第8話 連絡しない理由
拓海から連絡が来たのは、3日後だった。
『この前のBBQの写真、奈緒がまとめてる。いる?』
美月は講義中だった。通知だけ見て、すぐにスマートフォンを伏せた。
以前なら、その場で返していた。
『いる!』
それだけで済む。でも今は違う。
――もう二人では会わないで。蓮に言われたのは、会うことと電話のことだった。
LINEまで禁止されたわけではない。それでも美月は少し考えた。
数分後。
『いる』
とだけ返した。拓海から、
『了解』
と来た。画面を見つめた。
何もおかしくない。必要なやり取りだけ。
むしろ、これくらいが普通なのかもしれない。そう思った。
その日の夜、拓海から写真が送られてきた。20枚ほど。
肉を焼いている拓海。亮介がふざけている写真。
奈緒と美月が野菜を切っている写真。全員で撮った集合写真。
最後に、美月が一人で笑っている写真があった。誰が撮ったのだろう。
美月自身も気づいていない。
『最後の誰が撮ったの?』
打つ。送る前に止まった。
別に聞くほどのことでもない。文章を消す。
写真を保存して、画面を閉じた。拓海もまた、返事が来ないことを気にしていた。
写真を送ってから30分。既読はついている。
以前なら、
『これひどい』
『奈緒さん写真撮るの下手笑』
『拓海さん顔死んでる』
何かしら返ってきた。今日は何もない。
拓海は自宅のソファでスマートフォンを置いた。
「彼氏いるんだからな」
自分に言う。休んで。
少しずつこうなるのが普通なのだ。翌週。
美月と蓮は大学近くのカフェにいた。蓮は機嫌がよかった。
「今度泊まり行こうよ」
「どこに?」
「温泉とか」
美月が驚く。
「急じゃない?」
「そう?」
「付き合ってまだそんな経ってないよ」
「もう2か月じゃん」
「まだ2か月」
「美月、そういうの真面目だよな」
「悪い?」
「悪くない」
蓮が笑った。
「そういうとこも好き」
美月も笑った。
「いつ行く?」
「本当に行くの?」
「行きたい」
「考えとく」
「絶対行こう」
蓮が楽しそうに宿を検索し始める。美月も画面を覗いた。
そのとき蓮のスマートフォンに通知が出た。麻衣。
一瞬だけだった。蓮がすぐ通知を消した。
美月は何も言わなかった。少しして、蓮がトイレへ立った。
スマートフォンは持っていった。それも気になった。
以前はテーブルに置いたままだった。考えすぎ。
そう思った。蓮が戻ってくる。
「どうした?」
「何が?」
「なんか顔暗い」
「別に」
「ほんと?」
「うん」
美月は笑った。
「温泉どこがいいかなって考えてた」
「じゃあ箱根?」
「遠くない?」
「それが旅行だろ」
蓮が笑う。美月も笑った。
そのまま麻衣のことは聞かなかった。聞けば、また言われるかもしれない。
――そういうの結構気にするタイプ?重いと思われたくなかった。
面倒だと思われたくなかった。蓮に嫌われたくなかった。
一方で、拓海には何を言っても嫌われないと思っていた。その違いに、美月はまだ深く考えなかった。
金曜日。美月は友人3人と大学近くの居酒屋にいた。
千紘のほかに、同じゼミの女子が二人。恋愛の話になった。
「美月、最近彼氏どうなの?」
「普通」
「写真見せて」
「嫌だよ」
「なんで」
「恥ずかしい」
「絶対イケメンでしょ」
美月が少し笑う。
「まあ」
「否定しないんだ」
みんなが笑った。千紘だけは美月を見ていた。
「旅行行くんだっけ?」
「まだ決まってない」
「佐伯くんと?」
「うん」
「いいじゃん」
別の友人が言う。
「泊まり?」
「たぶん」
「いいなあ」
話が盛り上がる。美月も笑っていた。
楽しかった。ただ途中でスマートフォンを見る。
蓮からは何も来ていない。今日はバイトだと言っていた。
それだけ。午後10時過ぎ。
店を出た。
「二次会行く?」
友人が聞いた。美月は迷った。
「私は帰ろうかな」
「彼氏?」
「違うよ」
「絶対彼氏じゃん」
「ほんとに違う」
笑いながら別れた。駅へ向かう。
一人になると、急に静かになった。スマートフォンを見る。
蓮から連絡はない。美月から、
『飲み会終わった』
と送った。10分。
既読にならない。駅に着いた。
電車まで少し時間がある。ホームのベンチへ座る。
なんとなくメッセージ一覧を開いた。拓海の名前がある。
最後のやり取りはBBQの写真。それから1週間近く話していない。
美月は少し驚いた。こんなに連絡を取らなかったのは、知り合ってから初めてかもしれない。
『何してる?』
打った。送信しようとして、蓮との約束を思い出した。
電話ではない。会うわけでもない。
でも、何の用事もない。ただ話したいだけ。
美月は文章を消した。そのとき、ホームの反対側から笑い声が聞こえた。
何気なく顔を上げる。見覚えのある人がいた。
拓海だった。奈緒と一緒だった。
二人で並んでいる。奈緒が何か言う。
拓海が笑う。奈緒も笑う。
ただそれだけ。何度も見た光景だった。
BBQでも。飲み会でも。
二人は昔からの友人なのだから当然だ。美月はなぜか立ち上がった。
声をかけようとして止まる。ホームが違う。
それに、もうすぐ電車が来る。奈緒が拓海の肩を軽く叩いた。
拓海が何か言い返す。奈緒が笑う。
二人の間に、美月が知らない長い時間があることが分かった。少しだけ胸がざわついた。
理由は分からない。電車が入ってきた。
拓海たちの姿が隠れる。美月は自分の電車に乗った。
座席へ座る。スマートフォンを開く。
拓海へ、
『今、駅にいた?』
と打った。また止まった。
何を確認したいのだろう。奈緒と一緒だったこと?
それを聞いてどうする。美月は消した。
少しして蓮から返事が来た。
『お疲れ』
それだけ。美月は、
『まだバイト?』
と送った。
『もう終わった』
『今何してる?』
しばらく返事がない。5分後。
『飯』
『誰と?』
送ってから、すぐ後悔した。既読。
少し間があった。
『バイトの奴ら』
美月の胸がざわつく。
『麻衣さんも?』
今度は送った。返事が来ない。
10分。15分。
美月はスマートフォンを握ったまま電車に揺られた。20分後。
『いるよ』
短い返事。美月は画面を見つめた。
『そっか』
送る。すぐ既読。
それで終わった。家に着いても、気持ちは落ち着かなかった。
シャワーを浴びる。髪を乾かす。
ベッドへ入る。午前0時を過ぎる。
蓮から、
『帰った』
と来た。美月はすぐ返した。
『おかえり』
『寝る』
『電話しない?』
既読。返事が来ない。
5分後。
『今日疲れたからまた今度』
美月は胸が沈んだ。
『分かった。おやすみ』
『おやすみ』
それで終わった。美月は暗い部屋でスマートフォンを見ていた。
電話したかった。今日あったことを話したかった。
友達との飲み会。温泉の話。
麻衣のこと。駅で拓海を見たこと。
どうして奈緒といる拓海を見て少し変な気持ちになったのか。自分でも分からないことを、誰かに聞いてほしかった。
その相手が誰なのかは分かっていた。美月は拓海とのトーク画面を開いた。
『起きてる?』
打つ。消さない。
でも送れない。蓮と約束したからではなかった。
それだけではない。もし拓海に電話したら、きっと安心する。
美月にはそれが分かっていた。蓮に話せないことを拓海に話す。
蓮からもらえない安心を拓海にもらう。それは、何か違うのではないか。
初めてそう思った。美月は文章を消した。
翌朝。拓海は奈緒からのメッセージで目を覚ました。
『昨日ありがと』
『おう』
『今度は私が出す』
『何を』
『昨日のご飯』
『別にいいよ』
『そうやってすぐ奢る』
『年上だから』
『1歳しか違わない』
拓海は笑った。
『じゃあ次頼む』
『了解』
そこで終わった。昨夜は奈緒が仕事で失敗したと言うので、飲みに付き合った。
珍しく落ち込んでいた。いつも拓海に説教する側の奈緒が、
「今日は聞くだけにして」
と言った。拓海は2時間ほど話を聞いた。
美月のことは一度も話さなかった。それが久しぶりだった。
午前中。拓海は部屋を掃除した。
洗濯をする。昼過ぎ、亮介から電話が来た。
『暇?』
「暇」
『競馬行こうぜ』
「行かない」
『なんで』
「興味ない」
『じゃあ飲もう』
「まだ昼だぞ」
『昼から飲むんだよ』
「嫌だよ」
そんなくだらない話を10分ほどした。電話を切る。
拓海はふと思った。美月から1週間近く電話がない。
寂しくないわけではなかった。でも生活は普通に続いていた。
会社へ行く。同僚と話す。
奈緒と飯を食う。亮介からくだらない電話が来る。
休みの日には洗濯する。美月がいないと何もないと思っていたわけではない。
それでも、自分の生活のかなり大きな場所に美月がいたことには気づいた。スマートフォンを取る。
『元気?』
打つ。少し考えて消した。
今、美月は彼氏と付き合っている。自分から連絡を減らすと言った。
だったら、自分が守らなければ意味がない。拓海はスマートフォンを置いた。
その日の夕方。美月は蓮と会っていた。
昨日のことを聞こうと決めていた。カフェへ入る。
注文して少ししたところで、美月が言った。
「昨日さ」
「ん?」
「麻衣さんもいたんだよね」
蓮の顔が少し曇った。
「いたよ」
「最近、よく一緒にいるよね」
「バイト同じだから」
「LINEもしてるよね」
蓮は美月を見る。
「何?」
「別に責めてないよ」
「じゃあ何?」
声が少し強い。美月は怯んだ。
「私、ちょっと気になるだけ」
「だから何もないって言ったじゃん」
「うん。でも」
「美月さ」
蓮が息を吐いた。
「俺、束縛されるの嫌なんだよね」
胸が痛んだ。
「束縛してないよ」
「誰とLINEしてるとか、誰と飯行ったとか聞くじゃん」
「だって」
「俺、美月に男友達全部切れって言った?」
美月は顔を上げた。
「拓海さんと二人で会わないでって言ったじゃん」
「それは向こうが美月のこと好きだからだろ」
「麻衣さんは蓮くんのこと好きじゃないの?」
蓮が黙った。ほんの一瞬だった。
商人美月は見逃さなかった。
「……好きなの?」
「知らないよ」
「聞いたことないの?」
「ない」
「じゃあなんで今黙ったの?」
蓮の顔に苛立ちが出た。
「面倒くさいな」
その一言で、美月の中の何かが止まった。言われたくなかった言葉だった。
「……ごめん」
美月は反射的に謝った。蓮は息を吐いた。
「いや、俺も言い方悪かった」
「うん」
「ほんと何もないから」
「分かった」
「美月が彼女なんだから」
蓮が手を伸ばし、美月の頭を撫でた。
「そんな不安になんなよ」
美月は笑おうとした。
「うん」
そのあと二人は普通に話した。旅行のこと。
大学のこと。映画のこと。
蓮も普通だった。それなのに。
美月の中には、
「面倒くさいな」
という言葉だけが残った。帰り道。
一人で電車に乗る。窓の外を見る。
スマートフォンを開く。拓海とのトーク画面。
――私、面倒くさい女かな。以前、自分が聞いた言葉を思い出す。
拓海は、
『急にどうした』
と言った。そして話を全部聞いた。
美月は文字を打った。
『拓海さん』
送った。すぐには既読にならなかった。
5分。10分。
美月は少し不安になった。15分後。
既読。
『どうした?』
たった4文字。美月はそれを見ただけで、泣きそうになった。
『なんでもない』
送る。少しして、
『ならいいけど』
と返ってきた。以前なら、そこから電話していた。
今日はしなかった。
『うん。またね』
『おう』
終わった。美月はスマートフォンを閉じた。
泣かなかった。拓海に話せば楽になる。
分かっていた。でも今日は、自分で飲み込んだ。
彼氏のことで傷つくたびに拓海へ逃げるのは違う。それは美月なりに考えて出した答えだった。
だから拓海は、その夜、美月が一人で泣いたことを知らない。そして美月も知らなかった。
拓海が、
『なんでもない』
という短い文章を何度も読み返し、電話をかけようとして、最後までかけなかったことを。




