第3話 その顔を、俺に見せる
「拓海さん、女の子から相談されたら、なんでも答える?」
日曜日の午後、美月はアイスコーヒーのストローを指で回しながら聞いた。拓海は向かいでスマートフォンを見ていた。
「内容による」
「恋愛相談」
その瞬間、拓海の指が止まった。ほんの一瞬だったので、美月は気づかなかった。
「俺に聞く?」
「聞く」
「人選間違ってるだろ」
「なんで?」
「俺の恋愛経験知ってるだろ」
「少ないよね」
「はっきり言うな」
美月が笑った。二人がいるのは駅近くのファミリーレストランだった。
美月が、
「レポートやるから付き合って」
と連絡してきたのが昼前。拓海は家で洗濯をしていた。
『なんで俺が必要なの』
と返したら、
『一人だと絶対やらない』
と返ってきた。それで来た。
拓海は本を読み、美月はノートパソコンを開いている。もっとも、来てから1時間以上経つのに、レポートはほとんど進んでいない。
「で?」
拓海がスマートフォンをテーブルに置いた。
「何を聞きたいの」
美月は少し迷った。
「男の人って、好きじゃなくても二人でご飯行く?」
拓海は美月を見た。
「行くだろ」
「行くんだ」
「女だって行くだろ」
「まあね」
「それだけ?」
「じゃあ、また会いたいって言う?」
「言う人は言う」
「毎日LINEする?」
「する人はする」
美月が不満そうな顔をした。
「全然参考にならない」
「質問が悪い」
「じゃあどう聞けばいいの」
「その男がお前を好きか知りたい、って聞けば」
美月の手が止まった。拓海はそれを見て、少しだけ後悔した。
当たったらしい。
「……別に私とは言ってないけど」
「はいはい」
「友達かもしれないじゃん」
「じゃあ友達ってことにしとく」
「何、その言い方」
拓海はアイスコーヒーを飲んだ。美月は少し黙ったあと、ノートパソコンの画面へ目を戻した。
けれどキーボードには触れない。
「好きって、どうやったら分かるの?」
今度は少し小さな声だった。
「自分が?」
「うん」
拓海は返事に困った。それを俺に聞くのか。
そう思ったが、口にはしなかった。
「会いたいとかじゃない?」
「拓海さんには会いたいよ」
簡単に言われた。拓海は目を伏せた。
「そういう意味じゃなくて」
「どういう意味?」
「知らん」
「何それ」
「俺に聞くなよ」
美月が笑った。その顔を見て、拓海も仕方なく笑った。
「でもね」
美月が続けた。
「ちょっと違うんだよね」
「何が」
「拓海さんと会うのと」
拓海は黙って聞いた。
「拓海さんに会うときって、何も考えないの」
「もう少し言い方ない?」
「違う違う。いい意味で」
「何も考えないがいい意味になるのか」
「なるよ」
美月は笑ったあと、少し考えた。
「今日だってほぼすっぴんだし」
「知らんがな」
「服も適当だし」
「俺に失礼だな」
「だから違うって」
美月が笑う。
「拓海さんなら別にいいの」
その言葉は、美月にとって最大級の信頼だった。拓海にも分かっている。
分かっているから、余計に痛かった。
「でも、その人と会うときは?」
拓海から聞いた。美月は少し恥ずかしそうに笑った。
「服、考える」
「うん」
「髪もちゃんとする」
「うん」
「LINE来たらちょっと嬉しい」
「それなら答え出てんじゃない」
「そうなのかな」
美月はストローをくるくる回した。その横顔を見ながら、拓海は思った。
たぶん、そうだ。自分には一度も見せなかった顔だった。
「どんな奴?」
気づけば聞いていた。
「え?」
「その男」
美月は一瞬迷った。隠す必要がないと思ったのか、スマートフォンを取った。
「同じ大学の人」
「同級生?」
「うん」
「最近知り合った?」
「前から顔は知ってたけど、話すようになったのは最近」
拓海は頷いた。
「佐伯蓮くん」
名前まで聞くと急に現実味が出た。知らない男。
美月と同じ大学。同じ年齢。
同じ場所で毎日を過ごしている。拓海には入れない世界だった。
「格好いい?」
拓海が聞いた。美月が笑った。
「なんでそこ聞くの?」
「大事だろ」
「拓海さんが聞く?」
「喧嘩売ってんのか」
美月が声を出して笑った。
「格好いいよ」
そう答えたときの美月の顔を、拓海は見てしまった。嬉しそうだった。
それで十分だった。
「写真ある?」
「見る?」
「あるんだ」
「インスタ」
美月がスマートフォンを操作して、拓海に見せた。男友達と並んでいる写真。
拓海は数秒見て返した。
「なるほど」
「何がなるほど?」
「モテそう」
「でしょ」
「なんでお前が得意げなんだよ」
「別に」
また笑う。拓海も笑った。
ただ、スマートフォンを返すとき、自分の手が少しだけ重く感じた。その日の夜。
拓海は一人でコンビニへ行った。夕食を適当に済ませたせいで腹が減った。
カップ麺とおにぎりを籠に入れ、レジへ向かう。スマートフォンが震えた。
美月。
『今日はありがとう』
拓海は歩きながら返した。
『レポートほとんどやってないけどな』
すぐ既読。
『帰ってからちゃんとやった』
『偉い』
『子供扱いしないで』
拓海は笑った。そのあと少し間が空いた。
また通知。
『あとさ』
嫌な予感がした。
『蓮くんのこと』
拓海は画面を見たまま立ち止まった。
『たぶん好きかも』
コンビニの冷蔵ケースが低い音を立てている。拓海は何度か文字を打った。
消した。また打った。
結局送ったのは、
『そっか』
だけだった。すぐに返事が来た。
『何その反応笑』
拓海は少し考えた。
『よかったじゃん』
送る。今度は少し間が空いた。
『うん』
続けて、
『なんか久しぶりにこういう感じ』
ハートも絵文字もない。それでも美月が嬉しいことは分かった。
『楽しめばいいんじゃない』
拓海はそう返した。美月から、
『ありがとう』
と来た。家に帰る。
電気をつける。静かな部屋だった。
買ってきたものをテーブルへ置き、スーツの上着を脱ぐ。冷蔵庫からビールを出そうとして、やめた。
代わりに水を取った。椅子に座る。
さっき見た男の顔が浮かんだ。佐伯蓮。
格好いい男だった。美月と並んだところを想像する。
似合うだろうなと思った。
「何やってんだ、俺」
一人で笑った。半年前に振られている。
答えはとっくに出ている。それでも美月が自分を頼ってくれるから、どこかで関係が続いているような気になっていただけだ。
拓海はスマートフォンを伏せた。その夜は、美月からもう連絡は来なかった。
それから美月と蓮の距離は急速に縮まった。大学では一緒にいる時間が増えた。
二人で昼を食べることもあった。講義が終われば蓮から、
「今日どうする?」
と声をかけられる。毎回デートをするわけではない。
駅まで一緒に帰るだけの日もある。コンビニで飲み物を買って大学のベンチで話すだけの日もある。
それが楽しかった。蓮は人との距離を縮めるのがうまかった。
「今日、髪違う?」
ほんの少し巻き方を変えただけでも気づく。
「ネイル変えた?」
色を変えれば気づく。
「その服似合う」
自然に言う。美月は最初、
「よく見てるね」
と笑っていた。そのうち、気づいてもらえることを期待するようになった。
金曜日。二人で食事をした帰りだった。
駅前の大通りを歩いている。信号が赤になる。
並んで止まった。蓮が突然言った。
「美月って呼んでいい?」
美月は蓮を見た。今までずっと水瀬だった。
「急だね」
「嫌?」
「嫌じゃないけど」
「じゃあ美月」
名前を呼ばれただけだった。なのに胸が跳ねた。
「何?」
「呼んだだけ」
「意味分かんない」
美月は笑った。信号が青になった。
歩き出す。人が多かった。
反対側から来る人を避けようとしたとき、蓮が美月の腕を軽く引いた。ほんの一瞬。
すぐ離れた。
「危な」
「ごめん」
「なんで美月が謝るの」
また名前。美月は自分の顔が熱くなっているのが分かった。
駅へ着いても、二人ともすぐには改札へ入らなかった。
「明日何してんの?」
蓮が聞いた。
「友達と買い物」
「男?」
「女の子」
「そっか」
「何?」
「いや、男だったら嫌だなと思って」
美月は蓮を見た。蓮は笑っている。
冗談なのか、本気なのか分からない。
「なんで佐伯くんが嫌なの?」
わざと聞いた。
「分かんない?」
蓮が一歩近づいた。さっきまで普通に話していたのに、美月は急に緊張した。
「分かんない」
本当は少し分かっていた。蓮はしばらく美月を見ていた。
「俺、美月のこと好きだよ」
周囲にはたくさん人がいた。電車の到着を知らせる音も聞こえる。
それなのに、その言葉だけが妙にはっきり聞こえた。
「付き合ってほしい」
美月はすぐに答えられなかった。嫌だからではない。
嬉しかったからだ。胸が速い。
顔も熱い。蓮の顔をまともに見られない。
こんな感覚は久しぶりだった。
「……うん」
それだけ言った。
「マジ?」
「何その反応」
「いや、普通に嬉しい」
蓮が笑った。美月も笑った。
「じゃあ今日から彼女?」
「そうなんじゃない?」
「美月」
「何?」
「こっち見て」
美月が顔を上げる。蓮が嬉しそうに笑っていた。
その顔を見た瞬間、美月も嬉しくなった。好きなんだ。
今度は、はっきりそう思った。帰りの電車。
座席に座ってからも気持ちが落ち着かなかった。蓮からすぐにメッセージが来た。
『もう会いたい』
美月は思わず笑った。
『さっき別れたばっかりじゃん』
『明日会えないから』
『明後日は?』
『会う』
『決定?』
『彼氏なので』
美月はスマートフォンを胸元に寄せた。幸せだった。
家に着いて部屋へ入る。バッグを置く。
ベッドに腰を下ろす。誰かに話したかった。
千紘には明日会う。母親にはまだいい。
そう考えて。真っ先に浮かんだのは拓海だった。
美月はスマートフォンを開いた。拓海とのトーク画面。
『拓海さん』
送る。少しして既読がついた。
『ん?』
美月は文字を打った。
『蓮くんと付き合うことになった』
送信。既読がつく。
返事が来ない。1分。
2分。美月は少し不安になった。
当然だった。拓海が自分を好きなことを知っている。
それなのに、真っ先に報告した。今になって、その残酷さに気づいた。
消せない。
『ごめん』
と打ちかける。そのとき返事が来た。
『おめでとう』
美月は画面を見つめた。それから、
『ありがとう』
と返した。しばらくしてもう一通来た。
『変な男じゃないといいな笑』
美月は少しだけ安心した。
『大丈夫だよ』
『ならよし』
いつもの拓海だった。美月は笑った。
一方。拓海は自宅のベランダに出ていた。
スマートフォンを握ったまま、夜の街を見ている。祝福した。
自分でそう決めた。美月が嬉しいなら、それでいい。
嘘ではない。本当にそう思っている。
それなのに胸の奥が痛かった。拓海は画面をもう一度見た。
『蓮くんと付き合うことになった』
短い一文。何度読んでも意味は変わらない。
美月に彼氏ができた。拓海はスマートフォンをポケットへ入れた。
夜風が少し冷たかった。
「おめでとう、か」
自分で送った言葉を口にする。笑おうとした。
うまく笑えなかった。翌朝。
美月は蓮からのメッセージで目を覚ました。
『おはよ、彼女』
思わず布団の中で笑った。
『おはよ、彼氏』
返す。すぐ既読がついた。
そのやり取りだけで朝から嬉しい。鏡の前に立つ。
昨日までと同じ自分なのに、少し違って見えた。拓海から連絡はなかった。
それは特に気にならなかった。今、美月の頭の中は蓮でいっぱいだった。
その日の午後。拓海は奈緒と亮介と三人で昼を食べていた。
亮介がラーメンをすすりながら聞いた。
「そういや最近、美月ちゃん来ないな」
拓海は水を飲んだ。
「彼氏できたって」
亮介が箸を止めた。
「マジ?」
「うん」
「お前じゃなくて?」
「俺だったら彼氏できたって言い方しないだろ」
「それもそうか」
亮介は笑った。奈緒は笑わなかった。
拓海を見ている。
「大丈夫?」
「何が」
「何がって」
「大丈夫だよ」
拓海は普通にラーメンを食べた。亮介が言う。
「まあでも、そのうち別れるかもしれんしな」
拓海の箸が止まった。
「そういうこと言うなよ」
「なんで?」
「美月が好きで付き合ったんだから、続いたほうがいいだろ」
亮介が呆れたような顔をした。
「お前、本当に意味分からんな」
「何が」
「普通、好きな女に彼氏できたら別れろって思うだろ」
「思わん」
即答した。奈緒だけが黙っていた。
店を出たあと、亮介は先に帰った。奈緒と拓海が駅まで歩く。
奈緒が言った。
「拓海」
「ん?」
「本当にそれでいいの?」
拓海は前を向いたまま答えた。
「いいも何もないだろ」
「でも」
「美月が選んだんだから」
奈緒は何も言わなくなった。しばらく歩く。
拓海が笑った。
「そんな顔すんなよ」
「どんな顔」
「俺が振られたみたいな」
「振られてるじゃん」
「二回目みたいに言うな」
奈緒は笑わなかった。
「拓海」
「ん?」
「あんたさ」
少し間を置いた。
「いつまで美月ちゃんの一番都合のいい人でいるつもり?」
拓海は足を止めた。奈緒も止まる。
「言い方」
「ごめん。でも私はそう見える」
「美月は――」
「分かってんの。悪気ないんでしょ」
先に言われた。拓海は黙った。
奈緒は少し声を落とした。
「でも彼氏できたんだよ」
「うん」
「これから美月ちゃんが寂しいとき、誰が隣にいるの?」
拓海は答えなかった。
「嬉しいことがあったときは?」
「……彼氏だろ」
「じゃあ、あんたは?」
拓海は少し笑った。
「友達」
奈緒はしばらく拓海を見ていた。
「それ、本当にできる?」
今度は拓海が答えられなかった。その夜。
美月からメッセージが来た。
『拓海さん』
いつもならすぐ開く。拓海は画面を見たまま少し待った。
30秒ほど。それから開いた。
『蓮くんがさ』
その文字を見た瞬間、拓海は目を閉じた。やっぱり。
嬉しいことも。不安なことも。
美月は自分に話す。それが嬉しかった。
今までは。拓海はしばらく考えてから、
『どうした?』
と返した。美月からすぐに長い文章が送られてくる。
拓海は読み始めた。選んだのは拓海ではない。
それでも、その恋について一番話したい相手は自分だった。




