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刹那の夏、君の体温(ねつ)に溶ける。  作者: 毬藻 闇雪


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第十五話 剥き出しの執着


「……もりむられい君、だったかな?」


背筋が、凍った。

電話の向こうの男が、私の名前を呼んだ。


その声は、先ほどまでの怒鳴り声よりも、ずっと静かだった。


「……はい」

自分でも驚くほど、声が小さい。


「少し、君に話しておきたいことがある」

「……何ですか」

「その子はね、とても賢い子だよ」

「……」

「人を動かす方法を、よく知っている。


胸の奥がざわついた。


「大人というのはね、単純なんだ。心配させれば手を差し伸べる。頼られれば断れなくなる。

必要とされれば、離れられなくなる」


「……何を言ってるんですか?」

「君もそうだっただろう?」

言葉が詰まった。


「……何を」

「最初に、近付いたのは、なつの方だ」

男は断定した。


「……あんた…」

背中にいるなつの身体が、ぴたりと止まる。


「欲しいものがあると、その子は、ねだるより先に相手を見るんだ」

男が、くすりと笑った。


「その目で」


私は何も言えなかった。


「君も見たんじゃないか?」


脳裏に、なつの顔が浮かんだ。


図書館で目が合った。

その瞬間、綺麗だと思った。

心を見透かされるような、澄んだまなざし。


公園のベンチで、不意に距離を詰められた。

触れられた指先に、胸が高鳴った。


あのときの私は、何を考えていた?


なつの視線。

あの、濡れた茶色の瞳。


私を見上げる、その目。

いつの間にか、私はなつを部屋に呼んでいた。

そして今、同じ布団の中にいる。


熱に浮かされた瞳。

乱れた呼吸。

私を頼るように見つめる、あの目。


――私は。

なつの色香に、魅せられていたのか?


それとも――

この子は、私がそうなることを知っていたのか?

背筋を、冷たいものが這った。


「たかだか十二歳の子供に――」

「……」

「ゾッとしなかったか?……いや…」

男は低く笑った。


「ゾクッとしたんじゃないか?」


背中にいるなつが、小さく息を呑んだ。


「その子の母親も、男を(たぶら)かすのが実に得意な女だったよ」


「……やめろ!なつが聞いてる!」

「瓜二つだ…」

「おい!」

「…淫乱な母親に!」

「やめろ!!」


思わず声が荒くなった。

電話の向こうで、男が笑った。


「……ほら。君はもう、その子を守ろうとしている」


私は言葉を失った。


「それも、その子の思惑通りかもしれないのにね」


心臓を掴まれたような気がした。


――思惑。

その言葉だけが、頭の中に残った。

私は、なつを見ることができなかった。


もし。

もし、この子が最初から――。

私を選んでいたのだとしたら。


私なら助けてくれると。

私なら、見捨てないと。

私がこうして怒ることまで、分かっていたのだとしたら。


「……違う」

背中から、かすかな声がした。

「……なつ?」


「違う……」

なつの腕が、私の身体をさらに強く抱きしめた。

「僕……」

声が震えている。

「僕、怜を……」


電話の向こうから、父親の声が重なる。

「ほら。言えないだろう?」

「……黙れ!」


「君は利用されたんだよ、もりむら君」

「うるさい!」

「その子は、自分が助かるためなら――」

「黙れって言ってんだろーが!!」


怒鳴っていた。

自分でも驚くほどの声だった。


電話の向こうが静かになる。

私は、荒い息を吐いた。


背中には、なつの体温がある。

震えている。


その震えが、本物なのか。

それすら、もう分からなくなっていた。


「……怜」

小さな声だった。


「あのね……」

なつが、私の背中に額を押しつける。

「僕が助けてって言っても……誰も、助けてくれなかった」


私は黙って聞いていた。

「僕の嘘だと、誰も信じてくれなかった。

どうしたらいいか、分からなかった…」


声が、少しずつ細くなる。


「だから……考えたんだ」

「……」

「どうしたら、この人は助けてくれるんだろうって」

胸の奥が、重く沈んだ。


「泣いたら、心配してくれる人がいる。

弱っていたら、そばにいてくれる人がいる。

必要だって言ったら……離れられなくなる人もいる」

なつは、そこで言葉を止めた。


「……怜は」

私の腹の上で組まれたなつの腕に、力がこもる。

「僕が助けてって言ったら、助けてくれる人だと思った…」


私は目を閉じた。


「だから……」

なつの声が、消え入りそうになる。

「……怜に、助けてもらおうと思った…」

胸の奥が、痛んだ。

「怜に助けて欲しかったんだ…」


やっぱり、私は――。

この子に、選ばれた。


自分から、助けたつもりでいた。


でも。

最初から、助けるように導かれていたのかもしれない。


「……ごめん」

なつが言った。

「怜のこと……利用した」


その言葉は、思ったよりずっと静かだった。


「自分が助かることしか、考えてなかった」

私は振り返れなかった。

「本当にごめんなさい…」


怒るべきなのか。

責めるべきなのか。

…分からない。


けれど、背中に触れるその身体は、小さく震えていた。


「……でも」

なつが、かすかに息を吸った。

「怜に会えて、嬉しかったのも……本当だよ」


私は、ゆっくりと目を開いた。

その言葉だけは、真実だと思いたかった。


「……そうか」

それしか言えなかった。

背中からなつの身体が離れる。


私がはっとして振り向くと、今にも泣き出しそうな顔でなつは笑った。


なつは、私と向かい合うように移動してきて、私の手を引き寄せる。

「……怜」

ぎゅっと手を握り締められた。


「…お願い」

なつの潤んだその瞳に、覗き込まれると、呼吸を忘れてしまう。


「僕を……助けて」


思わず息を呑んだ。


私は、やはりなつに魅せられている――

見つめられると、一瞬も目が離せない。


「もう……お父さんのところに、帰りたくない」


その瞬間――

電話の向こうで、男が小さく笑った。


「……うまいもんだな、なつ」

「……」

「大人を、操るのが」

電話の向こうで、男が小さく息を吐いた。


「……そんなに上手に『助けて』と言えるようになるまで、いったい何人の大人を見てきたんだ」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが切れた。


利用されていたのかもしれない。

騙されていたのかもしれない。


それでも、目の前で震えながら助けを求めているこの子を、見捨てることだけはできなかった。


「……分かった」

私は、なつの手を強く握り返した。

なつが小さく首を傾げて笑う。


「……そんな子だよ、なつは。

俺はいつも、その子の手のひらで踊らされてるだけなんだ。

…俺だって、好きでこうなったわけじゃない。

その子がそういう目で俺を見るからだ。

こんな俺を、必要とするからだ」


「……だから?」

「だから……俺だけを責めるのは、少し違うんじゃないかな」

その一言で、胸の奥に再び怒りが湧いた。


「……あんたと一緒にするな!」

私は、初めてはっきりと言った。


「なつが人を動かすことを覚えたのは、そうしなきゃ生きられなかったからだ」

「……」

「それを利用してきたあなたと――」


私は、なつの手を強く握った。

「自分を救うために、誰かに助けを求めたこの子を、一緒にするな」


電話の向こうが、静まり返った。

私は、なつの手を離さなかった。


「……そうか」

電話の向こうで、男が小さく息を吐く。

「交渉決裂だね、もりむら君」


ごくんと喉が鳴った。


「お望みどおり、警察に通報させてもらうよ」

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