第15話 別れたあとに残るもの
別れて1週間が経った。美月はまだ、朝起きるたびにスマートフォンを見た。
蓮から、
『おはよ』
と来ている気がした。来ていない。
それを確認してから起きる。大学へ行く。
講義を受ける。千紘と昼食を食べる。
帰宅する。生活は普通に続いていた。
蓮がいなくなっても、世界は何も変わらなかった。それが少し腹立たしかった。
こんなに苦しいのに。電車は時間通り来る。
講義は始まる。友達は笑う。
コンビニには新商品が並ぶ。自分だけが止まっているような気がした。
蓮とのトーク画面は消していなかった。写真も残っている。
何度も開く。最後のやり取り。
『ちゃんと話したい』
そのあと二人は会い、別れた。それ以降、蓮から連絡はなかった。
美月も送っていない。
「戻りたい」
夜になると何度も思った。一度くらいなら。
『元気?』
と送ってもいいのではないか。別れたからといって、もう二度と話してはいけないわけではない。
そう考えて。毎回やめた。
千紘には、
「送りたくなったら、私に送って」
と言われた。だから深夜1時に、
『蓮くんにLINEしたい』
と千紘へ送ったこともある。翌朝。
『寝てた』
と返ってきた。美月は笑った。
『役に立たない』
『夜中の1時は寝る時間です』
『友達失格』
『元彼に連絡しなかったから結果オーライ』
そんなやり取りに少し救われた。拓海には、まだ別れたことを言っていなかった。
言おうと思えば、いつでも言えた。でも。
別れた瞬間に拓海へ戻るようなことはしたくなかった。奈緒に言われたことを直接聞いたわけではない。
それでも美月自身、少しずつ分かり始めていた。自分は拓海に甘えていた。
蓮とのことで不安になる。拓海に話す。
安心する。また蓮のところへ戻る。
その繰り返しだった。拓海が何も言わないから。
受け止めてくれるから。それを当たり前のように使っていた。
悪気はなかった。でも。
悪気がないことと、相手を傷つけないことは違う。そこまで考えると、胸が痛くなった。
土曜日。美月は千紘と買い物へ出た。
久しぶりだった。蓮と付き合っていたころ、急に呼ばれて千紘との予定を変えたことを思い出す。
「千紘」
「何?」
「前さ」
「うん」
「買い物行く約束してたのに、蓮くに呼ばれて断ったことあったじゃん」
「あったね」
「ごめん」
千紘が美月を見る。
「急にどうしたの」
「今思い出した」
「別にいいよ」
「嫌じゃなかった?」
「ちょっとは」
美月が止まる。
「嫌だったんだ」
「そりゃね」
千紘は笑った。
「でも付き合いたてだったし」
「私、結構ひどかった?」
「そこまでじゃない」
「ほんと?」
「ただ、佐伯くん中心になってた」
美月は黙った。
「拓海さんにも同じだったのかな」
千紘が少し考える。
「何が?」
「私」
美月は歩きながら言った。
「蓮くん中心になって」
「うん」
「蓮くんとうまくいかないと、拓海さんに連絡して」
「うん」
「うまくいったら、また蓮くんのところ行って」
千紘は何も言わなかった。
「最低かな」
「それは私が決めることじゃない」
「でも」
「拓海さんが嫌なら断ればよかったんじゃない?」
美月は少し驚いた。
「断らなかったよ」
「じゃあ拓海さんも、自分で選んでたんでしょ」
「……うん」
「美月だけが全部悪いって話でもないと思う」
千紘は服を手に取る。
「でも」
「何?」
「美月が、拓海さんなら絶対断らないって思ってたなら」
美月は止まった。千紘は服を見ながら続けた。
「そこはちょっと甘えてたんじゃない?」
胸に刺さった。美月は思い出した。
――拓海さんだけは、何しても私のこと嫌いにならない気がしてた。自分で言った。
拓海は、――それは駄目だろ。と言った。
今になって意味が分かった。
「……そうかも」
美月が言った。千紘はそれ以上責めなかった。
二人は買い物を続けた。昼食を食べる。
服を見る。化粧品を見る。
久しぶりに楽しかった。夕方。
千紘と別れ、一人で電車に乗った。スマートフォンを見る。
拓海からメッセージが来ていた。
『来週の土曜、暇?』
美月は驚いた。
『暇』
すぐ返した。
『亮介がまたBBQやりたいって』
美月は少し笑った。
『寒くない?』
『俺もそう言った』
『行くの?』
『たぶん室内になる』
『じゃあBBQじゃないじゃん』
『亮介に言え』
久しぶりに、以前のようなやり取りだった。美月は少し嬉しくなった。
『行く』
『了解』
そこで終わった。美月はスマートフォンを見た。
言うなら今かもしれない。
『蓮くんと別れた』
打った。指が止まる。
少し考えて。送った。
既読はすぐにつかなかった。5分。
10分。美月は少し緊張した。
15分後。既読。
『そっか』
それだけだった。美月は少し拍子抜けした。
『それだけ?』
すぐ返事。
『何て言えばいい?』
以前にも似たやり取りをした。美月は少し笑った。
『分かんない』
『じゃあそれだけ』
美月は画面を見た。拓海は理由を聞かない。
『聞かないの?』
『何を?』
『なんで別れたか』
少し間があった。
『話したいなら聞くよ』
美月はその文章を見た。以前なら。
「何があった?」
「大丈夫?」
拓海から聞いてくれた。今は違う。
美月が話すなら聞く。話さないなら聞かない。
その距離が少し寂しくて。でも、少しだけ楽だった。
『今日はいい』
『分かった』
美月は続けて送った。
『拓海さん』
『何?』
『私が別れたって聞いて嬉しい?』
送ってから後悔した。何を聞いているのだろう。
返事がなかなか来なかった。1分。
2分。
『少しは』
美月の胸が動いた。正直だった。
続けて。
『でも美月が傷ついてるなら、よかったとは思わない』
美月は画面を見た。
『そっか』
『うん』
『まだ好きなんだ』
送る。拓海から。
『蓮のこと?』
『うん』
少し間があった。
『そりゃすぐには消えないだろ』
美月の目に涙が溜まった。
『戻りたいって思う』
『うん』
『でも戻らないほうがいいとも思う』
『うん』
『分かんない』
拓海からの返事は少し遅かった。
『今決めなくていいんじゃない』
千紘と同じだった。美月は少し笑った。
『千紘にも同じこと言われた』
『じゃあ千紘のほうが俺より優秀だな』
『調子乗るから本人には言わない』
『言ってやれよ』
久しぶりに。美月は拓海とのやり取りで笑った。
でも。以前のように電話しようとは言わなかった。
拓海からも言わなかった。その夜はそこで終わった。
翌週の土曜日。亮介が企画した「BBQ」は、結局レンタルスペースでの飲み会になった。
「だから言っただろ」
拓海が言う。亮介が缶ビールを開ける。
「寒かったんだから仕方ない」
「最初から分かるだろ」
「冬のBBQもいいと思ったんだよ」
奈緒が呆れる。
「誰も賛成してないのに予約しようとしてたよね」
「結果楽しいからいいだろ」
「まだ始まったばっか」
美月はそのやり取りを見て笑った。久しぶりだった。
このメンバーと会うのも。拓海を見るのも。
「美月ちゃん」
奈緒が声をかける。
「はい」
「これ飲む?」
「ありがとうございます」
缶のジュースを渡される。
「彼氏は?」
奈緒が何気なく聞いた。美月は少し止まった。
「別れました」
奈緒の手が止まる。
「あ、そうなんだ」
「はい」
「いつ?」
「2週間くらい前です」
「そっか」
奈緒はそれ以上聞かなかった。
「美月ちゃん、これ開ける?」
「大丈夫です」
「固かったら貸して」
いつも通りだった。美月は少し意外だった。
もっと何か言われると思った。理由は分からないけれど、奈緒が自分をあまり好きではないことには薄々気づいていた。
それでも奈緒は何も言わなかった。しばらくして。
拓海がキッチンで皿を洗っていた。美月が隣へ行く。
「手伝う」
「いいよ」
「私もやる」
「じゃあ拭いて」
「うん」
拓海が洗う。美月が拭く。
少し懐かしかった。
「拓海さん」
「ん?」
「久しぶりだね」
「何が?」
「こうやって会うの」
「そうだな」
「何とも思わなかった?」
「何が」
「会わなくなって」
拓海が皿を洗いながら答える。
「寂しかったよ」
美月の手が止まる。拓海は普通に続けた。
「でも慣れた」
胸が少し痛んだ。
「慣れたんだ」
「そりゃ慣れるだろ」
「そうなんだ」
「何その顔」
「別に」
拓海が笑った。美月は皿を拭く。
「拓海さん」
「ん?」
「私ね」
少し迷う。
「最近、考えてた」
「何を?」
「私、拓海さんに甘えすぎてたかも」
拓海の手が少し止まった。
「急にどうした」
「蓮くんと別れてから」
「うん」
「いろいろ考えた」
拓海はまた皿を洗い始める。美月が続けた。
「困ったら拓海さん」
「うん」
「寂しくなったら拓海さん」
「うん」
「蓮くんとうまくいったら、連絡しなくなって」
拓海は何も言わない。
「ひどかった?」
美月が聞く。拓海は少し考えた。
「ひどいっていうか」
「うん」
「俺も自分でやってたことだから」
「でも」
「美月が無理やりやらせたわけじゃない」
「うん」
「俺が好きでやってた」
美月は俯く。
「それが一番嫌」
拓海が美月を見る。
「何が?」
「拓海さんがそう言うの」
「なんで」
「だって全部、自分のせいにするじゃん」
拓海は少し驚いた。美月は続けた。
「私も悪かったって言ってるのに」
「悪い悪くないの話じゃないだろ」
「じゃあ」
美月は皿を置いた。
「傷つかなかった?」
拓海は黙った。美月は初めて、逃げずに聞いた。
「私が蓮くんのことで泣いて、拓海さんに慰めてもらって」
「うん」
「次の日には蓮くんのところ戻って」
「うん」
「それ、傷つかなかった?」
拓海は蛇口を止めた。水の音が消える。
少し離れた部屋から、亮介たちの笑い声が聞こえる。
「傷ついたよ」
拓海が言った。美月は息を止めた。
「普通に」
拓海は笑わなかった。
「何回も」
美月の胸が締めつけられた。
「……ごめん」
「謝らなくていい」
「でも」
「俺も断ればよかったんだから」
「またそれ」
美月の声が少し強くなった。拓海が黙る。
「今は」
美月は言った。
「ごめんって言わせて」
拓海は美月を見る。しばらくして。
「分かった」
と言った。美月の目に涙が溜まった。
「ごめんなさい」
拓海は小さく頷いた。
「うん」
それだけだった。許すとも。
気にするなとも。言わなかった。
美月には、そのほうがありがたかった。少しして拓海が蛇口を開く。
「泣くなら向こう行けよ」
「なんで」
「皿拭けないだろ」
「拭ける」
「涙で濡れる」
「汚いみたいに言わないで」
拓海が笑う。美月も泣きながら笑った。
その様子を。キッチンの入口から奈緒が見ていた。
声はかけなかった。しばらく見て。
静かに戻った。飲み会が終わったあと。
美月と奈緒は同じ方向の電車だった。拓海は反対方向。
亮介たちとも駅で別れた。車内。
二人並んで座る。少し気まずかった。
奈緒が先に口を開いた。
「美月ちゃん」
「はい」
「別れたんだね」
「はい」
「辛かった?」
美月は少し考えた。
「まだ辛いです」
「そっか」
奈緒は前を見る。美月は勇気を出した。
「奈緒さん」
「何?」
「私のこと、嫌いですよね」
奈緒の顔が止まった。美月は緊張した。
でも。奈緒は否定しなかった。
「うん」
美月の胸が少し痛んだ。あまりに即答だった。
奈緒が続ける。
「嫌いだった」
美月が顔を上げた。過去形。
「今は?」
奈緒は少し考えた。
「まだ好きではない」
美月は思わず笑った。
「正直ですね」
「聞いたの美月ちゃんでしょ」
「そうですけど」
奈緒も少し笑った。
「でも」
奈緒は窓を見る。
「前ほど嫌いじゃない」
美月は黙った。
「何で嫌いだったんですか?」
「聞きたい?」
「はい」
奈緒は少し考えた。
「拓海のこと、都合よく使ってるように見えたから」
美月は目を伏せた。やっぱり。
「付き合う気はない」
奈緒は言う。
「でも寂しくなったら拓海」
「困ったら拓海」
「彼氏に泣かされたら拓海」
「で、元気になったら彼氏のところに戻る」
美月は何も言えなかった。
「悪気ないのも分かってた」
奈緒が続ける。
「だから余計嫌だった」
「なんでですか?」
「悪気あるなら拓海も怒れるから」
美月は奈緒を見る。
「でも美月ちゃん、拓海のこと本当に大事にしてたでしょ」
「……はい」
「信頼もしてた」
「はい」
「だから拓海も怒れない」
奈緒は小さく息を吐いた。
「ずっと自分が我慢すればいいと思ってた」
美月は今日、キッチンで拓海が言ったことを思い出した。――俺も断ればよかったんだから。
「私」
美月が言った。
「拓海さんを利用してたんでしょうか」
奈緒はすぐには答えなかった。電車が駅へ止まる。
数人が降りる。ドアが閉まる。
動き出す。奈緒が言った。
「利用しようとはしてなかったと思うよ」
美月は顔を上げる。
「でも」
奈緒は続けた。
「拓海が自分を好きだからしてくれてたことを」
少し間を置く。
「いつの間にか、『拓海ならしてくれること』に変えちゃったんじゃない?」
美月は何も言えなかった。胸の奥に、その言葉が落ちた。
拓海なら来てくれる。拓海なら聞いてくれる。
拓海なら怒らない。拓海なら嫌いにならない。
全部。そう思っていた。
「……そうかもしれません」
美月が言った。奈緒はそれ以上何も言わなかった。
しばらくして、美月の降りる駅が近づく。美月は立ち上がった。
「奈緒さん」
「何?」
「ありがとうございます」
「何が?」
「ちゃんと言ってくれて」
奈緒は少し困った顔をした。
「私、美月ちゃん慰めてないよ」
「分かってます」
美月は笑った。
「だからです」
電車が止まる。美月が降りる。
ホームから奈緒へ頭を下げた。ドアが閉まる。
電車が走り出す。美月は一人でホームに立った。
寒かった。コートのポケットへ手を入れる。
スマートフォンがある。以前なら。
今日奈緒に言われたことを、拓海に話したかもしれない。でも。
美月は取り出さなかった。拓海なら聞いてくれる。
そう思うことと。だから話すことは。
同じではない。美月は少しずつ。
その違いを覚え始めていた。




