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「大切な人。でも恋愛対象じゃない」と言われた僕は、彼女を諦めることにした  作者: 幻影


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第9話 彼女だと思っていた

温泉旅行の話は、いつの間にか消えていた。美月から聞けばいいだけだった。


「いつ行く?」


その一言で済む。けれど聞けなかった。


蓮のほうからも言わなくなった。宿まで調べていたのに。


箱根がいい。露天風呂があるところがいい。


夕食は部屋で食べたい。そんな話をしていたのが、もうずいぶん前のことのように感じた。


付き合って3か月。美月は少しずつ、蓮の機嫌を読むようになっていた。


返信が短い日は、あまりLINEしない。既読だけついたら追いかけない。


バイトの日は電話を求めない。麻衣のことは聞かない。


誰といるのかも、なるべく聞かない。会えないと言われたら、


『分かった』


と返す。そうしていれば、蓮は優しかった。


会えば抱きしめてくれる。キスもする。


「美月、可愛い」


と言う。そのたびに安心した。


嫌われていない。まだ好きでいてくれる。


そう思えた。水曜日。


美月は大学の図書館でレポートを書いていた。午後4時過ぎ。


スマートフォンが震える。蓮だった。


『今日暇?』


美月はすぐ返した。


『暇』


『うち来る?』


『行く』


本当は千紘と買い物へ行く話をしていた。まだ確定ではなかった。


美月は千紘へ、


『ごめん、今日やっぱり無理になった』


と送った。


『彼氏?』


すぐ返ってきた。美月は少し笑う。


『うん』


『はいはい。楽しんできて』


『ごめん』


『いいよ笑』


美月はレポートを保存して、ノートパソコンを閉じた。蓮の部屋へ着いたのは午後6時前だった。


「おつかれ」


蓮がドアを開ける。


「お邪魔します」


「腹減った?」


「ちょっと」


「なんか頼む?」


「何でもいい」


「ピザでいい?」


「太る」


「美月はもう少し太ってもいいだろ」


「それ女の子に言ったら駄目だよ」


「褒めてんだけど」


蓮が笑う。美月も笑った。


こういう時間は好きだった。蓮の部屋。


二人だけ。誰にも邪魔されない。


大学にいるときより近く感じる。ピザを食べて、動画を見た。


途中で蓮が美月の肩を抱いた。美月は自然に寄りかかった。


キスをする。蓮の手が髪に触れる。


美月は目を閉じた。そのとき。


テーブルの上のスマートフォンが震えた。蓮は無視した。


もう一度。また震える。


美月は目を開けた。蓮が少し面倒そうにスマートフォンを見る。


画面を確認した瞬間、表情がわずかに変わった。


「誰?」


美月が聞いた。


「圭介」


蓮はスマートフォンを伏せた。美月は何も言わなかった。


しばらくして蓮がトイレへ行った。スマートフォンを持って。


美月は一人になった。テレビでは知らない芸人が笑っている。


内容はまったく頭に入らなかった。圭介。


本当に?疑った自分が嫌だった。


蓮が戻ってくる。


「どうした?」


「何が?」


「なんか静か」


「普通だよ」


「ほんと?」


「うん」


美月は笑った。その日はそれ以上何も聞かなかった。


午後9時過ぎ。美月は帰ることにした。


玄関で靴を履く。


「駅まで送ろうか?」


「大丈夫」


「ほんと?」


「うん」


蓮が美月の腕を引いた。キスをする。


「また連絡する」


「うん」


「気をつけて」


「ありがとう」


ドアが閉まった。美月は廊下を歩いた。


エレベーターを待つ。扉が開く。


乗る。1階のボタンを押す。


その瞬間。胸の中にあったものが急に重くなった。


蓮は優しかった。何も悪いことはなかった。


なのに、どうしてこんなに不安なのだろう。マンションを出る。


駅まで歩く。拓海に電話したかった。


強く思った。スマートフォンを出す。


拓海の名前を開く。通話ボタンの上で指が止まった。


やめた。


「自分で考えないと」


小さく呟いた。拓海に聞けば、


「気になるなら本人に聞け」


と言うだろう。それも分かっている。


だったら聞けばいい。美月は蓮へメッセージを送った。


『さっき連絡してきたの、本当に圭介くん?』


送った瞬間、心臓が速くなった。既読。


すぐだった。でも返事がない。


1分。3分。


『そうだけど』


美月は画面を見る。


『なんで?』


『別に』


それだけ返した。少しして蓮から来た。


『また疑ってんの?』


美月は立ち止まった。


『疑いたくないから聞いただけ』


送る。既読。


『そういうの疲れる』


胸が痛んだ。美月はしばらく画面を見ていた。


『ごめん』


また謝った。蓮から返事は来なかった。


その夜。美月は眠れなかった。


午前1時。午前2時。


スマートフォンを見ても何も来ない。自分が悪かったのだろうか。


信用できていない自分が悪い。彼女なら信じるべきなのかもしれない。


何も証拠はない。麻衣とLINEしている。


一緒に食事をしている。それだけ。


友達なら普通のことだ。自分にだって拓海がいる。


そこまで考えて、美月は止まった。違う。


拓海は自分を好きだ。だから蓮は嫌がった。


では、麻衣は?――知らないよ。


蓮はそう言った。美月は布団を頭までかぶった。


眠れなかった。翌朝。


蓮から、


『おはよ』


と来た。美月は驚いた。


昨日のことなどなかったようなメッセージ。


『おはよう』


返す。


『昨日ごめんな』


美月の胸が少し軽くなった。


『私もごめん』


『今日大学で会お』


『うん』


それだけで、また安心した。好きだから。


好きな人に優しくされると、それまでの不安が小さくなる。美月はそういうものなのだと思っていた。


昼休み。美月は蓮と大学の食堂にいた。


蓮はいつも通りだった。


「今日何限まで?」


「4限」


「俺3限」


「帰るの?」


「たぶん」


「そっか」


美月は少し残念だった。


「美月」


「ん?」


「昨日のことだけど」


美月は顔を上げた。


「俺、ほんと疑われるの嫌なんだよね」


「うん」


「前の彼女もそうだったから」


初めて聞いた。


「前の彼女?」


「何してる、誰といる、どこにいるって」


蓮は少し嫌そうな顔をした。


「それで別れたの?」


「まあ、それもある」


美月は不安になった。


「私もそう?」


「今のままだとちょっと」


胸が沈んだ。


「気をつける」


反射的に言った。蓮が笑った。


「そんな深刻になんなよ」


「うん」


「俺、美月のこと好きだし」


その一言で救われる。


「私も」


美月が言う。蓮は美月の頭を軽く撫でた。


その光景を、少し離れたテーブルから千紘が見ていた。午後。


講義が終わったあと、千紘が美月を呼び止めた。


「ちょっといい?」


「何?」


「佐伯くんとなんかあった?」


美月は驚いた。


「なんで?」


「なんとなく」


「何もないよ」


「ほんと?」


「うん」


千紘は少し黙った。


「美月」


「何?」


「最近さ、謝ってばっかじゃない?」


「え?」


「佐伯くんの話するとき」


美月は意味が分からなかった。


「そんなことないよ」


「この前も、自分が気にしすぎたって言ってたじゃん」


「実際そうだから」


「今日もなんか謝ってなかった?」


「見てたの?」


「たまたま」


美月は少し嫌な気分になった。


「普通だよ」


「ならいいけど」


「千紘まで何?」


声が少し強くなった。千紘が黙る。


美月はすぐ後悔した。


「ごめん」


「ほら」


千紘が言った。


「何?」


「今も謝った」


美月は黙った。千紘は笑わなかった。


「別に別れろとか言わないよ」


「うん」


「美月が好きなら付き合えばいい」


「うん」


「でもさ」


千紘は少し言葉を選んだ。


「付き合う前の美月って、こんなに人の顔色見る子だったっけ」


美月は何も言えなかった。その日の夜。


美月は久しぶりに拓海から電話を受けた。美月からではない。


拓海からだった。


「もしもし」


『今大丈夫?』


「うん。珍しいね」


『何が』


「拓海さんから電話」


『そう?』


「最近全然してこないじゃん」


『彼氏いる女に夜電話するのもな』


美月の胸が少し痛んだ。


「今日はいいの?」


『用事あるから』


「何?」


『来月の奈緒の誕生日、みんなで飯行くけど来る?』


美月は少し笑った。


「それ電話するほどの用事?」


『LINEでよかったな』


「絶対ほかに何かあるでしょ」


『ないよ』


「嘘」


拓海が笑った。その笑い声を聞いた瞬間、美月の力が抜けた。


「拓海さん」


『ん?』


言おうか迷った。蓮のこと。


昨日のこと。自分が疑ったこと。


「疲れる」と言われたこと。


今日、千紘に言われたこと。全部。


「……何でもない」


『またそれ?』


美月は少し驚いた。


「何が?」


『最近、何でもない多いな』


拓海は軽く言った。美月は黙った。


『何かあった?』


「ないよ」


『ならいいけど』


以前なら、そこで終わらなかった。美月が話すまで待ってくれた。


今日は違った。


『じゃあ奈緒の誕生日、参加でいい?』


「うん」


『了解』


「拓海さん」


『何?』


「もう切る?」


『用事終わったし』


「……そっか」


拓海が少し黙った。


『話したいなら話すけど』


美月の胸が動いた。でも。


「大丈夫」


そう答えた。


『分かった。じゃあおやすみ』


「おやすみ」


電話が切れた。通話時間。


4分12秒。美月は画面を見た。


以前なら1時間。長いときは2時間。


それが今日は4分。自分で「大丈夫」と言ったのだから当然だった。


それでも寂しかった。拓海は変わった。


そう思った。でも本当は違う。


拓海は、美月が求めた距離に戻ろうとしているだけだった。翌週。


奈緒の誕生日会の日。いつもの居酒屋に8人ほど集まった。


奈緒が席へ着くと、亮介が小さな紙袋を渡した。


「はい」


「何これ」


「誕生日」


「気持ち悪」


「返せ」


「嘘。ありがとう」


みんなが笑った。拓海は少し遅れて来た。


「悪い、仕事長引いた」


「主役待たせる?」


奈緒が言う。


「お前が主役なの?」


「今日くらい主役にして」


「はいはい」


拓海が笑う。美月はそのやり取りを見ていた。


以前駅で見た二人。今日も自然だった。


「美月ちゃん」


亮介が隣へ来た。


「久しぶり」


「この前会ったじゃないですか」


「1か月くらい前だろ」


「それを久しぶりって言うんですか」


「俺の中では」


亮介が笑う。少しして、亮介が小声で聞いた。


「彼氏とうまくいってる?」


美月は一瞬止まった。


「うまくいってますよ」


「即答だな」


「なんですか」


「いや」


亮介がビールを飲む。


「なんか前より元気ないから」


美月は笑った。


「みんなそれ言う」


「みんな?」


「友達にも言われた」


「じゃあ本当に元気ないんじゃない?」


「普通です」


「ならいいけど」


美月は少し離れたところにいる拓海を見る。奈緒と話していた。


以前なら拓海の隣に座っていた。今日は席が離れている。


自分から移動すればいい。それだけなのに、なぜかできなかった。


しばらくして奈緒が席を立った。


「ちょっとトイレ」


拓海の隣が空く。美月は迷ったあと、立った。


「拓海さん」


「ん?」


「隣いい?」


「いいよ」


座る。それだけで少し安心した。


「仕事忙しい?」


「まあまあ」


「最近何してるの?」


「仕事」


「休みの日」


「寝たり、飯行ったり」


「誰と?」


拓海が美月を見る。


「何、その質問」


「別に」


「奈緒とか亮介とか」


「ふうん」


美月はグラスを見る。


「拓海さん」


「ん?」


「私、変わった?」


「何が?」


「最近、元気ないって言われる」


拓海は美月の顔を見た。


「ちょっと痩せた?」


「え?」


「飯食ってる?」


「食べてるよ」


「ならいいけど」


「それだけ?」


「何が」


「もっと何かないの?」


拓海は困った顔をした。


「美月」


「うん」


「俺に何言ってほしいの?」


美月は答えられなかった。自分でも分からなかった。


大丈夫?何かあった?


話聞くよ。たぶん、それを待っていた。


以前の拓海なら、言われなくても気づいてくれた。


「……何でもない」


美月が言う。拓海は少しだけ美月を見た。


「そっか」


それ以上聞かなかった。胸が痛んだ。


そのとき奈緒が戻ってきた。


「あ、美月ちゃんそこ座ったんだ」


「すみません」


「いいよ。私こっち行く」


奈緒は別の席へ座った。美月は拓海の隣に残った。


しばらく誰かの話を聞いていた。拓海は普通だった。


笑う。料理を取り分ける。


誰かのグラスが空けば注文を聞く。美月だけに優しいわけではない。


ずっとそうだった。分かっていたはずなのに。


美月はふと思った。もし拓海に彼女ができたら。


この席にその人が座るのだろうか。拓海がその女性の飲み物を気にする。


帰りの時間を気にする。夜中に電話が来れば、その女性の話を聞く。


想像した瞬間。胸の奥が少しだけ嫌な感じになった。


美月は自分で驚いた。違う。


恋愛ではない。拓海は大事な友達だから。


それだけ。


「美月?」


拓海が声をかけた。


「何?」


「ぼーっとしてる」


「ちょっと眠いだけ」


「飲んでないだろ」


「眠いものは眠いの」


拓海が笑った。その笑顔を見て、美月も笑った。


やっぱり落ち着く。商胸は高鳴らない。


蓮とは違う。それを確認して、美月は少し安心した。


自分が好きなのは蓮だ。その夜。


誕生日会が終わったあと、美月は一人で駅へ向かった。拓海は奈緒たちと反対方向。


以前なら、


「駅まで送る」


と言ってくれた。今日は、


「気をつけて帰れよ」


だった。たったそれだけ。


美月は駅の階段を下りた。スマートフォンが震える。


蓮。


『今から会える?』


美月の顔が明るくなった。


『会える』


すぐ返した。


『うち来る?』


美月は少し迷った。


『行く』


送信。そのまま蓮の最寄り駅へ向かった。


夜11時を過ぎていた。蓮の部屋へ着く。


ドアが開く。


「美月」


蓮が笑った。


「遅くにごめん」


「俺が呼んだんじゃん」


部屋へ入る。蓮が抱きしめる。


美月はその胸に顔を埋めた。やっぱり好きだと思った。


拓海では感じないものがある。自分はちゃんと蓮が好きだ。


そう思った。だから。


テーブルの端に置かれていた、小さな銀色のピアスに気づいたとき。美月は最初、自分のものだと思った。


手に取る。違った。


自分はピアスを開けていない。


「蓮くん」


蓮が振り返る。


「何?」


美月は手のひらを開いた。


「これ、誰の?」


蓮の顔から、ほんの一瞬だけ笑顔が消えた。

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