第34話 黒水の魔物
「——来たわね、厄介なのが」
走行中の馬車の中、フィオナが窓の外を見据えたまま、低く小さくため息をついた。
直後、周囲の空気が一気に凍りつく。昨夜の黒の教団の時とは比べ物にならない、悍ましく、ねっとりとした邪悪な気配が街道一帯を支配した。
リゼが慌てて窓外を覗き込むと、鬱蒼とした森の奥から、どろりとした『黒い液体』を全身から滴らせた魔物の群れが這い出してくるところだった。
狼や大熊の姿をしているが、その肉体は歪に膨れ上がり、傷口からは絶えず漆黒の水が溢れている。
「な、何ですか……あの不気味な液体は……」
初めて目にする『黒水』の存在に、リゼは本能的な恐怖を覚え、全身を激しい身震いが襲った。
「あれが黒水の魔女の固有魔法よ」
フィオナは冷徹な声で説明を始める。
「黒水はね、触れた者の精神に直接侵食するの。侵食が深ければ深いほど、魂を汚染され、そのまま生ける屍と化すわ。
——こうなると、もう二度と助からない。自我を完全に失い、凶暴化して、肉体の限界を超えた怪物になるの。そうして、永遠に黒水の魔女の忠実な傀儡として操られ続けるのよ」
「そんな……生ける屍だなんて……」
リゼが絶句する中、魔物たちの群れが一斉に咆哮を上げ、馬車へと襲いかかってきた。
「ここで食い止めるわ。リゼ、ユノを見ていて!」
フィオナは馬車の扉を蹴り開け、凄まじい速度で迫る魔物の群れの前に立ちはだかった。
彼女は星詠みの杖を美しく一閃させる。
「《 シューティングスター 》!!」
最高位に位置する宇宙魔法。天空から無数の眩い流星群が出現し、超高速で魔物の群れへと降り注いだ。
ドガガガガッ!と大地を爆破する凄まじい破壊力。閃光と爆煙が辺りを包み込み、フィオナの力が圧倒したかに思われた。
完璧な決着——そう確信したリゼだったが、直後、異変に気づく。
爆煙の向こうで、ばらばらに吹き飛んだはずの魔物たちの肉体が、どろどろとした黒水によって磁石のように引き合い、瞬く間に再生を始めたのだ。
魔物たちの眼球が不気味な赤色に強く光る。
「チッ……」
フィオナが小さく舌打ちした。
「物質を破壊する私の魔法とは、やはり相性が悪い、か」
「フィオナさんの魔法が、通用しない……!?」
リゼは驚愕に目を見開いた。あの伝説の賢者の最高位魔法を受けてなお、再生する怪物。これでは、自分が加勢したところでどうにかなる相手ではない。
押し寄せる黒水の群れを前に、フィオナは馬車の中を振り返り、凛とした声で告げた。
「仕方がないわね。ユノ、馬車から降りて。力を貸して」
リゼの腕の中で、ユノが不思議そうに小首を傾げる。
「え? ボクが?」
ユノが言われるがまま馬車から降りる。
「星よ、巡る因果の歯車を狂わせ、刹那の刻へと導け」
フィオナが突如、厳かな詠唱を始めた。彼女が星詠みの杖をユノに向けると、周囲の重力が急激にねじ曲がり、ユノの身体を囲む時空が目に見えて歪んでいく。
「フィオナさん、何を……っ!?」
リゼが声を上げるが、その時にはすでに、ユノの身体が眩い光の繭に包まれていた。
光の中で、少年の小さなシルエットがみるみるうちに引き伸ばされ、大きくなっていく。
フィオナの《 星の魔法 》による因果の操作。
ユノが自ら止めていた『時』の結界をフィオナの重力魔法で一時的にこじ開け、彼の時間を強制的に進めたのだ。
——進められた時間は、およそ10年。
光が弾け飛んだ。
そこに立っていたのは、8歳の可愛らしい少年ではない。
まだ大賢者の姿には届かないものの、引き締まったしなやかな肢体、鋭くもどこか憂いを帯びた美しい顔立ちをした——18歳の、瑞々しい青年姿のユノ・クロウだった。
大きくなったユノの手が、自身の胸元に触れる。衣服もフィオナの魔法によって、18歳の体躯にぴったりの漆黒の魔導衣へと変化していた。
「……やれやれ」
ユノが気だるげに呟く。
「まさか……星の賢者が禁忌の魔法を使うとはね」
ユノの口から漏れたのは、先ほどまでの幼い声ではない。低く、心地よく鼓膜を揺らす、大人の男としての声音だった。
(か……かっこいい……!)
背後にいるリゼは息を呑み、顔を一瞬で真っ赤に染める。
「文句はあの泥人形どもを片付けてからにして。さあ、行くわよ、ユノ」
フィオナが不敵に微笑む。
18歳となったユノは、前方の悍ましい群れを冷徹な瞳で、静かに見据え、そして微笑した。




