めていた。
ガラスに反射した顔は、虚ろでどこか寂しげだった。
こちらを振り返ることなく、窓ガラスを鏡のようにして、私と視線を合わせたなつは、フッと微笑んでから、ぽつりと言った。
「最後に、見ておきたかったんだ……」
「……何を?」
「あの人」
そしてまた、窓の外に目を移す。
「ちゃんと、恨んだままでいられるように」
「……」
なつは唇を噛んでいた。何かを堪えるように、肩がわずかに震えている。
私は何も言わず、その手を握った。
「……でも、だめだった」
なつが耐えきれず涙を落とした。それから、私の肩に顔を寄せる。
「僕を必死で探してた……」
涙が何度も頬を伝っていた。私のシャツの肩口が、なつの涙を吸収していく。
「僕のこと、本当に心配してた」
なつは俯きながら、小さく嗚咽を漏らした。
「……愛してたのも、嘘じゃなかったんだって、思っちゃった」
私は何も言えなかった。
(……そうかもしれない、だけど)
言えない言葉を、喉の奥に飲み込む。
「可哀想だって……思ったんだ」
なつが、泣きながら笑った。
「おかしいよね……」
「おかしくないよ」
「……おかしいよ」
私は首を振って、もう一度言った。
「なつは、おかしくないよ」
「僕は、あの人を、殺したいくらい……憎んでいたのに……」
しゃくりあげる息で、言葉が途切れ途切れになっている。
「それなのに……可哀想だって、思った」
私は、ただ手を握って、次の言葉を待っていた。
「どうしてかな……」
なつは呟く。
「僕、お父さんを恨みながら……愛してる」
その言葉は、夜の闇に吸い込まれていった。
「……戻りたい?」
聞いてから、少し後悔した。
なつはしばらく黙っていたが、やがて、小さく首を振る。
「……ううん」
そして、私をじっと見上げた。
「僕……怜と行くって決めたから」
その言葉には、迷いがなかった。
透き通った眼差しは、あの日魅入られた瞳、そのままだった。
「……うん」
そしてなつは、少しだけ笑った。
その目には、まだ涙を浮かべていた。
なつが、私の耳元まで口を寄せて聞いてきた。
「怜は……僕のこと、汚いと思う?」
胸の奥に、小さな針を落とされたような痛みが走った。
「どうして、そんなこと聞くの?」
「だって……」
なつは自分の手を見つめた。
「僕、自分から、あの人に近づいたこともある」
私は黙って聞いた。
「僕が笑えば、あの人は嬉しそうだった。僕が甘えれば、もっと優しくなった」
なつは淡々と続ける。
「だから、僕が悪かったのかなって……「違うよ!」
思わず、言葉が出た。
「でも……「違う!」
私は、なつの目を、真っ直ぐに見つめた。
「初めて会った日、なつをすごく綺麗だと思った。俺が触れたら、その綺麗さが壊れてしまうんじゃないかって、思ったんだ」
「……怜。また、俺、って言ったね」
「茶化さないで」
「ふふっ」
「……硝子の少年」
「何それ」
「……昔の歌」
なつが、少しだけ笑った。
「変なの」
「そうかな?」
私も苦笑する。
「ただ、そう思ったんだ」
なつは黙っていた。
「なつは、汚くないよ」
それだけは、ちゃんと、なつに伝えたかった。
なつの目から、また、涙がぽたりと落ちた。
「……僕、あの人を殺したいほど憎んでた」
声が震えている。
「それができないから、自分を傷つけた」
「……」
「自分を傷つければ、少しだけ楽になった」
なつの手を、強く握った。
「今まで、なつが経験した嫌なことは……」
言葉を慎重に選び、ゆっくりと考えながら話す。これ以上、なつを傷付けたくなかった。
「……どれも、なつのせいじゃない」
なつは答えなかった。
ただ、私の肩に頭を預け、声を殺しながら、静かに泣いていた。
列車は暗い夜の中を、走り続ける。
明け方――。
何度目か分からないトンネルを抜けたところで、ようやく、なつは眠った。起きないように、そっとシートを倒し、デッキへ向かう。
スマートフォンの電源を入れた。
施設のばあちゃんの顔が浮かぶ。
声を聞きたかった。
トゥルル……。
呼び出し音が、暗い車内に響く。
数度の呼び出し音のあと、懐かしい声がした。
『もしもし』
「……ばあちゃん」
『怜かい?』
「うん」
『どうしたんだい、こんな時間に』
「……ごめん」
それしか言えなかった。
『何を謝ってるんだい』
「……俺、しばらく帰れない」
『そうかい』
「……ちょっと、遠くに行くことになった」
『そうかい』
ばあちゃんは、それ以上聞かなかった。
それが、かえって苦しかった。
「……怒らないの?」
しばらく沈黙があった。
『怒ってほしいのかい?』
「……分かんない」
『そうかい』
「……ばあちゃん」
『なんだい?』
「もしかしたら……ばあちゃんに、迷惑かけるかもしれない……」
電話の向こうで、小さく息を吐く音がした。
『怜』
「……うん」
『ちゃんと、ご飯は食べてるかい?』
胸の奥が詰まった。
目の前が滲んで、息が何度も込み上げてくる。
「……うん」
『なら、いいよ』
「……ばあちゃん」
『なに?』
「……ごめん」
『謝るのは、帰ってきてからにしな』
私は、目を閉じた。
帰れるのかどうか、分からない。
それでも、その言葉だけが、胸の奥に残った。
電話を切ってからも、しばらく立ち尽くしていた。
私の選択は、間違っていないと思う。
けれど、もっと別のやり方があったはずだとも思っている。
座席に戻ると、なつはまだ眠っていた。
かすかな寝息を立て、今だけは穏やかに過ごしてくれていると信じている。
窓の外は、藍と黒のコントラスト。
遠くの空が、ほんの少しだけ白んでいた。
私は眠っているなつの手に、自分の手を重ねた。
――夜明けは、まだ遠い。
それでも、列車は走り続けていた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
軽い気持ちで年の差BLを書き始めたのですが、少し立ち入ったら、思いのほか深いところまで来てしまいました。
未成年者を扱う以上、描けることにはどうしても限りがあります。
手をつなぐことも、抱きしめることもできない。
誘うことも、際どい言葉を交わすこともできない。
だからこそ、精神的なつながりや、兄弟のようにも見える関係を下敷きにしながら、どうすれば「BL」として二人の関係を描けるのか。
そんなことを考えながら書いています。
もしかすると、物足りないと思われる方もいるかもしれません。
それでも今は、この距離だからこそ描けるものがあると思っています。
そして、年の差ならではのプラトニックな関係だけなら、ここまで悩まなかったと思います。
なつという人物を書いているうちに、虐待や性被害について調べるようになり、いろいろな本を読むようになりました。
知れば知るほど、怒りや絶望を感じます。
どうして、こんなことが起こるのだろう。
どうして、逃げられなかったのだろう。
どうして、傷つけられた側が、その後まで苦しみ続けなければならないのだろう。
性被害に遭った人には、どうか救われてほしい。
そして、加害者には、それ相応の罰を受けてほしい。
そんな気持ちの間で、これからなつをどうしてあげればいいのか、私自身、すごく悩んでいます。
救いたい。
でも、物語の中で簡単に「救いました」と言ってしまっていいのか。
なつの傷を、都合のいい物語の道具にしてしまってはいないか。
そんなことを考えながら、続きを書いています。
……とはいえ。
もう早く終わらせてあげたい!
作者としては、そんな気持ちでいっぱいです。
なつがこの先どうなるのか。
もうしばらく、お付き合いいただけたら嬉しいです。
しばしのお付き合い、お願いいたします。
闇雪




