第14話 好きなまま別れる
蓮からの連絡を返さないまま、3日が過ぎた。無視するつもりではなかった。
何と返せばいいのか分からなかった。
『話したい』
『電話でもいいから』
『美月』
『怒ってるなら謝る』
メッセージは何度も来た。美月は全部読んだ。
返事を書いては消した。別れたいのか。
まだ分からない。続けたいのか。
それも分からない。ただ一つだけ分かっていた。
今までと同じところへ戻るのは嫌だった。4日目の夜。
蓮から電話がかかってきた。美月は画面を見た。
しばらく迷ってから出た。
「もしもし」
『やっと出た』
蓮の声だった。怒っているようには聞こえなかった。
「ごめん」
反射的に言ってから、美月は少し嫌になった。また謝った。
『会えない?』
「今?」
『今日じゃなくていい』
「……うん」
『ちゃんと話そう』
美月は少し黙った。
「明日なら」
『何時?』
「5時くらい」
『大学のあと?』
「うん」
『分かった』
電話を切る前に、蓮が言った。
『美月』
「何?」
『俺、別れたいわけじゃないから』
胸が痛んだ。
「うん」
それだけ答えた。翌日。
待ち合わせ場所へ向かう途中、美月は何度も帰りたくなった。会えば気持ちが揺れる。
分かっていた。蓮の顔が好きだった。
声も好きだった。笑ったときの少し細くなる目も。
歩いていると自然に手をつないでくるところも。嫌いになれたら楽だった。
午後5時。蓮は先に来ていた。
駅前の広場。ベンチから立ち上がる。
「美月」
「うん」
「どっか入る?」
「歩きながらでいい」
蓮が少し驚いた。
「寒くない?」
「大丈夫」
二人で歩き始めた。最初は何も話さなかった。
人の流れに合わせて歩く。しばらくして、蓮が言った。
「この前のことだけど」
「うん」
「本当に旅行の日はバイトだから」
「うん」
「信じてない?」
美月は少し考えた。
「分かんない」
蓮が足を止めた。
「分かんないって何?」
美月も止まる。
「本当かもしれないって思ってる」
「本当だよ」
「うん」
「じゃあ何?」
「でも、嘘かもしれないとも思ってる」
蓮の顔が曇った。
「それ、俺のこと信用してないってことじゃん」
「うん」
美月は初めて認めた。蓮が黙る。
「信用できなくなった」
美月は言った。言葉にすると苦しかった。
「麻衣さんのことだけじゃない」
「じゃあ何?」
「嘘ついたこと」
「それは謝ったじゃん」
「うん」
「もうしないって言った」
「うん」
「じゃあどうしたらいいんだよ」
蓮の声に苛立ちが混じった。美月はそれを聞いても、以前ほど怖くなかった。
「分かんない」
「またそれ?」
「本当に分かんないの」
美月は蓮を見る。
「私が、どうしたらまた蓮くんを信じられるのか分からない」
蓮は黙った。
「この前、麻衣さんといたって聞いただけで、また疑った」
「何もしてない」
「うん」
「だったら」
「だから」
美月が遮った。
「何もしてないかどうかを、毎回確認しないと安心できないのが嫌なの」
蓮は何も言わなかった。
「蓮くんがどこにいるのか」
「誰といるのか」
「LINEが来ないのはなんでなのか」
「本当のこと言ってるのか」
美月の目に涙が溜まった。
「そんなことばっかり考える自分が嫌」
蓮が小さく息を吐いた。
「じゃあ、俺が全部連絡すればいい?」
「違う」
「位置情報でも送ればいい?」
「違うよ」
「じゃあどうしろっていうの?」
美月は首を振った。
「そういうことじゃない」
「分かんないよ」
蓮も苦しそうだった。
「俺だって、美月が何考えてるか分かんない」
「うん」
「ちゃんと連絡するようにした」
「うん」
「麻衣とも距離取った」
「うん」
「旅行だって行こうとした」
「うん」
「俺なりにやったよ」
美月の涙が落ちた。
「分かってる」
「じゃあ何で?」
美月は答えられなかった。蓮は変わろうとした。
それは本当だった。少なくとも一度は。
連絡も増えた。予定も守った。
美月を安心させようとしてくれた。だからこそ苦しかった。
全部が嘘だったとは思えない。
「美月」
蓮が近づく。
「もう一回やろうよ」
美月の胸が締めつけられた。
「俺、美月のこと好きだから」
その言葉。何度も美月を救った。
今も嬉しかった。嬉しいから、余計に苦しかった。
蓮が美月の手を握る。美月は振りほどかなかった。
温かかった。好きな人の手だった。
「美月も俺のこと好きだろ?」
美月は泣きながら頷いた。
「好き」
蓮の表情が少し緩む。
「じゃあ」
「でも」
美月が言った。蓮の顔が止まる。
「好きだけど」
美月は握られた手を見る。
「もう、疲れた」
蓮は何も言わなかった。
「蓮くんのこと嫌いになったわけじゃない」
「じゃあ別れる必要ないじゃん」
「あるよ」
「何で?」
「私が私じゃなくなるから」
蓮の眉が寄る。美月自身も、うまく説明できなかった。
「蓮くんといると」
ゆっくり言葉を探した。
「最初は楽しかった」
「うん」
「すごく好きだった」
「今も好きなんだろ?」
「好き」
「だったら」
「聞いて」
美月の声が少し強くなった。蓮が黙る。
「好きだから、嫌われたくなかった」
「うん」
「だから聞きたいことも聞けなくなった」
「……」
「面倒くさいって思われたくなくて」
「……」
「怒らせたくなくて」
涙を拭う。
「自分が嫌だって思ったことまで、私が気にしすぎなんだって思うようになった」
蓮は目を逸らした。
「それがしんどかった」
美月は言った。
「蓮くんが全部悪いって言いたいんじゃない」
「じゃあ俺だけが悪いわけじゃないだろ」
「うん」
美月は頷いた。
「私も悪かった」
「だったら直せば」
「違う」
美月は首を振った。
「どっちが悪いか決めたいんじゃない」
蓮が美月を見る。
「もう、この付き合い方を続けたくないの」
初めて、はっきり言えた。蓮の手から力が抜ける。
美月はゆっくり手を離した。
「別れたい」
言った瞬間。涙が溢れた。
自分から言ったのに。苦しかった。
蓮はしばらく何も言わなかった。
「……本気?」
「うん」
「俺が麻衣と浮気したと思ってるから?」
「違う」
「じゃあ何なんだよ」
「今話したこと全部」
「納得できない」
「うん」
「俺は別れたくない」
美月は泣いた。
「ごめん」
「謝るなら別れんなよ」
その言葉に、美月は何も返せなかった。蓮も苦しそうだった。
「俺、美月のことちゃんと好きだったよ」
美月の胸が痛んだ。
「うん」
「遊びじゃない」
「うん」
「それだけは信じて」
美月は蓮を見る。
「信じたい」
「信じたいじゃなくて」
「分かんないから」
蓮が黙った。美月は続けた。
「でも、全部が嘘だったとは思ってないよ」
蓮の目が少し赤くなった。
「楽しかったことも本当だった」
「……うん」
「好きだったのも本当」
「だった?」
美月は答えられなかった。今も好きだ。
でもここで「今も」と言えば、また戻ってしまう気がした。蓮が苦笑した。
「美月、ずるいな」
「うん」
「好きって言っといて別れるんだ」
「ごめん」
「だから謝んなって」
蓮は空を見た。しばらく二人とも黙っていた。
「最後に一個だけ聞いていい?」
蓮が言った。
「うん」
「拓海って人のところ行くの?」
美月は驚いた。
「行かないよ」
「ほんと?」
「拓海さんとはそういうんじゃない」
蓮が少し笑った。
「最後までそれなんだな」
「何が?」
「いや」
蓮は首を振った。
「何でもない」
二人は駅へ戻った。いつもなら改札の前で抱きしめた。
今日は少し離れて立っていた。
「じゃあ」
蓮が言う。
「うん」
「元気で」
「蓮くんも」
「旅行、行きたかったな」
美月の涙がまた出た。
「私も」
蓮が笑った。
「じゃあな」
「うん」
蓮が歩いていく。美月はその背中を見た。
呼び止めたいと思った。今ならまだ間に合う。
やっぱり別れたくない。そう言えば。
蓮はきっと戻ってくる。美月は唇を噛んだ。
呼ばなかった。蓮は一度も振り返らず、人混みの中へ消えた。
その瞬間。美月はその場にしゃがみ込みそうになった。
泣いた。好きだった。
本当に好きだった。別れて正解だったのかなんて分からない。
明日になれば後悔するかもしれない。それでも。
戻らなかった。その夜。
美月は自宅のベッドで泣いた。スマートフォンには蓮との写真が何百枚もあった。
最初のデート。映画館。
カフェ。蓮の部屋。
ショッピングモール。消せなかった。
一枚ずつ見る。写真の中の自分は笑っている。
全部が苦しかったわけではない。むしろ。
幸せだった時間のほうが多かったのかもしれない。だから余計に悲しかった。
午前0時を過ぎた。美月はメッセージ一覧を開いた。
拓海。指が止まる。
『別れた』
打った。しばらく見つめる。
送らなかった。消した。
今日は拓海に頼らない。そう決めた。
美月はスマートフォンを伏せた。一人で泣いた。
翌朝。目が腫れていた。
大学を休もうかと思った。でも行った。
千紘は美月の顔を見るだけで分かった。
「別れた?」
美月は頷いた。千紘は何も言わず、美月の隣に座った。
それだけで涙が出た。
「まだ好き」
美月が言った。
「うん」
「すごく好き」
「うん」
「戻りたい」
「うん」
千紘は否定しなかった。
「でも戻ったら駄目な気がする」
「うん」
「分かんない」
「今決めなくていいよ」
「別れたのに?」
「戻るかどうかの話」
千紘は言った。
「今日は別れた次の日なんだから、正しいかどうか決めなくていい」
美月は泣いた。千紘がティッシュを渡す。
「ありがとう」
「今日は授業終わったら何か食べに行こう」
「食欲ない」
「じゃあ私食べる」
美月は少し笑った。その日の夜。
拓海は奈緒と居酒屋にいた。
「最近、美月ちゃんどうしてる?」
奈緒が突然聞いた。拓海は焼き鳥を食べながら答える。
「知らない」
奈緒の箸が止まった。
「知らない?」
「最近連絡取ってないから」
「珍しい」
「彼氏とうまくやってんじゃない?」
拓海はビールを飲んだ。奈緒は少し拓海を見る。
「気にならない?」
「気にはなるよ」
「連絡しないの?」
「しない」
「なんで?」
拓海は少し考えた。
「俺が聞く必要ないから」
奈緒は何も言わなかった。
「美月ちゃんから来たら?」
「普通に返すよ」
「助けてって言ったら?」
拓海は少し黙る。
「できることなら」
奈緒がため息をつく。
「結局それなんだ」
「何だよ」
「いや」
奈緒は少し笑った。
「前よりマシになった」
「何様だよ」
「長年の友人様」
「うざ」
二人で笑った。拓海のスマートフォンは、テーブルの上に伏せられていた。
その夜。美月から連絡は来なかった。
拓海は、美月が別れたことを知らない。美月も。
拓海が自分のことを気にしながら、それでも連絡しなかったことを知らない。それでよかった。
少なくとも今は。別れたばかりの美月に必要だったのは。
自分をずっと好きでいてくれる男のところへ逃げることではなかった。好きな人と別れた痛みを。
誰かの好意で埋めずに、自分で受け止める時間だった。




