第50話 5941行のコード
そこは、黒水の魔女が支配する絶望の領域だった。
魔女が展開した結界の内部では、世界を構成する法そのものが書き換えられている。
星の賢者であるフィオナが誇る強力な宇宙魔法や重力魔法は、その発動すら許されない。
そんな縛られた空間の中を、意志を持つドロドロとした黒水の触手が、幾重にも、容赦なく襲いかかっていく。
「ふふふ。どうしたの? 星の賢者ともあろう者が、その程度かしら?」
魔女は空中を優雅に浮遊しながら、愉悦に満ちた声を響かせる。
「まだ始まったばかりよ? あはははは!」
「くっ……《 ショック・ウェーブ 》!!」
フィオナが辛うじて空間を圧縮した高密度波動を放つ。
ズガァァァァン!!
激しい大爆発が巻き起こり、結界全体が大きく揺れ動いた。
押し寄せる黒水の触手が一瞬にして吹き飛ぶが、煙が晴れるよりも早く、千切れたはずの黒水は互いに引き合い、瞬時に元の形へと再生していく。
「《 ハイドロ・バースト 》!」
リゼもまた、自身が使える最高位の魔法を展開して応戦する。
しかし、どれだけ撃ち落としても、どれだけ吹き飛ばしても、黒水は次から次へと無限に湧き上がり、キリがない。
(あと、どれくらい……!?)
リゼは背後で無数の魔法文字に包まれているユノを一瞬だけ盗み見た。
ユノは、完全に外界の音をシャットアウトし、人智を超えた超高速演算を続けている。彼の瞳の奥で、幾千、幾万もの呪術コードが明滅していた。
何としても、先生が結界を破るまでの時間を稼がなければならない。
理屈では分かっていても、現実はあまりに過酷だった。
黒水の魔女は強すぎる。彼女は髪一筋すら乱さず、まるで子供の火遊びでも眺めるかのように、余裕の笑みを浮かべたままだ。
(圧倒的、すぎる……っ)
フィオナの美しい顔が、焦燥と恐怖で曇っていく。
数多の強敵を見てきた星の賢者をして、確信せざるを得なかった。
この女は、今まで戦ったどんな相手よりも、間違いなく強い。強さの次元が違う。文字通りの『化け物』だった。
「——終わりよ」
魔女が冷酷に指を弾いた瞬間、視界を埋め尽くすほどの黒水の針が二人を襲った。
「きゃあぁっ!?」
「くっ……!」
鋭い触手攻撃がフィオナとリゼの身体を次々と捉え、二人は激しく吹き飛ばされてクリスタルの床を転がった。
「そうよ、もっと私を楽しませて。ユノが私のものになる、その瞬間までね!」
魔女の歓喜の叫びと共に、攻撃はさらに激しさを増し、まるで嵐のように空間全体に吹き荒ぶ。
(先生を……何としても、守らなければ……! ここを、死守しなきゃ……!)
ボロボロになりながらも、リゼは悲痛な覚悟で再び立ち上がった。全魔力を振り絞り、ユノの前に何重もの光の防壁を展開する。
しかし、魔女の暴虐な一撃が直撃するたびに、ガラスのように脆く、容易く粉砕されていく。
異次元ともいえる魔女の力を防ぎ切ることなど、今のリゼには到底不可能だった。
肉体にも精神にも、刻一刻と致命的なダメージが蓄積していく。リゼの足はガクガクと震え、もはや立っているのがやっとの状況だった。
隣を見れば、フィオナもまた衣装を黒く汚し、かなりのダメージを受けている。
それでも彼女が魔法を撃ち続けられるのは、賢者としての並外れた精神力、ただそれだけで己の肉体を突き動かしているからに他ならなかった。
二人とも、とっくに限界を超えていた。意識が遠のき、世界が暗転しかけた。
その時——
「……第5941階層、解読完了」
ユノの声が静かに響いた。
ユノがゆっくりと目を開く。その瞳の輝きが消えると同時に、彼の周囲を浮遊していた数万の魔法文字が、一斉に粒子となって霧散した。
「——終わった。結界の、すべてのソースコードの解析が完了した」
絶対的な絶望の空間に、大賢者の逆転の数式が、ついに組み上がった。




