第13話 戻ったように見えた
蓮は本当に変わった。少なくとも、美月にはそう見えた。
朝。
『おはよ』
以前のように蓮からメッセージが来るようになった。美月が、
『おはよう。今日寒いね』
と返せば、
『ちゃんと上着着ろよ』
と返ってくる。講義が終わるころには、
『今日何時まで?』
と聞いてくる。会う約束も、前より早く決めるようになった。
「土曜日空けといて」
「何で?」
「この前言ってた映画」
「覚えてたの?」
「覚えてるよ」
「絶対忘れてると思ってた」
「俺そんな信用ない?」
蓮が笑う。美月も笑った。
麻衣の名前も出なくなった。美月の前で頻繁にスマートフォンを見ることもなくなった。
一緒にいるときは、美月を見てくれる。やり直せる。
美月はそう思った。千紘にも言った。
「最近、蓮くん変わったよ」
大学の食堂。千紘は唐揚げを食べながら、
「どう変わったの?」
と聞いた。
「ちゃんと連絡くれる」
「うん」
「予定も前もって決めてくれるし」
「うん」
「麻衣さんとも必要以上に連絡取ってないみたい」
千紘が少し眉を上げた。
「みたい?」
「スマホ見るわけじゃないから分かんないけど」
「それでいいんじゃない?」
「でしょ?」
美月は笑った。千紘も笑う。
「美月が元気になったならよかった」
「前そんなに元気なかった?」
「結構」
「嘘」
「ほんと」
美月は少し恥ずかしくなった。
「私、そんなだった?」
「ずっと佐伯くんのLINE気にしてた」
「してないよ」
「してた」
「してない」
「ご飯食べながら5分おきにスマホ見てた」
美月は笑った。
「盛ってるでしょ」
「盛ってない」
二人で笑った。その日の午後。
美月は蓮と駅前で待ち合わせた。約束は午後5時。
蓮が来たのは4時58分だった。
「珍しい」
美月が言う。
「何が?」
「遅刻してない」
「俺、そんな遅刻する?」
「する」
「しないだろ」
「するよ」
蓮が美月の手を握る。
「今日はしてないからいいじゃん」
「まあね」
美月も握り返した。二人で服を見た。
蓮が試着する。
「どう?」
「似合う」
「ほんと?」
「うん」
「買おうかな」
「高くない?」
「美月が似合うって言ったから」
「私のせいにしないでよ」
「じゃあ買って」
「もっと嫌」
蓮が笑う。以前の二人に戻ったようだった。
夕食を食べる。駅まで歩く。
途中で蓮が言った。
「温泉さ」
美月が顔を上げる。
「覚えてたんだ」
「だから忘れてないって」
蓮がスマートフォンを出す。
「来月どう?」
「本当に?」
「行こうよ」
美月は嬉しかった。
「行きたい」
「じゃあ決めよう」
二人でカレンダーを見る。美月の胸が軽くなった。
あのとき別れなくてよかった。そう思った。
もし千紘や拓海の言葉だけで別れていたら。蓮が変わろうとしていることも知らなかった。
人は間違える。付き合っていれば、考え方が違うこともある。
話せば分かることもある。美月はそう思った。
夜。自宅へ帰る。
蓮から、
『今日楽しかった』
と来た。
『私も』
『旅行楽しみ』
『うん』
『好き』
美月は笑った。
『私も好き』
スマートフォンを置く。幸せだった。
そのとき。ふと拓海のことを思い出した。
以前なら、今日あったことを話していた。蓮が時間通り来たこと。
服を買ったこと。温泉旅行を決めたこと。
でも。今は言わない。
美月はトーク一覧を見る。拓海との最後のやり取りは4日前。
『ちゃんと自分で決めろよ』
『うん』
そのあと、ほとんど話していない。美月は少しだけ寂しかった。
でも。これでいい。
蓮との関係がうまくいっているのだから。拓海に頼る必要はない。
そう思った。一方。
拓海も以前より、美月のことを考える時間が減っていた。なくなったわけではない。
朝起きれば、ちゃんと大学行ってるかな。昼飯を食べれば、美月はまた菓子パンだけで済ませてないか。
雨が降れば、傘持ってるかな。そんなことが頭に浮かぶ。
でも連絡はしない。気になったからといって、全部確認する必要はない。
そう思えるようになっていた。金曜日。
会社の同僚数人と飲みに行った。拓海は普段あまり参加しないメンバーだった。
「相沢さん来るの珍しいですね」
後輩が言う。
「俺だって飲むよ」
「いつも誘っても予定あるじゃないですか」
「最近暇だから」
「彼女と別れました?」
「彼女いたことになってんの?」
「だっていつも誰かと電話してたじゃないですか」
拓海はビールを飲んだ。
「友達」
「女?」
「女」
「それ友達なんですか?」
「友達だよ」
周囲が笑った。拓海も笑った。
以前なら、こういう場でもスマートフォンを何度も見ていた。美月から連絡が来ていないか。
着信がないか。今日は一度も見なかった。
飲み会が終わったのは午後10時半。駅へ向かう途中、スマートフォンを確認する。
美月からは何もない。少し胸が動く。
でもそのままポケットへ戻した。これでいい。
拓海は駅へ向かった。それから2週間。
美月と蓮の関係は穏やかだった。連絡は来る。
約束も守る。会えば優しい。
美月の不安も少しずつ減っていった。ある土曜日。
二人はショッピングモールへ来ていた。旅行に持っていくものを見るためだった。
「これ可愛くない?」
美月が小さなポーチを持つ。
「何入れんの?」
「化粧品」
「今のじゃ駄目なの?」
「旅行用」
「違いが分からん」
「だから男の人は」
蓮が笑う。
「買えば?」
「どうしようかな」
「買ってやろうか?」
「ほんと?」
「そのくらいなら」
「じゃあこれ」
「即決かよ」
美月が笑う。レジへ向かう。
その途中。蓮が立ち止まった。
美月も止まる。
「どうしたの?」
蓮は前を見ていた。女性がいた。
美月もすぐ分かった。麻衣だった。
友人らしい女性と二人で歩いている。麻衣も蓮に気づいた。
一瞬。三人の間に微妙な空気が流れた。
「あ」
麻衣が先に笑った。
「蓮じゃん」
「おう」
蓮も普通に返す。麻衣が美月を見る。
美月は少し緊張した。
「こんにちは」
美月から頭を下げた。麻衣も笑う。
「こんにちは」
蓮が言った。
「水瀬美月」
美月の胸に小さな違和感が生まれた。麻衣が、
「知ってる」
と言った。美月が少し驚く。
「え?」
「あ」
麻衣が困ったように笑った。
「大学の写真とかで見たことあるから」
「そうなんですね」
「うん」
麻衣は蓮を見る。
「じゃあね」
「おう」
「またバイトで」
「うん」
それだけ。麻衣は友人と歩いていった。
美月はその背中を見る。蓮が言う。
「行こう」
「うん」
歩き始める。数歩。
美月は聞いた。
「ねえ」
「何?」
「今、私のこと何て紹介した?」
「え?」
「水瀬美月って」
「名前だろ」
「そうじゃなくて」
蓮が美月を見る。
「彼女って言わなかったよね」
蓮は少し黙った。
「言う必要ある?」
美月の胸がざわつく。
「普通言わない?」
「相手知ってるし」
「でも」
蓮が少し笑った。
「美月、またそれ?」
その言葉。美月は止まった。
「またって何?」
「気にしすぎ」
「気にしすぎなの?」
「だって名前で紹介しただけじゃん」
「麻衣さん、私が彼女って知ってるの?」
「知ってるんじゃない?」
「じゃないって何?」
蓮の顔に少し面倒そうな表情が出た。美月はそれを見た。
少し前なら、そこで黙っていた。今日は違った。
「聞いてるだけ」
「知ってるよ」
「ちゃんと?」
「うん」
「蓮くんが言ったの?」
蓮が黙った。美月の胸が沈む。
「言ってないの?」
「わざわざ言うことじゃないだろ」
「なんで?」
「なんでって」
「麻衣さん、蓮くんのこと好きなんでしょ?」
「美月」
「だったら普通言わない?」
「もうその話終わったじゃん」
「終わってないよ」
蓮が息を吐いた。美月はその音を聞いた。
まただ。自分が何か聞く。
蓮が面倒そうにする。自分が怖くなって黙る。
同じところへ戻りそうだった。でも美月は黙らなかった。
「私、嫌だよ」
蓮が美月を見る。
「何が?」
「彼女なのに、彼女って言ってもらえないの」
「そんな大げさな話?」
「私には大げさじゃない」
「じゃあ次から言うよ」
「そういうことじゃなくて」
蓮の表情に苛立ちが出た。
「じゃあ何なの?」
美月は言葉に詰まった。自分でもうまく説明できない。
彼女だと言ってほしい。でも、言わせたいわけではない。
蓮自身が。自分を彼女として扱うことを、当たり前だと思っていてほしい。
「もういい」
美月が言った。今度は謝らなかった。
蓮も何も言わなかった。そのあと二人は予定通り買い物をした。
蓮はポーチも買ってくれた。夕食も食べた。
帰りには手もつないだ。でも。
何かが少し変わっていた。翌週。
旅行の日が近づいた。美月は楽しみにしていた。
服を選ぶ。バッグを用意する。
千紘に、
「何持っていけばいい?」
と聞く。
「一泊でしょ?」
「うん」
「そんな持っていくものないよ」
「でも」
「美月、遠足前の小学生みたい」
「うるさい」
二人で笑う。千紘が聞いた。
「最近は大丈夫?」
美月は少し迷った。
「大丈夫」
そう答えた。麻衣と会ったことは言わなかった。
話せばまた心配される。それに。
蓮は約束を守っている。旅行も行く。
自分を大切にしようとしてくれている。そう思いたかった。
旅行の3日前。午後9時。
美月はベッドの上で荷物を確認していた。スマートフォンが鳴る。
蓮。電話だった。
「もしもし」
『美月』
声を聞いた瞬間。嫌な予感がした。
「何?」
『旅行なんだけど』
美月の手が止まった。
「うん」
『ちょっと無理かも』
頭の中が真っ白になった。
「何で?」
『バイト』
「バイト?」
『人足りなくて』
「でも休み取ったって言ってたよね」
『取ってたんだけど、一人辞めてさ』
美月は黙った。
「代わりいないの?」
『いない』
「二日とも?」
『たぶん』
「たぶんって?」
蓮が少し黙った。
『ごめん』
美月は目の前のバッグを見る。新しく買ったポーチ。
旅行用に買った化粧品。服。
「キャンセル料は?」
『俺出すよ』
「そういうことじゃない」
『じゃあ何?』
美月の胸が苦しくなる。
「楽しみにしてた」
『俺もだよ』
「じゃあ」
言いかけて止まる。仕事なら仕方ない。
アルバイトでも、急に人が辞めれば困る。蓮が悪いわけではない。
そう思おうとした。
「分かった」
美月が言う。
『ごめんな』
「うん」
『また行こう』
「うん」
『怒ってる?』
「怒ってない」
『ほんと?』
「ほんと」
『じゃあまた明日連絡する』
「うん」
電話が切れた。美月はしばらく動かなかった。
旅行バッグを見る。片づける気になれなかった。
スマートフォンを取る。千紘へ送ろうとする。
やめた。拓海の名前が目に入る。
指が止まる。以前なら電話していた。
「旅行なくなった」
「楽しみにしてたのに」
「仕方ないって分かってるけど悲しい」
全部聞いてもらった。でも今は。
美月はスマートフォンを置いた。一人で耐えた。
翌日。大学へ行く。
昼休み。美月は食堂で千紘と会った。
「旅行楽しみだね」
千紘が言う。美月は少し笑った。
「なくなった」
「え?」
「蓮くん、バイト入った」
「そうなの?」
「人辞めたんだって」
「それは残念だね」
「うん」
千紘はそれ以上何も言わなかった。美月も普通に昼食を食べた。
午後の講義。スマートフォンは鞄の中。
講義が終わる。取り出す。
蓮から連絡はない。午後6時。
ない。午後9時。
ない。昨日、
『また明日連絡する』
と言った。美月は待った。
午後11時。来なかった。
自分から送る。
『バイト大丈夫?』
既読にならない。美月は眠った。
翌朝。返事が来ていた。
『ごめん寝てた』
美月は画面を見る。
『おはよう』
それだけ返した。昼過ぎ。
千紘からメッセージが来た。
『美月、今電話できる?』
嫌な予感がした。
『できる』
すぐ電話がかかってきた。
「もしもし」
『美月』
「何?」
千紘が少し黙った。
『旅行、バイトでなくなったんだよね?』
「うん」
『佐伯くん、どこのバイトだっけ』
「駅前のダイニングバー」
『今日も?』
「今日から入るって」
電話の向こうが静かになる。美月の心臓が速くなった。
「何?」
『昨日の夜』
「うん」
『私の友達が佐伯くん見たって』
美月は息を止めた。
「どこで?」
『駅前じゃない』
「じゃあどこ?」
千紘は答えにくそうだった。
『隣の市』
美月は立ち上がった。
「何してたの?」
『そこまでは』
「誰といた?」
沈黙。
「千紘」
『女の人』
美月は目を閉じた。
「麻衣さん?」
『分からない』
「写真は?」
『ない』
「じゃあ見間違いかもしれないじゃん」
『うん。だから私もそう思った』
美月は少しだけ息を吐いた。でも千紘は続けた。
『ただ』
「何?」
『その子、佐伯くんと同じ高校だったから』
美月は何も言えなくなった。
『顔は間違えないと思うって』
部屋が静かだった。美月はスマートフォンを握った。
「女の人と何してたって?」
『駅から出てきたって』
「それだけ?」
『うん』
「手つないでた?」
『そこまでは聞いてない』
「じゃあ」
美月の声が少し強くなった。
「それだけなら分かんないじゃん」
『うん』
「友達かもしれない」
『うん』
「バイトの用事かもしれない」
『うん』
「昨日はまだ旅行の日じゃないし」
千紘は何も言わなかった。美月も黙った。
自分が何を必死に説明しているのか分かった。蓮ではない。
千紘でもない。自分自身にだった。
「……ごめん」
美月が言った。
『謝らなくていいよ』
「ちょっと一人で考える」
『うん』
電話を切った。美月は蓮へメッセージを送った。
『今日会える?』
既読になったのは30分後。
『今日バイト』
美月は画面を見た。
『何時から?』
『5時』
『終わるのは?』
『12時くらい』
美月は時計を見る。午後2時。
3時間ある。
『その前に少し会いたい』
返事はすぐ来なかった。10分後。
『今日は無理』
美月はスマートフォンを握った。以前なら。
分かった。そう返した。
今日は違った。
『昨日、隣の市にいた?』
送信。既読。
返事がない。1分。
3分。5分。
蓮から電話がかかってきた。美月は出た。
「もしもし」
『何それ』
最初から苛立った声だった。
「昨日、いたの?」
『誰から聞いたの?』
「いたの?」
『だから誰から聞いた?』
美月の胸が冷たくなった。
「いたんだ」
沈黙。
『友達と飯行っただけ』
「女の人?」
『友達』
「麻衣さん?」
また沈黙。美月は目を閉じた。
「麻衣さんなんだ」
『別に二人じゃない』
「何人?」
『4人』
「男の人もいた?」
『いたよ』
「誰?」
蓮の声が強くなった。
『なんでそこまで説明しないといけないの?』
美月は黙った。その言葉。
何度目だろう。
「旅行」
美月が言った。
『何?』
「本当にバイトなの?」
『は?』
「人が辞めたから、旅行行けないんだよね?」
『そうだよ』
「ほんと?」
『美月さ』
蓮が大きく息を吐いた。
『また始まったじゃん』
美月は目を閉じた。また。
いつも自分が始めることになっている。
「分かった」
美月が言った。
『何が?』
「もういい」
『だから何なの?』
「バイト頑張って」
美月は電話を切った。すぐに着信。
出なかった。もう一度。
出なかった。美月はスマートフォンを伏せた。
涙は出なかった。以前なら泣いていた。
今日は不思議なくらい静かだった。悲しくないわけではない。
蓮が好きではなくなったわけでもない。ただ。
疲れていた。信じるために理由を探すことに。
聞きたいことを我慢することに。疑った自分を責めることに。
優しくされるたび、全部なかったことにすることに。美月はベッドへ横になった。
天井を見る。拓海に連絡したいとは思わなかった。
初めてだった。蓮とのことで苦しいのに。
拓海へ逃げようと思わなかった。これは自分で決めなければならない。
そう思った。翌日。
美月は大学へ行った。蓮からは何度かメッセージが来ていた。
『昨日はごめん』
『怒ってる?』
『旅行はほんとにバイトだから』
『またちゃんと話そう』
美月は読んだ。返さなかった。
昼休み。一人で校舎の階段を下りる。
外はよく晴れていた。学生たちが笑っている。
美月は立ち止まった。自分は蓮が好きだ。
今でも。顔を見れば、きっと心臓が動く。
抱きしめられたら、また好きだと思う。それでも。
初めて。好きであることと。
この人と付き合い続けることは。同じではないのかもしれない。
そう思った。




