第4話 彼氏の話をする相手
「蓮くんがさ、手つないできた」
電話の向こうから聞こえた言葉に、拓海はしばらく返事をしなかった。平日の午後11時過ぎ。
仕事を終えて帰宅し、風呂にも入り、あとは寝るだけだった。ベッドの横に座り、充電器につないだスマートフォンを耳に当てている。
『拓海さん?』
「聞いてるよ」
『反応薄くない?』
「どう反応しろってんだよ」
『普通に』
「よかったね、とか?」
『そうそう』
拓海は天井を見た。
「よかったね」
『絶対思ってないでしょ』
「思ってるよ」
『ほんとに?』
「ほんとほんと」
美月が笑った。付き合い始めて10日ほど。
美月から蓮の話を聞く回数は増えていた。蓮が何を言った。
どこへ行った。何を食べた。
LINEでこんなことを言われた。次はどこへ行く。
拓海はそのほとんどを知っている。知りたいわけではない。
美月が話すから知っている。
『それでね』
まだ続くらしい。
「うん」
『手つないだあと、ずっと離さないの』
「うん」
『駅着いても』
「うん」
『なんかさ』
美月の声が少し小さくなる。
『こういうの久しぶりだから、ちょっと恥ずかしかった』
拓海は返事をしなかった。その顔まで想像できてしまう。
少し俯いて。でも嬉しくて。
口元だけ笑っている。自分には見せない顔。
「美月」
『ん?』
「それ、俺に話すこと?」
沈黙した。ほんの数秒。
『……嫌だった?』
思っていたより弱い声だった。拓海は後悔した。
「嫌っていうか」
言葉を探す。
「俺、男だからな」
『知ってるよ』
「いや、そうじゃなくて」
美月も黙る。拓海は頭をかいた。
「彼氏と手つないだ話されても、なんて答えたらいいか分かんないだろ」
『そっか』
明らかに声が沈んだ。それだけで拓海は困る。
怒りたいわけではない。美月に電話してくるなと言いたいわけでもない。
ただ、少しだけ苦しい。それをどう伝えればいいのか分からなかった。
『ごめん』
美月が言った。
「謝るほどじゃないよ」
『でも、そうだよね』
「うん」
『拓海さん、私のこと好きだもんね』
直球だった。
「お前さ」
『何?』
「もうちょっと言葉選べない?」
『だって本当じゃん』
「本当だけど」
美月が少し笑った。そのあと、また静かになった。
『じゃあ、もう蓮くんの話しないほうがいい?』
拓海はすぐには答えられなかった。
「全部やめろとは言ってない」
『どこまでならいいの?』
「そんな細かいルール作る?」
『だって分かんないもん』
拓海は笑った。
「俺も分かんないよ」
『じゃあ困る』
「俺が困ってるんだけど」
美月がまた笑った。結局、その日は日付が変わる少し前まで話した。
電話を切ったあと、拓海はスマートフォンを枕元へ置いた。静かになった部屋で、さっきの言葉が残っていた。
――拓海さん、私のこと好きだもんね。分かっている。
美月は分かっている。分かっていて電話をかけてくる。
それをどう受け取ればいいのか、拓海にも分からなかった。翌日の昼。
美月は大学の食堂で千紘と向かい合っていた。
「で、どうなの?」
千紘が聞いた。
「何が?」
「佐伯くん」
「普通に楽しいよ」
「それだけ?」
「何を期待してるの」
「キスした?」
美月は飲んでいたお茶を吹きそうになった。
「してない」
「手は?」
美月が黙る。千紘が笑った。
「したんだ」
「うるさい」
「美月、顔に出るね」
「出てない」
「出てる出てる」
美月は箸で卵焼きを切った。思い出すだけで少し恥ずかしい。
昨日、駅まで歩いている途中で蓮が自然に手をつないできた。何も言わずに。
最初は驚いた。でも離さなかった。
蓮の手は思っていたより大きかった。
「いいなあ」
千紘が言った。
「何が?」
「楽しそう」
「楽しいよ」
「好き?」
美月は少しだけ考えた。
「うん」
今度は迷わなかった。好きだった。
蓮からLINEが来れば嬉しい。会える日は朝から少し気分がいい。
服も考える。髪型も気になる。
次に会える日を確認してしまう。これが恋なんだろうと思う。
「そういえばさ」
千紘が言った。
「前に話してた年上の人」
「拓海さん?」
「そう。その人には言ったの?」
「何を?」
「彼氏できたこと」
「言ったよ」
「なんて?」
「おめでとうって」
千紘が少し意外そうな顔をした。
「その人、美月のこと好きなんじゃなかった?」
「うん」
「うん、じゃないでしょ」
「何が?」
「よく言えるね」
美月は箸を止めた。
「だって隠すほうがおかしくない?」
「まあ、そうだけど」
千紘は少し考えた。
「その人と今も連絡取ってるの?」
「取ってるよ」
「二人で会ったり?」
「普通に」
千紘の顔が変わった。
「彼氏、知ってる?」
「拓海さんのこと?」
「うん」
「話したことはある」
「美月のこと好きってことも?」
美月は答えなかった。そこまでは話していない。
「それは言ってない」
「それ、佐伯くん嫌がらない?」
「なんで?」
「なんでって……」
千紘は困った顔をした。
「逆だったら嫌じゃない?」
「逆?」
「佐伯くに、佐伯くんのことずっと好きな女友達がいてさ。夜中に電話したり、二人でご飯行ったりしてたら」
美月は想像した。蓮に仲のいい女友達がいる。
その女性は蓮を好き。蓮もそれを知っている。
それでも二人で会う。夜中に電話する。
「……ちょっと嫌かも」
「でしょ?」
「でも拓海さんとは違うよ」
「何が?」
聞かれて、美月は詰まった。何が違うのだろう。
拓海だから。そう言おうとして、それが説明になっていないことに気づいた。
「昔からだから」
「それだけ?」
「それだけっていうか……拓海さんは拓海さんなの」
千紘が笑った。
「一番分かんないやつ」
「本当にそうなんだって」
美月にもそれ以上説明できなかった。その日の夕方。
講義を終えて教室を出ると、蓮が待っていた。
「美月」
呼ばれることにも少し慣れてきた。
「今日バイトじゃなかった?」
「8時から」
「じゃあ行かないと」
「その前にちょっと会おうかなと思って」
嬉しかった。
「何それ」
「彼女に会いたかっただけ」
さらっと言う。美月はこういうところに弱かった。
「時間大丈夫?」
「1時間くらいある」
「じゃあお茶する?」
「腹減ってない?」
「ちょっと」
「なんか食おう」
二人で大学近くの店へ入った。食事をしながら蓮が聞いた。
「今度の土曜、空いてる?」
「午後なら」
「映画行こう」
「何見る?」
「美月が見たいのでいいよ」
「蓮くんは?」
「俺は美月見てるから何でもいい」
「気持ち悪い」
「ひど」
美月は笑った。でも嬉しい。
蓮も笑っている。
「じゃあ本当に何でもいい?」
「いいよ」
「恋愛映画でも?」
「寝るかも」
「駄目じゃん」
「起こして」
「嫌だよ」
そんな会話が楽しかった。食事が終わり、蓮のバイト先近くまで一緒に歩いた。
別れ際、蓮が美月の手を握った。
「じゃあ行ってくる」
「頑張って」
離れようとしたが、蓮が手を離さない。
「何?」
「もうちょい」
「遅刻するよ」
「あと10秒」
「子供?」
「数えて」
「嫌だよ」
美月は笑っていた。結局、蓮のほうから手を離した。
「終わったらLINEする」
「うん」
蓮が店へ入っていく。美月はその背中が見えなくなるまで見ていた。
幸せだった。本当に。
ただ、恋愛が始まると、今までなかった不安も生まれた。蓮のバイトが終わるのは夜11時。
『終わったらLINEする』
そう言っていた。美月は家で待った。
11時15分。来ない。
11時30分。まだ来ない。
忙しいのかなと思う。11時45分。
スマートフォンを何度も確認した。自分から送ろうか迷う。
でも、
「終わった?」
と送るのは重い気がした。日付が変わった。
連絡はない。午前0時20分。
美月はベッドに横になっていた。スマートフォンを開く。
蓮との画面。閉じる。
また開く。閉じる。
どうでもいい。バイトが長引いているだけかもしれない。
友達と話しているのかもしれない。それくらい普通だ。
そう思うのに落ち着かない。気づくと、拓海とのトーク画面を開いていた。
『起きてる?』
打つ。送ろうとして止まる。
昨日の電話を思い出した。――それ、俺に話すこと?
指が止まった。一度全部消した。
スマートフォンを伏せる。5分ほど耐えた。
また手に取った。
『起きてる?』
今度は送った。すぐには既読にならなかった。
午前0時31分。既読。
『起きてる』
美月は少し安心した。
『電話していい?』
数秒後。
『いいよ』
美月は電話をかけた。
『もしもし』
いつもの声。それだけで肩の力が抜けた。
「ごめん、遅くに」
『どうした?』
「別に大したことじゃないんだけど」
『うん』
美月は少し迷った。
「蓮くんがさ」
電話の向こうが一瞬静かになった気がした。それでも拓海は、
『うん』
と答えた。
「バイト終わったらLINEするって言ってたんだけど、まだ来なくて」
『何時に終わる予定?』
「11時」
『まだ1時間半くらいだろ』
「そうなんだけど」
『忙しかったんじゃない?』
「でも終わったらって言ったから」
『うん』
「私から送ったら重いかな」
拓海は少し黙った。
『送れば?』
「いいの?」
『彼女だろ』
「そうだけど」
『バイト終わった?くらい普通じゃない?』
美月は少し安心した。
「そっか」
『うん』
「拓海さんなら送られるの嫌?」
『相手による』
「何それ」
『好きな人なら嬉しいだろ』
美月は黙った。拓海も黙った。
「じゃあ送ってみる」
『そうしな』
「ありがとう」
『それだけ?』
「それだけ」
『じゃあ寝るぞ』
「待って」
『何』
「送って返事来るまでいて」
拓海は返事をしなかった。
「駄目?」
『……いいよ』
「ありがとう」
美月は電話をスピーカーにして、蓮へメッセージを送った。
『バイト終わった?』
1分。2分。
既読にならない。拓海は何も言わない。
「やっぱ重かったかな」
『2分で判断すんな』
「でもスマホ見るでしょ」
『仕事中なら見ないだろ』
「もう終わってるはず」
『片付けしてるかもしれないだろ』
「そうかな」
『そう思っとけ』
美月は少し笑った。
「拓海さんって、こういうとき楽」
『雑な褒め方だな』
「褒めてるよ」
そのとき画面が光った。
「あ」
『来た?』
「うん」
蓮からだった。
『ごめん!バイトの奴らと飯来てた』
続けて、
『連絡するの忘れてた』
美月は少しだけ引っかかった。終わったらLINEすると言ったのに。
でも理由が分かると安心した。
「友達とご飯行ってたって」
『そっか』
「連絡するの忘れてたって」
『ならよかったじゃん』
「うん」
少し間を置いて、拓海が言った。
『じゃあ寝るぞ』
「うん。ごめんね」
『おやすみ』
「おやすみ」
電話が切れた。美月は蓮へ、
『そっか。お疲れさま』
と返した。すぐ既読。
『ごめんな』
『大丈夫』
『怒ってる?』
『怒ってないよ』
『今から電話する?』
美月は少し迷った。
『明日でいいよ』
『了解。おやすみ』
『おやすみ』
スマートフォンを置く。さっきまでの不安はほとんど消えていた。
一方。拓海は暗い部屋でベッドに横になった。
眠れなかった。美月が不安になった。
自分に電話した。自分が話を聞いた。
美月は安心した。そして蓮から返事が来た。
自分の役目は終わった。その流れが妙にはっきり見えた。
翌朝。拓海は少し寝不足のまま会社へ向かった。
昼休み。奈緒からメッセージが来た。
『今日仕事終わったら暇?』
『何』
『ご飯』
『いいよ』
夜、二人で居酒屋に入った。仕事の話をしていたはずなのに、途中で奈緒が言った。
「顔疲れてる」
「寝不足」
「何してたの」
「電話」
「誰と?」
拓海は答えなかった。奈緒が箸を置いた。
「美月ちゃん?」
「まあ」
「何時まで?」
「1時前」
奈緒の表情が消えた。
「彼氏できたんだよね?」
「できたよ」
「じゃあ何を夜中に話すことがあるの?」
拓海はビールを飲んだ。
「彼氏から連絡来なくて不安だったらしい」
奈緒は数秒、完全に黙った。
「拓海」
「うん」
「私、今からかなり嫌なこと言うけどいい?」
「もう言ってるようなもんだろ」
「美月ちゃん、彼氏との恋愛相談まであんたにしてるの?」
「相談ってほどじゃない」
「同じだよ」
「不安だったんだろ」
奈緒が目を閉じた。
「そうじゃなくて」
「何」
「その不安を受け止めるの、彼氏じゃないの?」
拓海は答えなかった。奈緒は続けた。
「彼氏から連絡来なくて不安になって、その不安を自分のこと好きな男に慰めてもらって、彼氏から連絡来たら安心する」
「言い方悪いな」
「悪く言ってるから」
「奈緒」
「私は嫌いだって言ったでしょ」
拓海の顔から笑いが消えた。
「美月を悪く言うなよ」
「じゃああんたはどうなの?」
「何が」
「つらくないの?」
拓海は黙った。奈緒はその顔を見て、少しだけ声を落とした。
「ほら」
「……俺が勝手にやってる」
「それ、便利な言葉だね」
拓海が奈緒を見る。
「何でもそれで終わらせられる」
奈緒は言った。
「自分が好きだからやってる。自分が勝手にやってる。だから美月ちゃんは悪くない」
「実際そうだろ」
「じゃあ聞くけど」
奈緒は拓海をまっすぐ見た。
「美月ちゃんが蓮くんと幸せになったあとも、ずっと同じことできる?」
拓海は答えられなかった。数日後。
土曜日。美月は蓮と映画を見た。
映画の内容は途中からほとんど頭に入っていなかった。暗い館内。
隣の席。途中で蓮の手が美月の手に触れた。
そして指が絡んだ。それだけで心臓がうるさかった。
映画館を出たあと、蓮が聞いた。
「面白かった?」
「うん」
「絶対途中見てなかっただろ」
「見てたよ」
「じゃあ最後どうなった?」
「それは……」
蓮が笑った。
「ほら」
「蓮くんだって見てなかったでしょ」
「俺は美月見てた」
「それもっと駄目じゃん」
笑いながら歩いた。夕食を食べたあと、駅へ向かった。
人通りの少ない道。蓮が立ち止まった。
美月も止まる。
「何?」
「美月」
「ん?」
蓮が少し近づいた。何をするのか分かった。
逃げようとは思わなかった。顔が近づく。
美月は目を閉じた。唇が触れた。
短いキスだった。離れたあと、美月は蓮を見られなかった。
「顔赤い」
「うるさい」
「可愛い」
「ほんとうるさい」
蓮が笑った。美月も笑った。
胸がいっぱいだった。帰りの電車。
美月は窓に映る自分を見た。まだ少し顔が熱い。
スマートフォンを開く。蓮から、
『今日帰したくなかった』
と来ている。美月は笑った。
『ちゃんと帰してください』
『次は知らない』
『怖い』
『嫌?』
美月は少し考えた。
『嫌じゃない』
送信。胸がまた速くなった。
そのままメッセージ一覧へ戻る。少し下に拓海の名前があった。
いつもなら、話したくなる。今日あったことを。
映画のこと。蓮のこと。
キスしたこと。でも美月の指は動かなかった。
――それ、俺に話すこと?拓海の言葉を思い出した。
「……これは駄目だよね」
小さく呟いた。スマートフォンを閉じた。
美月は知らなかった。それはほんの小さな変化だった。
これまで何でも話していた拓海に、初めて話さないことができた。そして拓海もまた、その日、美月から何の連絡も来なかったことに気づいていた。
夜11時。拓海はテレビをつけたままソファに座っていた。
スマートフォンはテーブルの上。一度も鳴らない。
何度か画面を見た。連絡がないなら、それでいい。
美月は彼氏と楽しく過ごしている。それが普通だ。
むしろ、これが正しい。拓海はそう思った。
午前0時を過ぎた。結局、美月から連絡は来なかった。
拓海はテレビを消した。寝室へ向かう途中、スマートフォンを手に取る。
美月とのトーク画面を開いた。最後のやり取りは3日前。
『またね』
美月が送った言葉で終わっている。拓海はしばらく画面を見た。
何も打たずに閉じた。寂しいと思った。
でも同時に。これでいい、とも思った。
美月には彼氏ができた。だったら自分は、少しずつ必要なくなっていく。
それが一番いいことなのだと。このときの拓海は、本気でそう思っていた。




