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刹那の夏、君の体温(ねつ)に溶ける。  作者: 毬藻 闇雪


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第十六話 逃げ道


電話が切れても、しばらく、二人とも無言だった。

私は、耳に残った男の声を振り払うように、スマホを伏せた。


「……警察」

沈黙を破るように、背後から声がした。

弾かれたように振り向くと、不安そうな顔をしたなつと目が合う。


「…来るのかな?」

「通報したんなら…来るだろうね」

「……僕のせいだ…!」

なつが私に体当たりで抱きついてきた。

 

「ごめんなさい…僕、やっぱり帰るよ…」

「……だめだ。さっきの話を聞いて、帰せるわけがないだろ…」


言っては見たものの、混乱して何も考えられないでいた。


通報されたら、どうなるんだ?

…なつは家に戻されるのか?

頭の中でいくつもの考えがぶつかり合い、まとまらない。


どこの児童相談所に電話をすればいいんだ?

何て言う?

子供が父親に虐待されてますと言うのか?

私の個人情報も聞かれるのか?

無職だと、いろいろ不都合かもしれないな…。


警察に通報するのはその後か?

虐待だと分かれば、児相から電話してもらえるのだろうか?

……いや、病院に行くのが先か?


こうしてる間にも、通報され、私のことが洗いざらい割り出されているかもしれない…。


社会人になり、やっとこれから、ばあちゃんに恩返しできると思っていたのに……。

恩返しどころか、こんな迷惑を掛けてしまった。

膝の上に置いた手が、小刻みに震え出していた。


なつの言葉を信じ、大見得を切ったものの、途端に気弱になってしまう。

私の選択は間違いだったかもしれない。

私なんかが口を挟んではいけない問題だったのかもしれない。


なつの言葉は、嘘だったかもしれない……。


自分でも、これから何をすればいいのか分からなくなっていた。


なつはベッドから抜け出すと、床に転がったリュックから封筒を差し出した。

「……怜、これ」

「……何?」

「住所」

「住所?」


なつは封筒を裏返した。

そこには、手書きで住所が書かれている。


「……誰の?」


少しの沈黙の後、ぽつりと言う。

「お母さん」


「……お母さん?」


なつは小さく頷いた。

「ずっと持ってた」

「いつから……?」


「……ずっと前から」


紙の端は擦り切れ、何度も開いた跡があった。

私はそれを見つめた。


家に置いておけば、父親に見つかる。

だから、持ち歩いていた……。

それだけのことなのかもしれない。


でも――。


「……一人で、行くつもりだったのか?」


なつは答えなかった。

代わりに、手紙を丁寧に折り直した。


「いつか」

小さな声だった。

「いつか、逃げなきゃと…思ってた。もう少し大きくなれば、逃げられると思ってたから。」


胸の奥がざわついた。

この子は、ずっと考えていたのだ。


どうすれば逃げられるのか。

どこへ行けばいいのか。

誰を頼ればいいのか。


そして――誰なら、自分を連れて逃げてくれるのか。


「……じゃあ」

私は、なつの顔を見る。

「近づいてきた理由は……」


言葉が止まった。

なつは目を伏せた。


「……最初は、そうだった」

胸を刺されたような気がした。


やっぱり、全部、計算だったのか……そう思った瞬間、「でも!」


なつが顔を上げた。

「途中から、分からなくなった」

「……何が?」


「怜を利用してるのか、怜と一緒にいたいのか」

なつは困ったように笑った。

「僕にも、分からなくなった……」


私は何も言えなかった。


「怜…ごめんね」

その言葉は、ひどく小さかった。


私は、折り畳まれた紙を横目で見る。

なつの母親の住所。


逃げ道。


この子が、ずっと隠し持っていた唯一の希望。


そして今、そのチャンスがようやく巡って来たのか…

私という切り札で――


ふっ…。

思わず声が出てしまう。


(…何て、弱いカードを引くんだよ、お前は。)


賢いくせに。

もっと、ましな大人を選べただろうに。


俯いたまま苦笑する。


「……行くか?」

「え?」

「お母さんのところ」

なつが目を見開く。


「ここに警察が来るなら、もう時間がない」

私はそう言ったものの、すぐには立ち上がれなかった。


本当に、これでいいのか。

なつを連れて逃げる。

それはもう、ただの「助ける」ではない。

私自身も、戻れなくなるということだ。


「……怜」

なつが私を見る。

私は長く息を吐いた。


「……行こう」


それは覚悟というより、腹を括るための言葉だった。



なつはしばらく私を見つめていた。

それから、紙をリュックのポケットにしまった。


「……うん」

その返事だけは、迷いがなかった。

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