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刹那の夏、君の体温(ねつ)に溶ける。  作者: 毬藻 闇雪


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第十七話 嘘の行き先(前)



「もしもし、お父さん? なつだよ」

「なつ! どうした? 逃げ出せたのか?」

「……いま、東京駅。怜が東北の実家に連れて行くって」

「最終か?」

「たぶん……」

「……あいつは?」

「ねぇ……迎えに来てくれる?」

「ああ、行くよ。そこで待ってなさい」

「……やっぱり、僕。お父さんと一緒にいたい……」


 そこでなつは、電話を切った。



 最終電車を待つ間、私はATMの前に立ち、口座に残っていた金をすべて引き出した。

職のない私に残された、全財産だった。明細書の残高を見る。


――七百二十円。


 思わず、笑ってしまった。

これで逃げるのか。

 三十八万円と、引き出せない通帳の中の七百二十円。

それが、私たちの逃亡資金だった。


 どこまで行けるのだろう……。

そう考えた途端、足元が急に頼りなくなった。


 現実が重くなる。

それでも、行くしかない。


 新幹線に乗り、特急に乗り換え、そこからローカル線へ。

行けるところまで行く。それしかなかった。


 自動販売機でオレンジジュースを一本買い、ホームへ向かった。

ベンチに、なつがいた。

 身体を小さくして、ぐったりと座っている。


「遅くなって、ごめん」


 ジュースを差し出すと、なつは私の手に指を重ねるようにして受け取った。

「ありがとう、怜」

「変わったことなかった?」

「……大丈夫」


 その声は、少しだけ弱かった。

まだ具合が悪いのかもしれない。

 額に手を当てると、なつは照れたように顔を背けた。


「調子、よくない?」

「……違うよ」

「じゃあ、何?」


 しばらく黙ってから、なつは言った。


「怜を巻き込んじゃったから」


 私は答えられなかった。

ポケットから切符を取り出し、時間を確認する。

 電光掲示板には、列車の到着まであと八分と表示されていた。


八分。


 その数字が、妙に長く感じられた。


――警察は、もう私を探しているだろうか。

落ち着かなかった。


「これ、なに?」


 なつが足元に落ちた紙を拾った。

ATMの明細だった。


「あ……残高。たった……それだけ」

 自分で言うのも嫌になって、私は苦笑した。

「……そう」


 なつは明細をじっと見ていた。

そして、ふっと笑う。


「これ、見て」

なつは、数字を指差した。


「何を?」

指先が、残高の数字をなぞる。


「七百二十円」

「……?」

私は首を傾げた。


「なつと、怜」

なつは目を細めた。

 一瞬、意味が分からなかった。

けれど。


「……ああ」

思わず笑った。


72(なつ)0(れい)


「語呂合わせか」

「うん」

「くだらないな」

「ひどい」


 なつが笑う。

その顔を見ているうちに、私も笑ってしまった。

 こんな状況なのに。

これからどうなるのかも分からないのに。


 二人で、しばらく笑った。

なつは嬉しそうだった。

 それから、その細い指先で、明細を丁寧に折り畳む。


「これ、取っとく」

「何に使うんだよ」

「記念」

「……記念?」


 なつは頷いた。

その言葉が、なぜか胸に引っかかった。


――記念。


 私たちは、これから逃げる。

こんな状況なのに。

これから何が起こるのかも分からないのに。

それなのに、なつはこの瞬間を残そうとしている。


 無言で明細をリュックのポケットにしまう。


 まるで、何年もあとになって思い出すことが決まっているみたいに。


私は何も言わなかった。


それでも、その瞬間だけは、二人とも笑っていた。


 週末の駅は、人で混み合っていた。

私はホームの先へ目を向けた。

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