第十四話 選択
スマホを操作しながら、菜月の父親に何から話そうか考えていた。
そのとき――
プッ……ガチャ!
(……早い!)
掛けたと同時に繋がっていた。
咄嗟のことに慌て、話す言葉を選ぶ暇もない。
「……はい」
低く唸るような声が、電話口から返ってきた。
「……あっ……どうも、失礼します。私、森村と申します……実は菜月君を……「なつをどうした!」
言葉を食い気味に遮られ、思わず気圧された。
息子の身を案じる父親――確かに、そういう声にも聞こえた。
「……あ、はい。申し訳ありません……菜月くんが熱を……」
「そこは何処だ!今から行く!住所を言え!今すぐに!!」
胸の奥に、引っかかるものがあった。
だが、最初に感じた違和感は、たいてい正しい。
そんな言葉を、ふと思い出していた。
電話口から響く尋常ではない怒鳴り声に、なつは私の背中へ顔を埋め、小さく震えている。
「……菜月君を預かっております。お父さん、その前に少し……」
「おい、お前!菜月を出せ!今すぐに電話を変われ!!」
怒鳴り声が響く。
そのとき、腹に回された腕が、ぎゅっと強くなった。
なつが、私の顔を覗き込むように、小さく尋ねる。
「……怜って、森村なの?」
「……しっ」
私は慌てて、人差し指を唇に当てた。
けれど――
電話の向こうが、妙に静かになった。
聞かれた?
そう思った瞬間、背筋を冷たいものが走った。
(……なつ、電話に出られるか?)
小声で尋ねる。
なつは私の背中に額を押しつけたまま、何度も首を横に振った。
「あの……なつから聞きました。あなたが、なつにしていることを……これは、立派な虐待だと思います……」
言ってしまった。
口にした瞬間、自分の言葉の重さに気づく。
「……おい」
電話口の向こうで、地底から這い出てくるような、ゆっくりとした低い声が落ちた。
「これは誘拐だぞ……今から通報する」
心臓が跳ねた。
誘拐。
その言葉が、頭の中で何度も響いた。
無職の上に誘拐犯。
そんなことになってしまったら、本当に私の人生は終わってしまう。
もし本当に警察に通報されたら。
事情を聞かれて、逮捕されて――。
施設にいる祖母には、誰が説明する?
身寄りもなく一人きりで…。
一瞬、怖くなった。
……待て。
そもそも、私は何をしているんだ。
なつの話を、全部信じていいのか?
ひどく怯えている。
けれど、それだけで父親が虐待していると決めつけていいのか。
自分の子供に、そんなことをする人間が……現実に、いるのか?
ましてや――性虐待など。
そんなことが、本当にあるのか……?
父親だぞ。
一瞬、頭の中で否定した。
私は、なつの話をそのまま信じてしまっている。
なつは熱で朦朧としていた。
何かを取り違えている可能性だってある。
電話の向こうの男は、息子を必死に探している。
本当に、ただ心配しているだけなのかもしれない。
もし私の勘違いだったら。
ここで余計なことをすれば、取り返しがつかなくなる。
そう思った。
菜月の震えが、背中越しに伝わってくる。
私は、その手にそっと自分の手を重ねた。本当のことなんて、まだ何ひとつ分からない。
それでも、この子が今、怯えていることだけは確かだった。
この子が話したことを、誰も信じてくれないのなら、せめて私だけでも、信じてやってもいいんじゃないか。
今、この子の味方になれるのは、私しかいない。
そんな気がした。
もし、間違っていたのなら、そのときは、誠心誠意謝ればいい。
間違いなら――それでいい。
何もなかったのなら、それが一番いい。
菜月が、背中にしがみつく。
この瞬間も、父親の元に帰される恐怖と戦っているのかもしれない。
この子を、今このまま父親のもとへ帰してもいいのか?
ほんの僅かな可能性だ。
けれど。
私は、その手を見た。
細い指が、私の服を掴んでいた。
この震えまで、勘違いなのか。
この子が怯えていることまで、なかったことにしていいのか。
……違う。
たとえ私が何かを誤解していたとしても、この子が今、助けを求めていることだけは確かだった。
誰も信じてくれないのなら――私だけでも。
本当のことなんて、まだ何ひとつ分からない。
それなら。
せめて私は、この子の言葉を信じてやってもいいんじゃないか。
その問いが、頭から離れなかった。
そう思った瞬間、不意に、昔の声が蘇った。
『会社のお荷物』
『給料泥棒』
『お前は何をやってるんだ!』
『分からないなら聞け!』
『……それ、この前教えましたよ?』
『勝手にやるな!』
『その質問、二回目ですよね?』
『いい加減覚えてください』
『自分で考えたらどうですか?』
『…使えねー』
心臓を握りつぶされたように、胸の奥が痛んだ。
忘れたつもりだった声が、次々と蘇ってくる。
心の奥に押し込めていた傷を、無理やり抉り出されるようだった。
息が苦しい。
額に、じっとりと脂汗が滲む。
スマホを持つ手が、わずかに震えた。
「……怜?」
背中から、なつの声がした。
答えられない。
すると、身体に回された細い腕に力がこもる。
菜月が私に寄り添っている。
「……大丈夫?」
その声は震えていた。
それでも、なつは離れなかった。
私は何も言えないまま、目を伏せた。
――どうして。
助けられる側のお前が、抱きしめるてくれるんだ。
そう思ったら、胸の奥が余計に痛くなった。
なつの手が、私の背中をそっと撫でる。
まるで、泣いている子供をあやすように。
「……大丈夫だよ」
その言葉が、あまりにも静かで。
私は、初めて気づいた。
この子も、怖いはずなのに。
それでも今、私を支えようとしている。
自分で考えろ。
そう言われるたびに、失敗を恐れ怖くなった。
間違えれば怒られる。
勝手に判断すれば責められる。
だから、誰かの答えを待つ。
――まただ。
私は今も、誰かに「正解」を教えてもらおうとしている。
父親が本当に悪いのか。
なつが本当のことを言っているのか。
私が何をすべきなのか。
誰かが答えをくれるのを待っている。
でも。
目の前で震えているこの子のことだけは、誰かに決めてもらうわけにはいかなかった。
……今度こそ、ちゃんと自分で考えろ。
間違っているかもしれない。
それでも、私が決めるしかない。
たとえ後で間違いだったと分かったとしても――そのときは、謝ればいい。
この子を見捨てた責任まで、誰かに押しつけることはできない。
このまま、帰してはいけない気がした。
菜月に関わってしまった以上は…。
私は、菜月の腕を握り締めた。
「……そ、それなら。私も……児童相談所と警察に通報します!」
「は!?……余計なことはするな。これは俺とその子の問題だ!」
「いいえ!」
なつを振り返った。
心の中を見透かすような眼差しで、じっと私の目を見つめてきた。
「これは、あなたの問題です」
静かに息を吸う。
「あなたが、なつを壊したんだ!」
電話の向こうで、男が息を呑んだ。
「……だから、私は――「……もりむられい君、だったかな?」
背筋が、凍った。
電話の向こうの男が、私の名前を呼んだ。
その声は、先ほどまでの怒鳴り声よりも、ずっと静かだった。




