第53話 ◇フィオナとウンディーネ
どこまでも続く、青々とした草原。
フィオナは一人、その緑の海の中に佇んでいた。優しくそよぐ風が彼女の銀髪を揺らし、頬を撫でていく。
見上げる空は抜けるように青く、穏やかだった。
つい先ほどまで、暗い洞窟の底で命を削り合っていたあのおぞましい悪夢が、まるで嘘のようだった。
フィオナは、ユノが極限状態で編み上げた緊急転移魔法陣によって時空を飛ばされ、命からがら『流星の谷』から脱出したのだ。
(——まさに、神話の聖戦だったわね)
フィオナは、まだ皮膚に残るピリピリとした魔力の残滓を感じながら、あの激闘を回想していた。
黒水の魔女の恐るべき魔力。ただ対峙しているだけで、己の細胞の一つ一つが恐怖によって萎縮していくのが分かった。
それは『星の賢者』として数多の修羅場をくぐり抜けてきたフィオナにとっても、生まれて初めてのおぞましい経験だった。
魔女の結界による制約があったとはいえ、それを差し引いても、あの女の力は圧倒的、かつ絶望的だった。
(あんな化け物を、かつてユノはたった一人で封印したというの……?)
同時に、胸を焦がすような不安がフィオナを襲う。
ユノは無事だろうか。あの狂気の渦から、ちゃんと逃げおおせただろうか。
「——フィオナ様、ご無事で何よりです」
静謐な鈴の音のような声が響き、フィオナの傍らに青い光の粒子が集まった。
現れたのは、知的な眼鏡を輝かせた水の最高位精霊、ウンディーネだった。
「あなた……。ええ、あなたの主に助けられたわ」
フィオナはウンディーネの姿を見て、張り詰めていた緊張感から解放され、ふぅ、と深くため息を吐いた。
ウンディーネがこうして消滅せずに顕在している。
それはすなわち、契約主であるユノが今もなお生存し、無事であるということの何よりの証明だった。
ひとまずは最悪の事態を免れたと、胸をなでおろしていいだろう。
だが、これから先は何を為すべきか。
魔女を再び封印するために、星の賢者たる自分にできることは何か。
はぐれてしまったユノと、どのようにして合流するか。そして、リゼの安否は——
考えるべきこと、不安な要素は山ほどあった。
ウンディーネは、静かに眉をひそめて思考に沈むフィオナの様子を、聡明な瞳で見守っていた。
そして、彼女の焦燥を察してか、淡々と、しかし安心させるように声を掛けた。
「フィオナ様。この草原から北東に進んだ先に、水の都『アクアリア』があります。まずはそこを目指しましょう」
ウンディーネの現実的な提案に、フィオナはハッと我に返った。
そうだ。ここでいくら一人で頭を悩ませていても仕方がない。まずは安全な場所で体制を整え、情報を集めるのが戦術の定石だ。
フィオナは小さく頷いた。
「そうね。おそらく、ユノが最終的に辿り着く場所は一つしかないわ。——大陸の最果ての地に聳える『時の塔』」
ウンディーネも、その言葉に深く同意して頷く。
「私もそう思います。本来の主の力を100パーセントとするならば、先ほどの青年期の姿は50パーセント。
不完全と言わざるを得ません。魔女を完全に再封印するため、そして元の姿に戻るためにも、主は必ず『時の砂』を手に入れに向かうはずです」
「……あれで50パーセントなの? 本当に化け物ね、あなたの主は」
「ふふ、違いありません」
フィオナの呆れたような呟きに、ウンディーネがクスクスと上品に笑う。
しかし、ウンディーネの見立ては極めて的確だとフィオナは感じていた。
感情に流されず、常に一歩先を見て冷静に最適解を導き出す。
ウンディーネとフィオナの意見は、綺麗に一致していた。
神秘の存在、精霊。
これほど頼もしい同伴者もいない。
まるで長年の親友のように、ほんの少し言葉を交わしただけでも、お互いを深く理解できたような気がした。
「ふふ、あなたとは、なんだかすごく気が合いそうね」
「フィオナ様。私も、あなたのような聡明な方と行動を共にできて光栄です」
ウンディーネが静かに、親愛を込めて微笑んだ。
フィオナは水都の方角を見据えた。
「さあ、長旅になりそうね。せっかくだから、『アクアリア』に着いたら、とびきり美味しいスイーツでも食べなきゃやってられないわ」
そう言って、フィオナが一歩を踏み出そうとした、その時だった。
「お待ちください、フィオナ様」
ウンディーネはフィオナを呼び止めると、静かに呪文を唱えた。
刹那、優しく清らかな水の魔力の加護がフィオナの全身を包み込んでいく。
「《 キュア 》」
温かい光がフィオナの身体に浸透し、魔女の激しい猛攻によって負っていた裂傷や、蓄積していた肉体の疲労が、みるみるうちに癒やされて消えていった。
それは、満身創痍になりながらも、身を挺して自分の主であるユノを守り抜いてくれたフィオナに対する、水の精霊からの深い敬意と感謝の表れだった。
フィオナは驚きに目を瞬かせた後、その温もりに胸を打たれ、心からの優しい笑みを浮かべた。
「——ありがとう、ウンディーネ」
絶望の淵から生還した二人は、固い信頼の絆で結ばれながら、水都を目指して静かに歩みを進めるのだった。




