第83話 ★チェックメイト
ユノは闘技場の壁際から、戦況を静観していた。
状況は極めて悪い。
メリッサはすでに二太刀の重い斬撃を受けている。致命傷ではないものの、蓄積したダメージは確実だった。
対するエレオノーラは、未だに無傷。
スピード、技のキレ、威力、そのすべてにおいて全盛期の師が上回っていた。
さらに、あらゆる物理・魔法干渉を無効化する絶対支配領域『キング』。
あの秘奥義を看破しない限り、メリッサに勝ち目はない。
極めて現実的な考え方をするならば、全盛期のエレオノーラに致命傷を負わせて倒すなど、不可能。
だが、おそらくこの古代ダンジョンの『試練』は、メリッサが師から『一本』でも取れればクリアとなるはずだ。
すなわち、誰よりも騎士道を重んじるエレオノーラに『負け』を認めさせる展開を作ること。
それこそが、この絶望的な状況下における唯一の勝利条件だった。
(可能性は限りなく低い。……だが、ゼロじゃない。頑張ってくれ、メリッサ……!)
ユノは心の中で祈るように彼女を見つめた。
しかし、現実は無情だった。その後もメリッサが全盛期の師に圧倒される展開に変わりはなかった。
メリッサが何度立ち上がり、何度決死の覚悟で攻め込んでも、そのすべては悉く返され、潰され、床へと叩きつけられる。
メリッサの息は完全に上がり、肩が激しく上下していた。一方で、エレオノーラは呼吸ひとつ乱していない。
そして、ついにエレオノーラがメリッサを仕留めにかかる。
「戦慄の女王《 クイーン 》」
次の瞬間、エレオノーラの姿が空間から完全に消失した。
ガキィン! と火花が散るその一瞬だけ、エレオノーラが姿を現す。
だが、次の瞬間にはまた消えている。
超高速移動中の彼女は完全に視界から消え去り、捉えることは不可能だった。
メリッサの放ったそれとは次元が違う。
これが、かつて大陸を震撼させた『白銀の女王』の真骨頂たる最大奥義、正真正銘の『クイーン』だった。
無慈悲に展開される、残像すら残さない超高速の連撃。
捌き切ることも、受け切ることもできず、メリッサの身体は幾度も刃に切り裂かれ、ついには空中へと跳ね飛ばされた。
(か……勝てない……っ)
ドサリ、と重い音を立ててメリッサが落下する。もはや受け身を取るだけの余力すらも残っていなかった。
仰向けに横たわり、虚空を見つめるメリッサ。
(圧倒的……すぎる……。常軌を…逸しているわ……先生の強さは……)
それは、誰よりも近くで彼女の背中を見て、その剣技を叩き込まれてきたメリッサ自身が、一番よく分かっていたことだった。
なぜ、挑んだのか。勝てるわけがないのに——
圧倒的な実力差を痛感し、メリッサの心に絶望の影が差す。
「何をしているのです、メリッサ。立ちなさい」
闘技場に、エレオノーラの凛とした声が厳かに響いた。
「……もう……立てません…先生……」
メリッサは息も絶え絶えに、力なく呟いた。全身の筋肉が悲鳴を上げ、指一本動かすのもままならない。
「弱音を吐くことは許しません。あなたは戦士です。さあ、立ちなさい」
エレオノーラは表情ひとつ変えず、冷徹に愛弟子を見下ろしている。
——その厳しくも気高い声に、メリッサの脳裏に古い記憶が蘇った。
かつての稽古場。
朝から晩まで続く厳しい特訓に、まだ幼かったメリッサは「ハァ、ハァ……」と激しく息を切らして床に倒れ込んでいた。
なぜ、先生はこんなにも自分に厳しいのだろう。
なぜ、他のどんな剣士の何倍も、気が遠くなるような鍛錬を積まなければいけないのだろう。
涙を浮かべるメリッサを諭すように、エレオノーラは静かに隣にしゃがみ込み、その小さな手を優しく握ってくれた。
『いいですか、メリッサ。女は強くあらねばなりません。純粋な腕力や体格において、私たちは男に敵いません。
だからこそ、人の何倍も、何十倍も努力して、技を限界まで極めなければならないのです』
エレオノーラは、差別や理不尽、不条理といった、この世界に蔓延するあらゆる不遇をよく知っていた。
だからこそ、愛弟子をどんな境遇にも負けないように強く育てようとしていたのだ。
『これから先、あなたがどうしても勝てないと思うような相手と、対戦することもあるでしょう。
でもね、決して戦いを放棄してはいけません。
心臓が脈打つ限り、どんなに醜くても、どんなに無様でも、最後まで戦いなさい。
勝ちや負けという結果には、大した意味はありません。
大事なのは、その過程をどう生きたか、です。
あなたは誇り高い戦士。絶対に信念を曲げてはいけません。……その気高い精神こそが、本当の美しさなのですから』
そう言って、エレオノーラは優しくにこりと笑ってみせたのだった。
「——っ」
メリッサは震える腕に力を込め、ゆっくりと、しかし確実に再び立ち上がった。
満身創痍。身体中から血が流れ、ボロボロの状態。
だが——その琥珀色の瞳には、決して消えることのない確かな光が宿っていた。
その姿を見たエレオノーラが、わずかに口元を綻ばせたように見えた。
「女王《 クイーン 》!!」
全身全霊。最後の力を、魂のすべてを振り絞り、メリッサは究極の奥義を繰り出して、再度、師に挑む。
「王の領域《 キング 》」
エレオノーラもまた静かに瞳を閉じ、万物の法則すらねじ曲げる究極の絶対支配領域を展開した。
『静』と『動』。
盤上を制するのはどちらか。それは、火を見るよりも明らかだった。
(クイーンでは、キングには勝てない……!)
ユノが思わず目を細める。
しかし——領域に侵入する、まさにその直前。
メリッサは自ら『クイーン』の連撃を強制解除した。
(レイピアを……鞘に収めた!?)
ユノの目が大きく見開かれる。
彼女の脳裏にはこのとき、戦術や戦略などの雑念は存在しない。
策など、弄するに値しない。
思考など、要するに値しない。
ほんの一握りの、道を真に極めた者のみが到達を許される領域。
あらゆる武の極致たる『明鏡止水』という神域。
彼女は確実に、その領域に足を踏み入れたのだった。
「戦車《 ルーク 》!!」
攻撃を捨て、純粋な突進のステップへと切り替え、最後の踏み込みでさらに再加速して領域へと侵入する。
すなわち、この加速自体は移動であり『攻撃』ではない。
それゆえに、あらゆる攻撃を無力化する『キング』の法則をすり抜け、領域内への侵入を果たした。
「入城《 キャスリング 》!!」
それは、キングとルークの配置を同時に入れ替える特殊動作。
メリッサはエレオノーラの懐に飛び込むと同時に、その身体を起点にして、まるで残像を残すようにその背後へと鮮やかに翻った。
「……!」
エレオノーラが驚愕に目を見開く。
気付いたときには、メリッサのしなやかに伸びたレイピアの切っ先が、エレオノーラの首元へ、綺麗に突きつけられていた。
「ハァ……ハァ……。チェックメイト……です、先生」
静寂が闘技場を包み込む。
エレオノーラはゆっくりとレイピアを下げ、本当に嬉しそうに、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「……見事です。本当に、強くなりましたね、メリッサ。——私の負けです」
エレオノーラの敗北宣言。これにより、勝負は決したのだった。




