第5話 会いたいときだけ
美月から連絡が来なくなった。正確には、なくなったわけではない。
以前より減っただけだった。毎日のように届いていた、
『今日さ』
『聞いて』
『今ひま?』
というメッセージが、2日、3日と空くようになった。電話も減った。
拓海から送れば返事は来る。美月のほうから連絡が来ることもある。
ただ、その頻度が明らかに変わった。拓海はそれを寂しいと思った。
同時に、安心もしていた。これが普通なのだ。
美月には彼氏がいる。何かあれば蓮に話す。
嬉しいことがあれば蓮に伝える。休みの日には蓮と会う。
自分は友達なのだから、少し離れた場所にいるくらいでいい。
「最近、スマホ見なくなったな」
昼休み、向かいに座っていた同僚に言われた。拓海は顔を上げた。
「そう?」
「前、しょっちゅう鳴ってたじゃん」
「仕事中は見てないだろ」
「昼休みとか」
拓海はスマートフォンを見る。通知はなかった。
「気のせいじゃない?」
そう言ってポケットへ戻した。そのころ、美月は蓮と一緒にいる時間が増えていた。
付き合って1か月。大学で会う。
授業が終われば一緒に帰る。休みの日には出かける。
最初のころよりキスにも慣れた。蓮の部屋へ行くこともあった。
ただ隣に座って映画を見るだけでも楽しかった。蓮は相変わらず優しかった。
「今日可愛い」
「今日も、でしょ」
美月が言うと、
「そういうこと自分で言う?」
と笑う。そんなやり取りさえ楽しい。
けれど、小さな違和感も少しずつ増えていた。蓮からの返信が遅くなった。
付き合う前は、遅くても1時間ほどだった。最近は3時間、4時間返ってこないこともある。
既読がついても返事がないこともあった。最初は気にしなかった。
毎日LINEする必要なんてない。蓮にも生活がある。
そう思っていた。金曜日。
美月は朝から少し機嫌がよかった。今日は蓮と夕食へ行く約束をしていた。
大学が終わるのは午後4時過ぎ。待ち合わせは6時。
一度家へ帰るほどの時間はない。千紘と大学近くのカフェで時間を潰し、5時を過ぎたところで化粧を直した。
「デート?」
鏡を見ていた美月に千紘が聞いた。
「うん」
「いいなあ」
「千紘も彼氏作れば?」
「簡単に言うな」
美月は笑った。スマートフォンを見る。
蓮から連絡はない。待ち合わせ場所は決まっているので問題ない。
5時40分。美月は千紘と別れた。
待ち合わせ場所には10分前に着いた。蓮はいない。
美月はスマートフォンを見ながら待った。6時。
来ない。6時5分。
『着いたよ』
送る。既読にならない。
6時15分。少し不安になった。
電話しようか迷ったが、まだ早いと思った。6時20分。
メッセージが来た。蓮。
『ごめん』
続けて、
『今日無理になった』
美月は画面を見つめた。
『どうしたの?』
すぐに送る。5分ほどして返ってきた。
『バイトの奴が休んで、代わり頼まれた』
美月は息を吐いた。仕方がない。
そう思った。
『そっか。大丈夫だよ』
送る。
『ほんとごめん』
『また今度ね』
『埋め合わせする』
『うん』
そこでやり取りは終わった。美月はスマートフォンをバッグへ入れた。
駅前には大勢の人がいた。金曜の夕方。
待ち合わせをしている人。腕を組んで歩く男女。
飲み会へ向かう会社員。自分だけが突然予定を失ったような気がした。
家へ帰ればいい。それだけなのに。
せっかく髪も整えた。服も選んだ。
昼から楽しみにしていた。
「……しょうがないか」
誰に言うでもなく呟いた。駅へ向かって歩き始める。
途中で飲食店の前を通った。一人で食べて帰ろうかと思ったが、そんな気分でもない。
スマートフォンを取り出す。千紘に連絡しようかと思った。
しかし、今日は家族と食事すると言っていた。別の友人。
予定があるかもしれない。指が止まる。
少し下へスクロールする。相沢拓海。
美月はしばらく名前を見た。最近、あまり連絡していなかった。
理由は単純だった。蓮と一緒にいることが多かったから。
それだけ。美月はメッセージを打った。
『拓海さん、今日ひま?』
送る。すぐには既読にならなかった。
美月は歩きながら待った。3分ほどして既読。
『仕事』
美月は少しがっかりした。当然だった。
金曜日とはいえ、まだ6時半前だ。
『何時に終わる?』
少しして返事。
『たぶん7時くらい』
『ご飯行かない?』
送ったあと、美月は立ち止まった。今さらだったかなと思う。
彼氏ができてから連絡が減っていた。それなのに予定がなくなった途端に誘う。
奈緒が見ていたら、何か言われそうだ。そんなことを一瞬考えた。
返信。
『いいよ』
美月はほっとした。
『駅で待ってる』
『先にどっか入っててもいいぞ』
『待ってる』
『分かった』
美月はスマートフォンを閉じた。7時10分。
拓海が駅へ向かうと、美月は改札近くの柱のそばに立っていた。少し離れた場所からでもすぐ分かった。
拓海は歩きながら思った。今日はいつもより服装がきれいだ。
髪も巻いている。自分に会うためではない。
それもすぐ分かった。
「お待たせ」
美月が顔を上げた。
「あ、お疲れさま」
「何食う?」
「なんでもいい」
「一番困るやつ」
「拓海さん決めて」
「じゃあラーメン」
「今日は嫌」
「なんでもよくないじゃん」
美月が笑った。その笑顔を見て、拓海も笑った。
結局、二人は駅近くの居酒屋に入った。金曜日なので混んでいた。
カウンターしか空いておらず、二人並んで座った。
「で?」
拓海がメニューを開きながら聞いた。
「何が?」
「急に飯って」
「別に」
「珍しいじゃん」
美月は少し迷った。
「蓮くんと約束してたんだけど」
やっぱり。拓海はメニューを見たまま、
「うん」
と答えた。
「バイトの人が休んだらしくて、代わりに出ることになったって」
「そっか」
「それで暇になった」
拓海は一瞬だけ美月を見た。
「なるほど」
「何?」
「いや」
「何その反応」
「俺、代打?」
冗談のつもりだった。美月は一瞬黙った。
「……そういう言い方しないでよ」
思っていたより真面目な声だった。拓海は少し驚いた。
「ごめん」
「別に代打とかじゃないし」
「分かったって」
「だったら言わないで」
「悪かったよ」
美月はメニューへ目を落とした。少し気まずくなった。
店員を呼び、飲み物と料理を注文する。拓海はビール。
美月はウーロン茶。飲み物が来ても、美月はまだ少し不機嫌そうだった。
拓海が言う。
「美月」
「何?」
「ほんとにごめんって」
「怒ってない」
「怒ってるだろ」
「怒ってない」
「じゃあこっち見ろよ」
美月が拓海を見る。
「何」
「怒ってる顔」
「うるさい」
拓海が笑った。美月も少しだけ笑った。
それで空気が戻った。料理が来る。
二人で食べ始めた。しばらくは大学の話をした。
就職活動。ゼミ。
最近見た映画。拓海の会社の新人。
蓮の話をしなくても、話すことはいくらでもあった。美月は途中で気づいた。
楽だった。やっぱり。
拓海といると楽だった。話題を考えなくていい。
沈黙しても気にならない。食べながらスマートフォンを触っても怒られない。
髪が崩れてもどうでもいい。
「拓海さん」
「ん?」
「私、今日可愛い?」
拓海が箸を止めた。
「急に何」
「いいから」
拓海は美月を見る。
「可愛いんじゃない?」
「適当」
「可愛いよ」
「ほんと?」
「なんで確認するんだよ」
美月が笑った。
「蓮くんに会う予定だったから、ちょっとちゃんとしてきた」
「そうですか」
「その反応やめて」
「どうしろってんだよ」
また二人で笑った。しばらくして、美月のスマートフォンが光った。
美月はすぐ画面を見た。蓮だった。
『今からバイト』
『ほんとごめんな』
美月は、
『頑張って』
と返した。スマートフォンを置く。
拓海は何も聞かなかった。
「拓海さん」
「ん?」
「寂しくない?」
「何が」
「最近、私あんまり連絡してないじゃん」
拓海は少し驚いた。
「自覚あったんだ」
「あるよ」
「なら別に」
「別にって?」
「彼氏できたんだから普通だろ」
美月はウーロン茶を飲んだ。
「そうなのかな」
「そうだろ」
「拓海さんは平気?」
拓海はビールのグラスを置いた。
「何が聞きたいの?」
「分かんない」
「じゃあ俺も分かんない」
美月は少し笑った。でも視線はグラスに落ちたままだった。
「私、拓海さんと会わなくなるの嫌だな」
拓海の胸が動いた。けれど顔には出さなかった。
「会えばいいじゃん」
「彼氏いても?」
「友達なんだから」
「そっか」
美月は少し安心したように笑った。その笑顔を見ながら、拓海は自分に言い聞かせた。
友達。それでいい。
食事が終わり、店を出た。
「ごちそうさま」
「奢るとは言ってない」
「え?」
「半分」
「年上なのに?」
「社会人と大学生だから今日は奢るけど、その言い方したから次は払え」
「ケチ」
「お前な」
笑いながら駅へ向かう。途中、美月が言った。
「今日、拓海さんいてよかった」
拓海は歩きながら、
「そりゃどうも」
と答えた。
「一人で帰るの寂しかったから」
その言葉に、拓海の足がほんの少しだけ遅くなった。美月は気づかない。
「また急に誘っていい?」
拓海は前を向いた。
「暇ならな」
「絶対来てくれるくせに」
美月が笑う。拓海は何も言わなかった。
駅で美月と別れたあと、拓海は一人でホームに立っていた。電車を待ちながらスマートフォンを見る。
奈緒からメッセージが来ていた。
『今日飲まない?』
送信時刻は午後6時48分。美月と合流する直前だった。
拓海は今気づいた。
『ごめん。美月と飯食ってた』
送る。すぐ既読になった。
返事。
『そう』
それだけ。嫌な予感がした。
翌日の午後。拓海は奈緒から呼び出された。
「何?」
カフェに着いて座るなり聞いた。奈緒はコーヒーを飲んでいた。
「昨日、美月ちゃんとご飯行ったの?」
「行ったよ」
「彼氏は?」
「バイト」
奈緒の眉が動いた。
「元々、美月ちゃんは彼氏と会う予定だった?」
「そうらしい」
「キャンセルされた?」
「代わりにバイト入ったって」
奈緒は黙った。拓海はその顔を見て言った。
「言いたいことあるなら言えば」
「あるよ」
「どうぞ」
奈緒はカップを置いた。
「それが嫌なの」
「何が」
「彼氏と会えなくなったから拓海」
拓海は黙った。
「寂しくなったから拓海」
「飯食っただけだよ」
「分かってる」
「だったら」
「拓海」
奈緒の声が少し強くなった。
「美月ちゃんがあんたのこと何とも思ってないなら、私だってここまで言わない」
拓海が眉を寄せる。
「何とも思ってないだろ」
「違う」
奈緒は首を振った。
「あの子にとって、あんたはすごく大事なんだと思う」
予想していなかった言葉だった。拓海は黙る。
「たぶん本当に大事。信用してるし、好きなんだと思う」
「じゃあ何が問題なんだよ」
「好きの種類が違うから」
拓海の顔から表情が消えた。奈緒は続けた。
「彼氏に向ける好きと、あんたに向ける好きが違う」
「知ってるよ」
「本当に?」
「告白して振られてんだから知ってる」
「じゃあ分かるでしょ」
奈緒は拓海を見た。
「美月ちゃんは恋愛したい相手には蓮くんを選んだ」
「うん」
「でも安心したいときは拓海を選ぶ」
拓海は何も言わなかった。
「それって、美月ちゃんにとってはすごく幸せな状態だと思う」
奈緒の声は静かだった。
「ドキドキする相手は彼氏にできて、安心させてくれる相手は友達として残るんだから」
拓海は視線を落とした。
「でも」
奈緒は少し間を置いた。
「拓海は?」
「俺?」
「あんたは何をもらってるの?」
拓海は答えられなかった。
「美月が笑ってれば、それでいい」
ようやく言った。奈緒はしばらく拓海を見ていた。
「本当に?」
「うん」
「じゃあ昨日、美月ちゃんが『彼氏と最高に幸せ』って2時間話しても平気だった?」
拓海は黙った。
「平気じゃないでしょ」
「……」
「拓海」
奈緒は少しだけ声を柔らかくした。
「優しいのと、自分を雑に扱うのは違うよ」
その言葉だけは、拓海にも返せなかった。一方、美月はその日の夜、蓮と電話していた。
『昨日ほんとごめんな』
「もういいよ」
『怒ってない?』
「怒ってないって」
『じゃあ明日会おう』
「バイトは?」
『休み』
「じゃあ会う」
『何したい?』
「なんでもいい」
『俺んち来る?』
美月は少し黙った。
「……いいよ」
蓮が笑った気配がした。
『じゃあ昼くらい迎え行く』
「うん」
電話を切る。美月はベッドに横になった。
嬉しかった。昨日会えなかった分、明日は会える。
それだけで気持ちは戻った。翌日。
美月は蓮の部屋へ行った。二人で昼を食べ、映画を見た。
途中から映画はほとんど見ていなかった。蓮が美月の髪に触れた。
キスをした。一度離れて、またキスをした。
美月は拒まなかった。蓮の腕の中にいると、胸が高鳴った。
拓海といるときには一度も感じたことのない感覚だった。これが好きということなのだと、美月は思った。
夕方。蓮のスマートフォンが何度か鳴った。
最初は気にしなかった。3回目。
美月が聞いた。
「出なくていいの?」
「いいよ」
蓮は画面を伏せた。
「誰?」
「バイトの奴」
「何かあったんじゃない?」
「どうでもいい」
蓮はまた美月を抱き寄せた。そのときスマートフォンがもう一度震えた。
画面が一瞬だけ光る。美月は見ようとしたわけではなかった。
ただ、見えた。女性の名前だった。
『麻衣』
メッセージの一部も表示されていた。
『昨日は――』
そこまでしか読めなかった。蓮がすぐスマートフォンを取った。
「どうした?」
美月が聞いた。
「何が?」
「女の人?」
「バイトの奴」
「麻衣って?」
「そう」
蓮は普通に答えた。
「昨日一緒だった人?」
「うん」
美月は昨日のことを思い出した。急にバイトへ入ることになった。
そのあと、蓮は同僚たちと食事へ行ったと言っていた。
「昨日、ご飯も一緒だった?」
「みんなでな」
「そっか」
それだけだった。おかしなことではない。
バイト仲間。女性がいても当然だ。
蓮が美月の頬に触れた。
「何、嫉妬?」
「してない」
「顔してる」
「してないって」
「可愛い」
キスをされる。美月は少しだけ残っていた違和感を飲み込んだ。
考えすぎだ。そう思った。
その夜。家へ帰った美月はベッドに入った。
蓮から、
『今日は楽しかった』
と来た。
『私も』
返す。それからスマートフォンを置いた。
でも眠れない。麻衣。
ただのバイト仲間。分かっている。
それなのに名前が頭から離れなかった。午前0時を過ぎた。
美月はスマートフォンを手に取った。拓海の名前を探した。
開く。
『起きてる?』
そこまで打った。指が止まる。
昨日、自分は蓮に会えなくなったから拓海を誘った。今日は蓮と会った。
そして今度は、蓮のことで不安になったから拓海に話そうとしている。美月は昨日の拓海の言葉を思い出した。
――俺、代打?胸が少し痛んだ。
「違うよ」
誰もいない部屋で呟いた。拓海は代わりなんかじゃない。
蓮と拓海は全然違う。だから比べるものではない。
そう思った。それなのに。
美月は打った文章を消した。スマートフォンを伏せる。
5分。10分。
眠れない。また手に取った。
今度は、
『拓海さん』
とだけ送った。しばらくして既読がついた。
『ん?』
美月は画面を見つめた。何と書けばいいか分からなかった。
『何でもない』
送る。拓海から、
『そう?』
と返ってきた。
『うん』
増れで終わると思った。1分ほどして、もう一度スマートフォンが震えた。
『なんかあったなら聞くよ』
その文字を見た瞬間、美月の目に涙が浮かんだ。自分でも理由が分からなかった。
悲しいわけではない。蓮に何かされたわけでもない。
ただ不安だった。美月は電話のマークを押した。
一度。二度。
『もしもし』
拓海の声がした。美月は少し黙った。
『どうした?』
「……拓海さん」
『うん』
「私さ」
言おうとして止まる。麻衣という女性からメッセージが来ていた。
それだけ。そんなことで不安になる自分が嫌だった。
「私、面倒くさい女かな」
電話の向こうで拓海が少し黙った。
『急にどうした』
「なんか……自分でも嫌になる」
『何があった?』
美月は目を閉じた。そして話し始めた。
拓海は何も言わず聞いた。蓮の部屋へ行ったこと。
女性からメッセージが来たこと。昨日一緒にバイトしていた人だったこと。
みんなで食事へ行ったらしいこと。自分でも疑うような話ではないと思っていること。
それでも気になってしまうこと。全部。
話し終えると、拓海は少し黙った。
『美月』
「うん」
『それだけなら、まだ何も分からないだろ』
「やっぱり?」
『バイト仲間から連絡来るくらい普通だし』
「うん」
『気になるなら蓮に聞けばいい』
「嫌われない?」
『それくらいで嫌うなら、そのほうが問題だろ』
美月は少し笑った。
「拓海さんって、そういうとこあるよね」
『何』
「簡単に言う」
『複雑にしてんの美月だろ』
「そうだけど」
少しだけ気持ちが軽くなった。
「ねえ」
『ん?』
「拓海さんはさ」
美月は枕に頬をつけた。
「私がこういう面倒くさいこと言っても、嫌にならない?」
拓海はすぐには答えなかった。
『ならないよ』
「なんで?」
『美月だから』
それだけだった。美月は目を閉じた。
胸の奥がゆっくりほどけていった。蓮に言われる、
「可愛い」
とは違った。蓮に抱きしめられたときのように胸が高鳴るわけでもない。
ただ安心する。自分の格好悪いところを見せても、拓海なら大丈夫だと思える。
その安心がどれほど大きなものなのか。美月はまだ知らなかった。
そして拓海も知らなかった。その夜、自分が美月を安心させるために使った、
「美月だから」
という言葉が、いつか自分自身を一番苦しめる言葉になることを。




