第10話 信じたいほうを信じる
蓮は美月の手のひらを見た。銀色の小さなピアス。
ほんの数秒だった。けれど美月には、その沈黙が長く感じられた。
「これ?」
蓮が手を伸ばす。
「うん」
美月は渡さなかった。
「誰の?」
「知らない」
「知らないって?」
「前に誰か来たとき落としたんじゃない?」
「誰かって誰?」
蓮は少し考えた。
「友達」
「女の人?」
「男がピアスしててもおかしくないだろ」
美月はもう一度手のひらを見る。小さい。
銀色。形だけで女性用とは断定できない。
「でも」
「美月」
蓮が笑った。
「また始まった?」
胸が痛んだ。
「またって言わないで」
「だってそうじゃん」
「ピアスあったら気になるでしょ」
「だから知らないって」
「誰か来たの?」
「友達は来るよ」
「女の人も?」
蓮の顔から少しずつ笑顔が消えていった。
「美月さ」
「何?」
「俺の部屋に誰呼ぶかまで管理するの?」
「管理してない」
「じゃあ何?」
「彼女だから聞いてるだけ」
蓮が息を吐いた。その反応が嫌だった。
「麻衣さん?」
美月は聞いた。蓮の眉が動く。
「なんで麻衣になるの」
「最近よく一緒にいるから」
「だからバイト一緒なんだって」
「じゃあ違うの?」
「違うよ」
すぐに答えた。美月は蓮を見る。
「ほんと?」
「ほんと」
「じゃあ誰?」
「だから知らないって」
話が戻った。美月は混乱した。
蓮は嘘をついているのだろうか。それとも本当に覚えていないだけなのか。
友人が何人も来る部屋なら、誰かが落とした可能性はある。
「美月」
蓮の声が少し柔らかくなった。
「こっち来て」
美月は動かなかった。
「怒ってる?」
「怒ってるっていうか」
「不安?」
美月は小さく頷いた。蓮が近づいてきた。
美月の手からピアスを取る。テーブルへ置いた。
それから美月を抱き寄せた。
「何もないって」
美月は蓮の胸に額をつけた。
「ほんとに?」
「うん」
「私以外の人と付き合ってない?」
蓮が少し笑った。
「付き合ってないよ」
その答えを聞いて、美月は安心した。
「じゃあ信じる」
自分から言った。
「信じろよ」
蓮が美月の髪を撫でる。
「俺、美月のこと好きだから」
「うん」
「せっかく会えたのに喧嘩したくない」
「私も」
蓮が美月の顔を上げた。キスをした。
そのあとは、ピアスの話をしなかった。美月もしたくなかった。
せっかく蓮が好きだと言ってくれた。せっかく会えた。
これ以上聞いて嫌われるほうが怖かった。帰るころには午前1時を過ぎていた。
「送ろうか?」
「大丈夫」
「タクシー呼ぶ?」
「うん」
蓮がアプリで呼んでくれた。マンションの前。
タクシーを待つ。蓮が美月の肩を抱いていた。
「着いたら連絡して」
「うん」
「寝るなよ」
「寝ないよ」
「美月すぐ寝そう」
「失礼」
二人で笑った。タクシーが来る。
美月が乗る。窓を少し開けた。
「おやすみ」
「おやすみ」
蓮が手を振る。車が動き出した。
美月は後ろを見る。蓮が小さくなっていく。
やがて見えなくなった。安心したはずだった。
それなのに。ピアスが頭から離れなかった。
自宅へ着いたのは午前2時前。
『着いたよ』
蓮へ送る。
『よかった』
『おやすみ』
『おやすみ。好き』
美月は画面を見た。
『私も好き』
送った。それからベッドへ入った。
眠れなかった。
「信じるって言ったじゃん」
自分に言う。蓮は否定した。
麻衣ではないと言った。自分以外とは付き合っていないと言った。
だったら、それでいい。でも。
――自分以外とは付き合っていない。美月はその言葉を思い返した。
付き合ってはいない。では、何もしていないのか。
そこまで聞いていない。
「……やめよう」
美月は目を閉じた。考えすぎだ。
蓮がかわいそうだ。そう思おうとした。
翌朝。千紘から電話が来た。
『美月、起きてる?』
「今起きた」
『今日1限ないよね?』
「ない」
『よかった』
「何?」
千紘が少し黙った。
『今日大学来る?』
「行くよ」
『じゃあ話したいことある』
美月は眉を寄せた。
「今じゃ駄目?」
『電話で言うのもなって』
「何それ。怖い」
『別に怖い話じゃない』
「じゃあ今言って」
また沈黙。美月は嫌な予感がした。
「蓮くんのこと?」
電話の向こうが静かになった。
「千紘」
『……うん』
美月は起き上がった。
「何?」
『昨日、私の友達から連絡来たの』
「何の?」
『佐伯くんのこと知ってる子』
心臓が速くなった。
「何て?」
『美月』
「いいから言って」
千紘が息を吐いた。
『佐伯くん、麻衣って子と付き合ってるのって聞かれた』
美月は何も言えなかった。
『私、美月と付き合ってると思ってたから、違うよって言ったんだけど』
「……うん」
『その子が、最近二人よく一緒にいるって』
「バイト一緒だから」
美月はすぐ言った。
『うん。私もそう言った』
「それだけ?」
『それだけ』
美月は少し安心した。
「じゃあ何もないじゃん」
『美月』
「何?」
『怒らないで聞いて』
「怒らないよ」
『この前、二人で歩いてるところ見たって』
「私も見たよ」
『夜』
「バイト終わりじゃない?」
『手、つないでたって』
美月の呼吸が止まった。
「……誰が?」
『佐伯くんと麻衣って子』
「見間違いじゃない?」
『分かんない』
「暗かったんでしょ」
『そこまでは聞いてない』
「じゃあ分かんないじゃん」
『うん』
千紘は否定しなかった。
『だから私も、何とも言えない』
「そうだよ」
美月の声が少し大きくなった。
「蓮くん、そんなことしないよ」
『うん』
「麻衣さんはただのバイト仲間だって」
『うん』
「昨日も聞いた」
千紘が黙った。
「何?」
『昨日、何かあった?』
美月は答えなかった。
『美月?』
「……ピアスがあった」
『え?』
「蓮くんの部屋に」
千紘が黙った。美月は急いで続けた。
「でも誰のか分かんないって」
『うん』
「友達も来るし」
『うん』
「麻衣さんじゃないって言ってた」
『うん』
「だから違うと思う」
千紘はしばらく何も言わなかった。
「何?」
『私、何も言わない』
「なんで」
『何言っても今の美月、聞かないと思うから』
胸に刺さった。
「そんなことないよ」
『じゃあさ』
千紘の声は静かだった。
『逆だったらどう思う?』
「何が?」
『美月が男の人と頻繁にLINEして、二人でご飯行って、その人のピアスが美月の部屋に落ちてて、誰かが手つないでるの見たって言って』
美月は黙った。
『それを佐伯くんが相談してきたら、美月なんて言う?』
答えられなかった。
「でも」
やっと出た言葉だった。
「蓮くんは違うって言ってるから」
『うん』
「彼女は私だって」
『うん』
「好きって言ってくれる」
『分かった』
千紘はそれ以上言わなかった。
『大学でね』
「うん」
電話が切れた。美月はベッドに座ったまま動けなかった。
しばらくして、蓮へメッセージを送った。
『今日大学来る?』
既読にならない。10分。
20分。美月は起きて支度を始めた。
化粧をする。髪を整える。
服を選ぶ。いつもより時間がかかった。
鏡を見る。大丈夫。
蓮に聞けばいい。直接。
大学へ着いたのは昼前だった。千紘から、
『学食いる』
と来ていた。美月は、
『あとで行く』
と返した。先に蓮を探した。
いつもいる講義棟。いない。
食堂。いない。
スマートフォンを見る。まだ既読になっていない。
美月は同じ学部の知り合いを見つけた。
「佐伯くん見なかった?」
「ああ、さっきいたよ」
「どこ?」
「外出たんじゃない?」
「誰かと?」
相手が少し考える。
「女の子いたかな」
胸が鳴った。
「誰?」
「知らない」
「髪長い?」
「そこまで見てないよ」
「そっか。ありがとう」
美月は大学の外へ向かった。自分でも何をしているのか分からなかった。
探してどうする。見つけてどうする。
でも足が止まらなかった。大学から駅へ向かう道。
コンビニ。カフェ。
どこにもいない。美月は駅前まで来た。
そこでスマートフォンが震えた。蓮。
『今日大学行かない』
美月は立ち止まった。今、大学にいたと聞いた。
『さっき大学にいたって聞いたけど』
送る。既読。
返事がない。
『蓮くん?』
既読。5分。
10分。電話をかけた。
出ない。もう一度。
出ない。美月の手が震えた。
『電話出て』
送る。返事はなかった。
美月は駅前のベンチに座った。人が通る。
学生。会社員。
親子。自分だけがそこから動けなくなった。
30分ほどして、メッセージが来た。
『今友達といるから無理』
美月はすぐ打った。
『麻衣さん?』
既読。返事なし。
『麻衣さんといるの?』
既読。返事なし。
『昨日ピアスあったよね』
既読。
『手つないでたって聞いた』
既読。
『ちゃんと話して』
しばらくして返事が来た。
『今やめて』
美月は画面を見つめた。
『何をやめるの?』
『こういうの』
『私は彼女でしょ?』
そのメッセージだけ、既読になるまで少し時間がかかった。既読。
返事が来ない。美月の胸が苦しくなった。
『蓮くん』
返事なし。
『私、彼女だよね?』
送った。既読。
1分。3分。
5分。返事が来た。
『その話あとでしよ』
美月は画面を見たまま動かなかった。否定してほしかった。
『当たり前だろ』
それだけでよかった。なのに。
――その話あとでしよ。何度読んでも意味が変わらなかった。
美月は立ち上がった。どこへ行けばいいのか分からなかった。
大学へ戻る気にはなれない。家にも帰りたくない。
千紘に会えば、顔を見ただけで泣くと思った。スマートフォンを握った。
拓海。名前が浮かんだ。
駄目だ。また逃げることになる。
蓮のことで傷ついて、拓海に慰めてもらう。それをやめようと決めた。
美月は歩き始めた。でも涙が出た。
慌てて下を向く。人に見られたくない。
駅のトイレへ入った。個室の鍵を閉める。
便座に座る。涙が止まらなかった。
「何で……」
声が漏れた。まだ何も決まっていない。
浮気だと分かったわけではない。蓮は何も認めていない。
だから泣くのは早い。そう思うのに止まらなかった。
スマートフォンが震えた。一瞬、蓮だと思った。
違った。拓海。
『奈緒の誕生日の写真、送るの忘れてた』
何でもないメッセージだった。続けて写真が数枚届いた。
奈緒がケーキを持っている写真。亮介が変な顔をしている写真。
みんなで撮った写真。最後に、美月と拓海が隣に座っている写真。
二人とも笑っていた。美月はその写真を見た。
涙がさらに出た。
『拓海さん』
打った。送る。
すぐ既読になった。
『ん?』
美月は文字を打とうとした。打てなかった。
電話がかかってきた。拓海だった。
美月は画面を見た。出てはいけない気がした。
でも。通話ボタンを押した。
「……もしもし」
一言だけ。電話の向こうが静かになった。
『美月?』
「うん」
『どこにいる?』
美月は答えなかった。
『泣いてる?』
その言葉で、我慢できなくなった。
「拓海さん」
『うん』
「私」
声が震えた。
「私、彼女じゃないのかな」
拓海は何も言わなかった。美月は泣きながら続けた。
「私、ずっと彼女だと思ってた」
『……うん』
「でも、違うのかな」
拓海は事情を聞かなかった。最初に聞いたのは、それではなかった。
『今どこ?』
「駅」
『どこの?』
美月が駅名を言う。
『一人?』
「うん」
『そこにいて』
美月は顔を上げた。
「え?」
『今行く』
「仕事は?」
『抜ける』
「駄目だよ」
『大丈夫』
「大丈夫じゃないでしょ」
『美月』
拓海の声は静かだった。
『今、一人で帰れる?』
美月は答えようとした。大丈夫。
そう言えばいい。いつものように。
でも言えなかった。
「……分かんない」
『じゃあ待ってて』
「拓海さん」
『何?』
美月は泣きながら言った。
「ごめん」
拓海は少し黙った。
『何が?』
「またこういうときだけ」
拓海はすぐ意味を理解した。電話の向こうで小さく息を吐いた。
『それは今いいから』
「でも」
『今はいい』
声は優しかった。ただ、以前とは少し違った。
『落ち着いてから、その話はしよう』
美月は黙った。
「……うん」
『改札の近くにいられる?』
「うん」
『40分くらいかかる』
「分かった」
電話が切れた。美月は個室の中で、しばらくスマートフォンを握っていた。
拓海は来てくれる。その事実だけで、少し息ができた。
でも。――落ち着いてから、その話はしよう。
以前の拓海なら言わなかった言葉だった。何も求めず。
何も責めず。ただ全部受け止めてくれる。
美月はずっと、そう思っていた。けれど拓海は、何をしても離れない人ではない。
それを少しずつ、美月は知り始めていた。40分後。
駅の改札前。拓海が走ってきた。
スーツ姿だった。ネクタイが少し曲がっている。
美月を見つける。拓海は何も言わず近づいた。
美月は立ち上がった。顔を見た瞬間。
また涙が出た。
「拓海さん」
拓海は美月の前で止まった。以前なら頭を撫でたかもしれない。
今日はしなかった。ただ。
「飯、食った?」
そう聞いた。美月は首を振った。
「じゃあなんか食おう」
「食べられない」
「じゃあ飲み物だけでもいい」
拓海は歩き始めた。美月も隣を歩いた。
手はつながない。肩も抱かない。
それでも。一人で駅のトイレにいたときより、ずっと息がしやすかった。
美月はその横顔を見た。この人が来てくれたことに安心している自分がいた。
そして同時に。そんな自分を、少しだけ怖いと思った。




