第12話 好きだけでは戻れない
蓮と会う約束をしたのは、その日の午後7時だった。場所を決めたのは美月だった。
蓮の部屋ではなく、大学から少し離れたカフェ。人がいる場所で話したかった。
二人きりになると、きっと流される。抱きしめられて。
好きだと言われて。また大丈夫だと思ってしまう。
それが怖かった。美月は10分前に着いた。
窓際の席。アイスティーを頼んだ。
ほとんど口をつけないまま、時計を見る。午後7時。
蓮は来ない。7時5分。
7時10分。美月はスマートフォンを見る。
連絡はない。以前なら、
『今どこ?』
と送っていた。今日は送らなかった。
7時17分。蓮が入ってきた。
美月を見つける。
「ごめん」
向かいへ座った。
「遅れた」
「うん」
美月はそれだけ答えた。蓮が少し意外そうな顔をした。
「怒ってる?」
「今日は話したい」
「分かってん」
蓮が店員を呼び、コーヒーを頼んだ。注文が終わる。
二人の間が静かになる。蓮が先に口を開いた。
「昨日はごめん」
美月は黙って聞いた。
「嘘ついたのは悪かった」
「うん」
「でも、本当に浮気はしてない」
「麻衣さんとは?」
「何もない」
「手はつないだ」
「それは」
蓮が少し顔をしかめた。
「前にも言ったじゃん。一瞬」
「どうして?」
「酔ってたから」
「酔ってたら、女の人と手つなぐの?」
「美月」
「責めたいんじゃない」
「責めてるじゃん」
美月は黙った。以前なら、ここで謝っていた。
今日は謝らなかった。
「じゃあ聞くね」
「何?」
「麻衣さん、蓮くんのこと好きなの?」
蓮が目を逸らした。美月はそれだけで分かった。
「知ってるんだ」
「本人からちゃんと聞いたわけじゃない」
「でも分かってんだ」
「まあ」
「いつから?」
「知らない」
「私と付き合う前?」
「たぶん違う」
「付き合ったあと?」
「だから知らないって」
蓮の声に苛立ちが混じる。美月は怖くなった。
それでも続けた。
「蓮くんは?」
「何が?」
「麻衣さんのこと好き?」
「友達としては」
「女の人として」
「別に」
「じゃあなんで二人でLINEするの?」
「友達だから」
「なんで手つなぐの?」
「だから一瞬だって」
「なんで私に嘘ついたの?」
蓮が黙った。
「私が面倒だから?」
美月が聞く。蓮は息を吐いた。
「正直、そう」
胸が痛んだ。でも昨日ほどではなかった。
覚悟していた。
「美月、全部聞くじゃん」
「全部って?」
「誰といるとか、麻衣いるのとか、何してるのとか」
「それは」
「俺、そういう付き合い方しんどい」
美月は手を膝の上で握った。
「じゃあ」
声が少し震えた。
「私はどうしたらいい?」
「普通にしてればいいじゃん」
「普通って何?」
「俺のこと信じて」
「信じようとしたよ」
「だったら」
「でも嘘ついたじゃん」
蓮が黙った。美月は続けた。
「私、最初からこんなに聞いてなかったよ」
蓮の表情が変わる。
「付き合ったころ、蓮くん毎日LINEくれたよね」
「最初だからだろ」
「会いたいって言ってくれた」
「今も言うじゃん」
「予定もちゃんと決めてくれた」
「だから?」
「今は、当日まで会えるか分からないこと多い」
蓮はコーヒーを一口飲んだ。
「付き合ってたら普通変わるだろ」
「変わるのは分かる」
美月は言った。
「でも私、ずっと蓮くんが機嫌悪くならないようにしてた」
「何それ」
「聞きたいことあっても聞かないようにしてた」
「俺がそうしろって言った?」
「面倒くさいって言った」
蓮は黙った。
「だから、面倒くさくない彼女になろうとした」
言葉にすると、自分でも変だった。
「返信遅くても聞かない」
「誰といるか聞かない」
「会えなくなっても怒らない」
「麻衣さんのことも聞かない」
「電話したくても我慢する」
美月の目に涙が溜まる。
「そうしてたら蓮くん、優しいから」
蓮は何も言わなかった。
「会ったら好きって言ってくれるし」
「抱きしめてくれるし」
「可愛いって言ってくれるから」
涙が落ちた。
「だから、それでいいと思ってた」
蓮の顔から苛立ちが消えた。
「美月」
「でも」
美月は涙を拭いた。
「私、ずっと不安だった」
蓮が目を伏せた。
「俺のこと好きじゃないの?」
その質問に、美月は驚いた。
「好きだよ」
迷わなかった。
「だったら」
「好きだよ」
もう一度言った。
「今も好き」
蓮を見る。
「だから苦しいんだよ」
蓮は何も言えなかった。しばらく沈黙が続いた。
蓮が言った。
「じゃあ、俺どうしたらいい?」
美月は答えられなかった。
「麻衣と連絡取らなきゃいい?」
「……分かんない」
「バイト以外で会わないようにする?」
「それを私が言うの?」
「美月が嫌なんだろ」
「そうじゃなくて」
美月は言葉を探した。何が欲しいのか。
麻衣を切ってほしい。そう言えば簡単だった。
でも。本当にそれだけなのだろうか。
「私が嫌だからやめる、じゃなくて」
美月はゆっくり言った。
「蓮くんが、自分で考えてほしかった」
「何を?」
「彼女がいるのに、別の女の人とどこまでしていいか」
蓮が少し黙る。
「それ、人によるだろ」
美月の胸が沈んだ。
「うん」
「美月には美月の基準あるし、俺には俺の基準ある」
「うん」
「俺は別に、手つないだくらいで浮気だと思わない」
美月は蓮を見た。
「じゃあ私が拓海さんと手つないでも?」
蓮の表情が変わった。
「それは違うだろ」
「なんで?」
「あの人、美月のこと好きなんだろ」
「麻衣さんも蓮くんのこと好きなんでしょ」
蓮が黙った。美月は初めて、その矛盾をはっきり口にした。
「同じじゃない?」
「違う」
「どこが?」
「俺は麻衣のこと好きじゃない」
「私も拓海さんのこと恋愛では好きじゃないよ」
蓮は答えなかった。
「それでも蓮くん嫌だったんでしょ?」
「……うん」
「私も嫌だよ」
美月は言った。
「同じことされたら嫌なの」
蓮はコーヒーカップを見ていた。
「ごめん」
小さく言った。美月はその言葉を待っていたはずだった。
でも。思ったほど嬉しくなかった。
「もうしない」
蓮が言う。
「麻衣とも必要以上に連絡取らない」
美月は黙っている。
「だから、これで終わりにしよう」
「何を?」
「この話」
蓮が美月を見る。
「俺、美月と別れたいわけじゃない」
胸が動いた。
「美月のこと好きだよ」
また、その言葉。何度も救われた言葉。
美月は蓮を見た。好きだった。
初めて食事へ行った日。駅で告白された日。
初めて手をつないだ日。初めてキスした日。
全部覚えている。蓮といると、自分が女の子になる気がした。
服を選ぶ。髪を整える。
少しでも可愛いと思われたい。拓海といるときには感じないものだった。
「美月」
蓮が手を伸ばす。テーブルの上の美月の手に触れた。
美月はその手を見た。以前なら握り返した。
今日は動けなかった。
「もう一回ちゃんとやろう」
蓮が言う。
「俺も気をつけるから」
美月の目からまた涙が落ちた。嬉しいはずだった。
これで元に戻れる。麻衣と距離を取ってくれる。
嘘もつかない。また二人でやり直せる。
「……うん」
美月が言った。蓮の顔が少し緩んだ。
「よかった」
手を握られる。美月も握り返した。
それで話は終わった。二人は店を出た。
駅まで歩く。蓮が手をつないでくる。
美月はその手を離さなかった。
「今度、旅行行こうな」
蓮が言った。
「温泉?」
「うん」
「忘れてたでしょ」
「忘れてないよ」
「絶対忘れてた」
「じゃあ今週決めよう」
美月は笑った。
「うん」
駅へ着く。蓮が美月を抱きしめた。
「好きだよ」
耳元で言う。美月も答えた。
「私も好き」
それは嘘ではなかった。本当に好きだった。
だから美月は蓮と別れなかった。翌日。
千紘と昼食を食べた。
「話した?」
「うん」
「どうなった?」
「付き合うよ」
千紘は驚かなかった。
「そっか」
それだけだった。美月が少し身構える。
「何も言わないの?」
「言ってほしい?」
「分かんない」
千紘は箸を置いた。
「美月が決めたならいいんじゃない?」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「呆れてる?」
「それも違う」
千紘は少し考えた。
「ただ」
「うん」
「次に同じことあったとき、美月がまた全部自分のせいにしないならいい」
美月は黙った。
「佐伯くんを信じるのは自由だよ」
千紘は言った。
「でも、自分まで疑わないで」
「自分?」
「美月が嫌だと思ったことを、嫌だって思っていいってこと」
美月は少し笑った。
「千紘、拓海さんみたいなこと言う」
千紘の眉が上がる。
「それ褒めてる?」
「めちゃくちゃ褒めてる」
「ならいいけど」
二人で笑った。その夜。
美月は拓海へメッセージを送った。
『話した』
返事は10分ほどして来た。
『どうだった?』
『付き合うことにした』
送信。美月は少し緊張した。
拓海はどう思うだろう。30秒ほどして。
『そっか』
それだけ。美月は画面を見る。
『それだけ?』
送る。
『何て言えばいい?』
『分かんない』
『じゃあそれだけ』
美月は少し笑った。でも、何か物足りなかった。
『怒ってる?』
『なんで俺が怒るんだよ』
『呆れた?』
少し間があった。
『美月が決めたならいいんじゃない』
千紘と同じだった。美月はスマートフォンを見た。
『応援してくれる?』
送ってから、少し後悔した。返事はすぐには来なかった。
1分。2分。
拓海から。
『それは無理』
美月は止まった。初めてだった。
拓海が自分の恋愛について、はっきり拒否した。
『なんで?』
返事。
『俺、美月のこと好きだから』
胸が少し痛んだ。続けて。
『別れろとは言わないし、美月が決めたことには口出さない』
『でも二人がうまくいくように応援するのは無理』
美月は画面を見つめた。正しいと思った。
当たり前だった。なのに。
寂しかった。
『そっか』
送る。
『悪い』
『拓海さん悪くないよ』
そこで終わればよかった。でも美月は、もう一つ送った。
『それでも友達ではいてくれる?』
既読。少し長い。
返事が来た。
『今すぐ友達やめるとかはないよ』
美月は安心しかけた。続けて。
『でも前と全部同じは無理だと思う』
美月の指が止まった。
『どういう意味?』
『そのまま』
『電話とか?』
『それも』
『二人でご飯とか?』
『彼氏が嫌がってるんだろ』
『うん』
『ならやめたほうがいい』
美月はしばらく返せなかった。蓮と話して。
やり直すと決めた。それは自分で選んだ。
だったら。こちらも受け入れなければならない。
『分かった』
送った。拓海から。
『おやすみ』
美月は少し驚いた。まだ午後10時半。
いつもならここから話が続いた。
『もう寝るの?』
打った。消した。
『おやすみ』
送った。スマートフォンを置いた。
静かな部屋。美月は天井を見る。
蓮とは別れなかった。好きな人と、もう一度やり直せる。
望んだ結果だった。それなのに。
何かを失ったような感覚があった。
「違う」
美月は小さく言った。失っていない。
拓海は友達でいてくれる。ただ、少し距離が変わるだけ。
それだけ。美月は自分にそう言い聞かせた。
一方。拓海は美月とのやり取りを終え、スマートフォンを机へ置いた。
胸が痛かった。美月は蓮を選んだ。
分かっていたことだった。それでも。
自分が仕事を抜けて迎えに行き。泣いている美月の話を聞き。
最後に美月が戻る場所は、やはり蓮だった。拓海はそれを責めるつもりはなかった。
美月が悪いわけではない。自分が勝手に好きなのだから。
でも。
「もう、これは駄目だな」
誰もいない部屋で呟いた。嫌いになる必要はない。
忘れる必要もない。ただ。
好きだからという理由で、自分の時間も気持ちも際限なく差し出すのは終わりにしよう。そう思った。




